「この人」のことが、ボクははじめ全然見えていなかった。
それは今いるホールがため息が出るくらい広いからでも、大人たちのスーツやドレスのひらひらした裾に視界をさえぎられているからでもない。ボクが気付いていなかっただけで、手を伸ばせば簡単に届くような距離に、たぶん何分も前から彼はいた。
ボクが彼の存在に気付いたのは、まめだらけの手がにゅっと目の前を横切っていったからだ。びっくりして顔を上げたら、目が合った。ボクの近くのテーブルにあったワインのボトルを取ろうとしたらしい。赤いマスクメロンみたいなヘンな帽子をかぶった背の高い男の人が、伸ばしていた手をびくっと止めて、目をまるくしてボクを見ていたんだ。
今だって見られている。この先二度と忘れられなさそうな真っ黒な目が、ボクを見たままぱちぱちと瞬いている。
「え、あれっ……? 見つかっちゃった?」
首を縮めながら、黒目の彼は小声でボクに問う。ボクが頷くと、彼は「へへ、そっか〜」とごまかすみたいに笑った。
彼の後ろでは、金髪を後ろで三つ編みにしたお兄さんが大人たちとしゃべっている。バーをやってるうちのパパがお世話になっているらしいし、何よりネアポリスの有名人だからこの人の名前は前から知ってる。ジョルノ・ジョバァーナさんだ。直接見たのは今日が初めてだけど、思ってたよりずっと若くてびっくりした。
ジョルノさんは雑誌に載ってるモデルみたいに綺麗な顔で、なんだかきらきらしている。オーラってやつなのかもしれない。もしこの人がボクと同じクラスにいたりなんかしたら、先生も友達も女子も、きっとみんなまとめて夢中になっちゃうんだろうな。
ジョルノさんがふとこっちを見た。じろじろ見すぎたかもしれない。ボクはあせったけど、ジョルノさんはちょっとぎこちなく微笑んでみせてから、すぐに視線を戻して大人たちとのおしゃべりに戻った。それだけの動きすらドラマに出てくる人みたいだったけど、よく見るとほっぺたや首のあたりがげっそりしてる気がする。疲れてるのかな。
ジョルノさんのそばに立っている黒目の彼──黒目さんは、ぱっと見武器を持ってるようには見えないけど、雰囲気的にジョルノさんのボディーガードだろう。帽子だけじゃあなく服も派手で、こんな人どこにいたって目立つに違いないのに、今は不思議とジョルノさんの影みたいに見える。一度存在に気付いたボクはさすがにもうこの距離で黒目さんを見失ったりはしないけど、ジョルノさんとしゃべっている大人たちは、すぐそばにいる黒目さんのことはまるで気にかけていないように見えた。
唯一ジョルノさんだけが、話す合間にときどきちらっと黒目さんのいる右隣に視線をやる。そして黒目さんと目が合うと、またすっと他の人のほうに視線を戻す。黒目さんと特に言葉は交わさない。以心伝心て感じで、かっこいい。
黒目さんのほうは退屈なのか、ジョルノさんだけじゃあなく反対側に立つボクのほうもちらちら見てくる。さっきみたいに笑顔ならまだしも、真っ黒い目で真顔で見られるとけっこう怖いなあ。
ボク、目立つのかな。確かにこの場にいる子どもは多くはないけど、親に連れられて来てる子どもはボク以外にも何人かいる。それに子どもっていっても十二歳だし、場違いではないはずなんだけど。ああ、もしかして黒目さん、さっきのワインが飲みたいとか?
「あの」
黒目さんがまたこっちを見たタイミングで、声をかけてみる。大人たちの声にかき消えそうなくらい小さな声になってしまったけど、口の動きを見たらしい彼は気付いてくれた。
「…どしたー? ボウズ」
一瞬の間のあと、ボクのほうに向き直って、中腰になりながら応えてくれる。ボクはジョルノさんがこっちを見ていないのを確認してから、少し黒目さんに寄って耳打ちした。
「ワイン、飲みたいんですか?」
ボクを見てきょとんとした顔になった黒目さんは、すぐに「あー」と苦笑した。大きな手が動いて、帽子越しに頭を掻く。
「いやまあ、飲みたいっちゃあ飲みたいけど」
「こっそり渡します? グラスに注いで」
「気が利くね〜キミ。将来出世するぜ。でもいいや、今は飲めねえしな。好きな銘柄だったもんでつい手が伸びちまっただけ」
肩をすくめる黒目さん。こっそり渡そうかなんて勢いで言ったけど、確かにこの状況ではちょっと無理があるかも。
「そ、そっか。そうですよね……」
もじもじするボクに、黒目さんは「そんなに気ぃ遣うなよ」と歯を見せて笑う。
「貴重な体験ができたからさ、その点でオレはキミに感謝してるんだぜ」
貴重な体験? 感謝? どういうこと?
