一夜の関係

 こちらを見下ろす逆光の烏養が少しぼやけて見えて、武田はずれた眼鏡を直した。
 仰向けの武田にまたがった烏養の身体は引き締まってはいるが、筋肉の割合が多く見かけよりも重量がある。その重みのほぼ全てを受け止めている武田の腰骨は、床に押し付けられてごりごりと悲鳴を上げていた。
 筋肉や脂肪が少ないと思わぬときに痛い思いをするのだと、武田は三十路前の今初めて知った。こんなことなら、彼がよく部員に言うように日頃からちゃんとしたものを食べておけばよかった。戸惑う頭の片隅で一応悔やんでみるが、突然押し倒されてしまった今となってはそれも無意味である。
 言葉の出ない武田に、烏養もまた無言のまま全身でのしかかる。腰の一点にかかっていた重みは分散したが、武田はいよいよ身動きがとれなくなる。大型犬にじゃれつかれた飼い主のような有り様だった。飼い犬にそうするよりもいくらか優しく頭を撫でてやると、烏養はくすぐったそうに目を細める。その頬が赤い理由を、武田は知っていた。
「おかえり、せんせー」
 獣と大差ない体勢とは裏腹にどこか間延びした口調でそう言って、烏養は眠そうにひとつあくびをした。

 職員会議が長引いた武田は、バレー部の今日の放課後練に顔を出すことができなかった。他の教師の一服に乗じて職員室を抜け出した頃にはもう練習は終わっていて、体育館の片付けまですっかり済ませた部員たちが、すれ違う武田に元気よく頭を下げて下校していった。がらんとした体育館の裏手に回った武田は、一仕事終えてタバコを吹かす烏養を見つけて声をかけた。
「烏養君!」
「おー、先生。お疲れ」
 漂う白い煙越しに、烏養はいつもの調子で軽く片手を挙げた。
「お疲れさまです。今日もご指導ありがとうございました」
「おう」
「僕、全然顔出せなくてすみません。終学活が終わってからずっと職員会議で……」
「いーって。本業だろ。今日は特に何事もなかったし。日向がいつも通り派手にコケてたぐらいか。あーあと──」
 練習の様子をいくつか手短に武田に報告した烏養は、「で、俺この後どうしたらいい?」と武田に向き直って言った。今日の練習後、二人で飲みに行く約束をしている。
「会議終わってるんならここで待ってるけど」
「いや、まだしばらくかかりそうで……」
「そうなのか」
「テスト期間前なのでいろいろね……」
「あー……」
 自分の高校生時代を思い出しかけたか、一瞬懐かしそうに目を細めてから、烏養は切り替えるように「じゃあ」と言った。
「俺、先に店行ってそこで待っとくか? 練習終わってんのにあんまりここで長居してるのもアレだし」
「えっ、でも……」
「別に、馴染みの店だから気にしなくていいぞ」
 あそこならこんなこそこそせずにタバコも吸えるしな、と歯を見せて笑う烏養に、武田はほんの一瞬の思案を経て、かばんを探り一人住まいの鍵を差し出した。烏養が怪訝な顔をして、鍵と武田を交互に見た。
「……これって」
「僕の家の鍵です。合鍵は作っていないので、僕が帰ったら烏養君に開けてもらわないといけないんですけど……あっ、場所わかりますよね?」
「わ、わかるけど……」
「僕の家で待っててもらえませんか? 灰皿も置いてますから」
 武田が烏養の目を見てにこやかに言うと、彼は一瞬の間をおいて苦虫を噛み潰したような顔をし、タバコの灰を落としながらぶっきらぼうに頷いた。
「先生ってさぁ……」
「はい?」
「……いや、いいや。何でもない。じゃあ上がっとくから。食いもんとか適当に買うわ」
「ありがとう」烏養の手に鍵を握らせ、武田は笑んだ。「お願いしますね」
 武田が慌ただしく職員室に戻ろうとしたとき、烏養は鍵をジャージのポケットにしまいながら「あんまり遅かったら先に飲んじまうからな」と悪い笑顔で言っていた。