そう尋ねようとしたとき、どん、と体に何かがぶつかってきた。突然の衝撃に、ボクはバランスを崩して尻もちをついてしまう。
「あっ!!」
慌てた声が降ってくる。青ざめた顔をしたウエイターがこっちを見下ろしている。手に持ったトレイいっぱいに乗せられたグラスの中、透明な液体が大きく揺らいでいる。トレイがぐらっと傾いてこっちにひとつのグラスが倒れてくるのが、スローモーションのように見えた。黒目さんが大きく腕を広げて飛び出してくるのも。
身構えた直後、頭から思いっきり液体をかぶった。冷たくて酒くさい。うう、ワインかなぁ。
顔を腕で拭う間もなく、薄いガラスのぶつかり合う音がして、次に降ってくるものの正体を悟る。ボクは身動きできないまま、ぎゅっと目を閉じた。
ところが、次の瞬間頭に当たったのは、とても軽くて柔らかいモノだった。痛くないし、グラスが割れる音もしなかった。
おそるおそる目を開けてみると、ワインでびしょ濡れの床に白いユリの花が散らばっていた。ガラスの破片はどこにもない。
「きみ、大丈夫?」
真正面から声をかけられて顔を上げると、すぐそばにジョルノさんがいた。一歩引いた場所から様子を見ている大人たちの中でたった一人、高そうなスーツの膝をワインまみれの床について、ボクの心配をしてくれている。
「は、え? あれっ?」
大丈夫ですとかありがとうとかいろいろ言わなくちゃあいけないのに、消えたガラスと突然現れた花びらが気になって言葉が出てこない。いったい何が起きたんだ? トレイに乗ってたのって花瓶だったっけ? いや、違ったよな……でも……んん?
「ジョ、ジョルノ様!! 申し訳ありません!! お召し物が……」
「謝る相手が違うよ」
大慌てしてるウエイターに、ジョルノさんはクールに応える。ウエイターは余計に真っ青になりながらボクに謝ってくれたけど、ボクはまたしても上の空になってしまった。
必死に頭を下げるウエイターとしゃがんだままのボクのそばに、黒目さんが立っている。グラスが倒れかかった瞬間飛び出してきてくれたのを、ボクは見ていた。落ちてきたワインがかからないように壁になってくれたのも、目をつぶる直前に見た。
それなのに、彼の体は少しも濡れてはいなかったのだ。守られたはずのボクだけが頭から濡れている。まるで、遮るものなんて何もなかったみたいに。
「わりぃ、意味なかったわ。でもよ〜ケガとかなくてよかったぜ。あいつのおかげだな」
ジョルノさんのほうをあごでしゃくってからずぶ濡れのボクを見下ろし、黒目さんが眉を下げる。それが次の瞬間にはひょいと持ち上がったかと思うと、何かをつまむ形になった指先がボクの頭のあたりに伸びてきて、一瞬の間のあと何事もなかったみたいに引っ込められた。
「……もうあんまり時間がねえな。おめーと話せて楽しかったぜ少年。なんかバタバタしたけど」
「これからどこか行くんですか?」
「おー。だから……今日帰るまででいいからよ、よかったらそこのオニーサンの相手しといてやってくれ。……ごめんな」
「え?」
「きみ」
黒目さんがボクに背中を向けたのと同時に、部下らしき人に指示を出していたジョルノさんがこっちを向いて声をかけて来た。
「間に合わせで悪いんだけど、着替えを用意するよ」
「あ、ありがとうございます……」
「いったん別室に行こう。ぼくもついでに着替えたいし」
「はっ、はい」
立ち上がって服の水気を落とし、ジョルノさんに続いて歩き出す。一緒に来ている両親にも話は通ってるみたいだったけど、そばを通るときにまるでボクがやらかしたかのように二人してジョルノさんに謝りまくるからそりゃないよと思った。
廊下ですれ違う人はみんなジョルノさんに礼をする。対するジョルノさんは足を止めずに軽く手を挙げてみせたり、ちょっとだけ立ち止まって一言二言このあとの予定の確認をしたり。
シュッカン、ヤキバ、レイキュウシャ──短く交わされるのは聞き慣れない言葉ばかりで、そうだこれはただのパーティーじゃあないんだってことを思い知らされる。人生で初めて出席するお葬式が、まさか知らないギャングのお葬式だなんて思わなかったけど。
意外と大股なジョルノさんに置いていかれないように歩いていたら、頭からひらっと何かが落ちてきた。胸のあたりでキャッチする。白いユリの花びらだった。
ホールにいたときに伸びてきた黒目さんの指を思い出す。あのとき、これに気付いてたってことだよなぁ? そのまま取ってくれたらよかったのに。
──黒目さん、忙しそうだったな。あのあとどこに行ったんだろう。いかにもボディーガードって感じに見えたけど、いつもジョルノさんについてるわけじゃあないのか。
「何か気になることでもあった?」
キョロキョロしているボクに、ジョルノさんは歩きながら親切に声をかけてくれる。大きな目の下に青黒いクマが張り付いて、薄く口紅を塗ったみたいなピンクの唇はカサカサにひび割れている。近くで見る彼はやっぱりすごくかっこよくて、やっぱりすごく疲れて見えた。
『今日帰るまででいいからよ、よかったらそこのオニーサンの相手しといてやってくれ』
黒目さんの去り際の言葉が蘇る。あの人はちょっとボクを評価し過ぎだと思うけど、頼まれたからにはやれるだけのことはやりたい。
とはいえ、相手するって何をしたらいい? 世間話とか? ギャングのボスと?
あ、そうだ。余計なお世話かもしれないけど、伝言をしておこうかな。
「さっきの、ヘンな……変わった帽子のお兄さんが、ワインが飲みたいって言ってました」
「……誰って?」
「あの、背が高くって真っ黒な目で、派手な服のお兄さんです」
ジョルノさんの足が止まった。
「テーブルに置いてあったやつ、好きな銘柄だからって。だけど今は飲めないって我慢してました」
仕事中だから飲まなかったことも、黒目さんの名誉のためにちゃんと伝えておく。
「あのあと出かけていっちゃったけど……あのワイン、残しておいてあげたら戻られたときに喜ぶかも、です」
ジョルノさんは血走った目でボクを見下ろしていた。そしてボクが命の危機を覚えるくらい長い長い沈黙のあと、「ワインね」とつぶやいた。
「覚えておきます」
ホールでそうしていたように、まるで体に染み付いた癖みたいに、今は誰もいない右隣をちらっと見ながら。