 早く帰らなければと思ったが、そんな武田を嘲笑うかのようにその後も会議は長引いて、武田が携帯電話を開きながら校舎を飛び出したときには九時を回っていた。
 電話はつながらず、メールを送っても返事が来ない。アパートの自室前、チャイムを押しても、ドアをノックしてみても反応なし。烏養を長時間待たせてしまった申し訳なさと、何かあったのではないかという不安と、締め出されたかもしれないという焦りを一気に覚えながらダメ元でドアノブをひねってみると、武田の引くままにすんなりとドアが開いた。室内は明るい。狭い玄関に視線を落とすと、見慣れたスニーカーがきちんと揃えられていた。内側から鍵をかけ忘れたらしい。
「烏養君! 遅くなって本当にごめんなさ……い……?」
 玄関から続く縦長のキッチンとリビングを隔てる蛇腹のスクリーンを勢いよく引くと、リビングの奥に烏養がいた。武田の帰宅には気付いていないようだった。畳んだ座布団を枕に、床に直に身体を横たえて烏養は眠っていた。
 投げ出された手のそばに、付箋と折り目で膨れたコーチングの教則本が伏せられている。ローテーブルの上には、灰皿とスーパーの袋に入った食料品、そしてビールの空き缶が数本乗っかっていた。武田があんまり遅かったので、烏養は宣言通り先にひとりで酒盛りを始めてしまっていたらしい。
 武田は眠る烏養のそばに屈んで、肩を軽く揺すった。小さな唸り声を上げて、烏養が薄目を開けた。ぼんやりとさまよった焦点がぴたりと武田に合った。そして、目を覚ました烏養に声をかけようとした武田は、気付けば寝起きとは思えない身のこなしで床にひっくり返され、流れるようにマウントポジションをとられて、なす術なく逆光の彼を仰ぐ羽目になったのである。

「せんせー、なんか俺に言うことねーの?」
 酒臭い烏養は、武田の頭の脇に両ひじをついて至近距離から詰ってくる。拗ねたように眇められている目の前の瞳は、のしかかられた驚きで頭から吹っ飛んでいた過失を武田に思い出させるには十分だった。体勢の関係で得意の土下座はできないが、武田はしっかりと烏養の目を見つめ返して今一度詫びた。
「すみません! 僕が遅かったから烏養君先に飲んじゃったんですよね……長いこと待たせて本当に──」
「ちがーう!」
「いたっ!」
 眉間にしわを寄せた烏養にぺしっと叩かれた額を擦り、武田は目を白黒させながらずれた眼鏡を再び直した。
「烏養君……?」
「先生んちではよー、おかえりって言われたらすみませんって言うのか?」
「あっ……いや、言いません!」
「じゃーやり直しな。せんせーおかえりー」
「……ただいま、烏養君」
 武田が言うと、烏養はようやくよしというように頷いた。ほんとに遅かったなぁ、と恨めしげに言うので、ごめんね、と短く謝ってから、武田は固めた毛先の流れる烏養の後頭部をそっと撫でた。空いた手で床を押し、覆い被さった烏養ごとゆっくり身を起こす。武田の動きに気付いた烏養が身を離してくれたにも関わらず、それだけの動作で普段使わない武田の腹筋は鈍く痛んだ。
 袋の中の食料品に、手をつけた形跡はない。先に飲みはしたが、食べるほうは武田が帰宅するまで待っていてくれたようだった。つまり空き缶に入っていたぶんの酒は、全て空きっ腹に流し込まれたのだということになる。酒に強くはない身でそんなことをすればどうなるか、烏養自身にももちろんわかっていたはずだ。そびえる銀色の中から中身の残っているものを探し出した烏養が缶をあおるのを見て、武田は困ったように眉を下げた。負の飲酒ではないことはわかっているが、酒好きが過ぎるのも考えものだ。
「ずいぶん飲んだんですね。というか、ずいぶん買い込んだんですね……」
「……うん」
 手元の缶を伏し目に見ながらけだるげに頷いた烏養の顔を、武田は向かいから眺める。説教の気配を察するや否や露骨に口数を減らすのは、酔っていようが変わりないらしい。自分が待たせなければここまで飲むこともなかっただろうという負い目はあったが、それでも一応言っておかなければと、「烏養君」と武田は穏やかに呼び掛けた。
「待たせておいてこんなこと言うのも悪いんですけど……君はあんまりお酒に強いほうじゃないみたいですし、ほどほどにしなきゃダメですよ?」
「んだよー」烏養が唇を尖らせる。「ちゃんと我慢もしたっての」
 烏養はローテーブルから灰皿を取り、「ほらな?」と武田の鼻先に突きつける。武田の顔を映す金属製のそれには吸い殻はもちろん、灰ひとつ乗っていない。タバコを我慢したのだから酒は許せという理屈らしい。屁理屈もいいところだ。しかしヘビースモーカーの烏養がタバコの優先順位を酒よりも下に回したのが意外で、武田は思わず「おお……」と感心したようにもとれる声を上げてしまった。酔っ払いはもちろん都合よく解釈する。得意気な顔をした烏養はもうそれで我慢をする理由がなくなったらしく、軽く畳んで置かれていたジャージの上着ポケットから開封されたタバコとライターを出して、一瞬のうちにフィルターをくわえて火を灯し、慣れた所作で白煙を細く吐き出した。銀色の湖面のようだった灰皿の底に黒い煤が落ちるのを、武田は苦笑して眺めるほかなかった。
 酔いで潤んでふちの赤くなった烏養の目が、すいと煙の行方を追う。距離の近いところにいる武田の眼前を漂ったそれをいつもなら「わりぃ」と手で払う彼なのに、濃霧のようになった煙が互いの顔を霞ませても、烏養は構わずタバコを燻らせ続けた。
「……せんせ、何か食う?」
「いや……とりあえず僕もそれ一本もらっていいですか?」
「え?」
 手にしたタバコとこちらを交互に見て目を丸くした烏養に、武田は「あ、ビールのことです」と補足した。烏養は納得したように頷いて、スーパーの袋の中から新しいビール缶を出して武田に手渡した。
 プルタブを起こし、ぐびりと一口飲む。冷やされてはいなかったが、弾ける苦味は帰り道を急いだ身体に染み入るようだった。
 お疲れさん、と言ったきり、烏養は黙々と吸い殻を増やし続けている。少し荒れた唇がタバコのフィルターをくわえたり離したりするのを、武田もまたビールを飲みながら黙って眺めていた。今日もこの唇を大きく動かして、声を張ってバレー部の指導に当たってくれていたのだろう。その場に居合わせることができなかったのを、武田は悔やんだ。
 顧問なのに申し訳ない、と模範的な謝罪を烏養に伝えれば、きっと彼はあっさり「気にすんなよ」と笑うだろう。では、君を見ることができなくて残念だったと伝えればどうなるだろうか。紛れもない事実だが、こちらを伝える勇気は武田にはない。もし言ってしまえば、烏養は先程よりももっと大きく目を見開いて、言葉を失ってしまうだろう。辛うじて均衡を保っている彼との関係もきっと揺らぐ。新しいタバコに火を点ける烏養から視線を離し、武田はビール缶を空けた。
「なあ、せんせ、先生」
 二本目を飲もうと袋に手を伸ばした武田の袖を、烏養の指先がくいと引いた。若干舌足らずになっている声音も手伝ってまるで生徒に呼び掛けられたようで、武田は思わず烏養をまじまじと見る。金色の髪が眩しい二十六歳は、とろんとした瞳をにいと細めて、くわえタバコの口元を笑みの形にした。
「先生ってさぁ、ニクショクだろ」
「に、にくしょく?」
 肉食。確かに肉は好物だが、烏養が文字通りの意味でそう言ったわけではないことは武田にもわかる。自分からがつがつ想い人に食い付いていくタイプだろうと、そう言われたのだ。他でもない、想い人その人に。かあと顔に熱が集まる。酒のせいにするには、空けた缶の本数が心許ない。武田は自由なほうの手を袋に突っ込み、ぬるくなってきたビール缶を取り出した。
 烏養は容赦がない。視線と薄く笑んだ口元はそのままに、つかんだ袖に身体を引き寄せるようにして、武田との距離を詰めてくる。離れていた体温が、再び間近に迫っていた。Tシャツからのぞく鎖骨までうっすらと赤く染めた烏養が、下から掬い上げるようにこちらを見ている。思わず正座した武田をふんと鼻で一笑した顔ときたら直視に耐え難いいやらしさで、なす術なく真正面から見てしまった武田は動悸した。缶を持つ手に汗が滲む。
「どーなんだよ、肉食なんだろ?」
「い、いやっ僕、そういうふうに言われたことは──」
「じゃあせんせーは、」
 畳み掛けてくるかと思いきや、烏養はそこで言葉を不自然に切った。こちらを見る烏養の顔が、からかうような半笑いから真顔に戻りつつあることに武田は気付いていた。
「……せんせーは、なんでわざわざ俺を家に上げてくれたんですか」
 おどけたふうを装った敬語で痛いところを突かれ、大きく心臓が跳ねた。
 もし居酒屋で君がこんな有り様になっていたら大変だからだと、 言ったところで何の解決になろう。有無を言わさず手渡した鍵で、彼を物理的に手中に入れようとした事実は揺らがない。
 君をどうこうしてやるつもりなんて毛頭なく、ほんのわずかな間でも君を自分のものにできたという密かな自己満足を胸に、日付の変わらないうちにこの檻から解放してあげるつもりでした。
 いざとなれば、すまし顔でそんな大嘘をつくことだってできるだろうと思っていた。ずいぶん自分を過大評価し、烏養を過小評価していたものだ。
「俺が酒にそんな強くねーって、知ってましたよねえ?」
 尋問が続く。烏養は武田が思うよりずっと賢かったのだ。匿われたのを自覚して、わざと酩酊してしまうくらいには。そしてその据え膳を立てるよう仕向けたのは、他でもない武田自身だった。
 体温の移ったビール缶をごとりと床に置いて、武田は今一度烏養を見つめた。焦点のぼやけた瞳と視線がぶつかる。その奥を覗き込もうと目を凝らすと、遮るようにタバコの煙を吹き掛けられた。反射的に顔を背けると、烏養が息だけで笑う気配がした。
「……ヤリたいんだろ、俺と」
 ぞくりとする。自分の欲望は、こんなにも卑猥な言葉に終結するのか。
 否定はできない。しかし烏養の読みからは大事なところが抜けている。男である自分が、同じく男である烏養をどうこうしたいのはなぜなのか。生殖本能など呼び起こされるはずもない関係だ、理由はひとつしかなかった。
「いーよ。明日になったら、俺忘れてるから。何されたーとか、何言われたーとか……何言ったかとか」
 全部、と噛み締めるように付け足して、烏養はタバコを灰皿に押し付ける。じゅ、と火種のつぶれる小さな音にすら負けそうな声量で紡がれた言葉をもって、彼の独壇場は終わった。同時に武田は確信した。烏養もまた、均衡のとれたこの関係を崩さんばかりの感情を、自分に抱いていたのだと。気付かされたというにはあまりにも直接的な言葉で。
「……好きなんだよ、先生」
 武田は烏養の唇を塞いだ。ビールとタバコで味付けされた口内に、ためらうことなく舌を差し入れた。刺すような苦味と裏腹に、合間に洩れる吐息は甘かった。
 雪崩れるように組み敷くと、こちらを見上げた烏養は小さく息を飲んだ。今の彼の目に、逆光の自分はどう映るのだろう。記憶に残ってしまうくらい、怖かったりはしないだろうか。
 武田がそう案じることができたのは実に数秒の話だった。あとはもう乱れる烏養に煽られ酔わされ、浮かされたように、忘れられないくらいに、好きだ好きだと熱く囁くのみだった。