藤色片想い

 六月の雨はぬるくて重い。
 完全下校時刻を報せるチャイムの音を雨粒の向こうに聞きながら、及川徹は体育館裏から動けずにいた。
 セットに軽く一時間はかかる自慢の無造作ヘアはすっかり濡れそぼり、毛先から整髪料の混じった水滴を滴らせている。肩から提げたエナメルはほとんど水を吸うはずがないのに、ずっしりとその重さを増しているかのようだった。
 ぬかるんだ地面に、及川のものより一回り小さな靴跡が残っている。動かない及川に向かってくるものと、離れていくもの。どちらも同じ人物が残したものだが、近付いてくるときまでは及川の恋人だったその人物は、ここから立ち去るときにはもう、恋人ではなくなっていた。
「浮気をする人となんて付き合ってられない」
 恋人だった彼女はそう言った。それを聞いた及川はまたかと思った。浮気なんて一度たりともしたことがないのに、及川の恋が終わるときにはいつも、元恋人たちはあるはずのない及川の浮気を責めるのだった。
 言いがかりだと怒ったことはない。及川は女に執着しない質だった。女相手に食い下がるという選択肢がない。プライド云々ではなく、そういうふうにできている。
 及川にとって女とは、飴に群がる蟻のように、求めずして勝手に寄ってくるものだ。飴が蟻に見捨てないでくれと懇願する必要はない。
「……心外だよ、浮気浮気ってさ」
 靴跡は無数の小さな水溜まりとなって、濁った水面に波紋を広げ続けている。及川はそれを見ることもせず、泥で汚れたスニーカーにじっと視線を落としていた。
 失恋こそ特に堪えなかったものの、身に覚えのない浮気を責められたことはさすがに腹立たしかった。不気味ですらあった。軟派野郎の自覚はあれど、恋人がいるときは、それなりに節度をもって行動していたのに。自分から離れていく彼女たちが何をもって浮気を確信するのか、及川にはわからなかった。
 ぬかるみを踏む音が聞こえて、顔を上げる。水溜まりと化した元恋人の靴跡を避けるのもそこそこに、早足にこちらに近付いてくる姿があった。
「岩ちゃん」
 名前を呟いた及川に、岩泉一は足音で応える。ビニール傘をさしているが、及川のものと同じバレー部のエナメルは、半分雨空の下に晒されて濡れている。ズボンの裾はまくられていて、露わになったふくらはぎに泥水が跳ねていた。
「……何してんだお前」
 及川の正面に立った岩泉は、上半身を思いきり使って大きなため息をついた。
「どこ行ったのかと思ったら。さっさと帰んぞ」
「え!? この状況でまず言うことがそれ!?」
「黄昏るのは勝手だけど、雨に打たれるのはちょっといろんな意味でサムいからやめろ」
「サムっ……!? あーあーやだなデリカシーのない男は! 何があったかも知らないでさ」
 気恥ずかしさに襲われた及川が喚くのをひと睨みでいなした岩泉は、「女々しいこと言うなグズ川」と悪態をついてから、及川の手に開いたままの傘を押し付けた。一瞬触れた岩泉の手がひやりと冷たくて、及川は目を見開いた。
「岩ちゃん……? これ、岩ちゃんの傘?」
「俺がさしてんだからそうに決まってんだろ」
「いやっそうだけど! でも俺がこれ借りちゃったら、岩ちゃん濡れて帰んなきゃじゃん」
「はあ? 貸さねーよ。お前に持たせただけ」
 じろりと見上げてくる岩泉は、いつの間にか肩が触れ合いそうな距離にいた。取り立てて大きいわけでもないごく普通のビニール傘の下で、長身の野郎二人が身を寄せている図。状況を理解した及川は、岩泉の制服に当たっているびしょ濡れのエナメルの肩掛け紐を回して、鞄部分を傘の外に追いやった。
「岩ちゃんと相合傘かぁ。傘持つのは俺なんだね」
「入れてやるんだからお前が持って当然だろ」
「なんだ、岩ちゃんのほうが小さいからだと思った」
「……追い出されたいか? 風邪引いてこじらせて試合見学したいか?」
「イヤデス」
 並んで歩き出すと、一歩踏み出すたび、スニーカーの中から雨水が染み出してくる。雨粒がビニール傘を叩く音が、ばたばたと狭い空間に響いていた。
 乾いたタオルを寄越した岩泉は、それから何を言うでもなく、黙って及川の隣を歩いていた。雨音の中に岩泉の息遣いを聞き取れるだけの静寂が存在していることが、ひどく不思議に思えた。
「……岩ちゃん。俺さ、今日フラれたんだよね」
 岩泉がこちらを見る気配があったが、及川は髪を拭くふりをしてタオルで視線を遮った。岩泉は一言「ふぅん」とだけ言った。
 雨足が強くなってきている。及川は傘を少し岩泉のほうに寄せた。紫陽花通りに入り、湿度を含んだ緑のにおいが濃くなる。
「続かねーよな、お前って」
「そだね」
「だいたい、淡白すぎんだよ。どーせ今回も何も言い返さなかったんだろ」
「うん、まあ」
「だったら最初から付き合わなきゃいいのによ。さっさと本命決めろっての」
 及川は黙った。
 相手のふちをなぞる程度の付き合いをせずに済むのなら、及川だってもちろんはなから本命と付き合いたい。愛くるしい笑顔を浮かべて寄ってくる女子の中に、本命と呼べる子がいればどれだけよかったか。
 及川の本命は、絶えず寄ってくる女子よりもさらに近いところにいる。及川が飴ではなく石ころだったとしても、きっとその人物は何食わぬ顔で及川のそばにいる。甘さばかりに惹かれる蟻とはわけが違っていた。
 それだけ近くに本命がいながら、及川はどうしても手を伸ばせなかった。結ばれたときの嬉しさではなく、結ばれなかったときの悲しさばかりが、大きな不安となって及川の中で渦巻いていた。
 決して悲観的ではない及川の読みでも、結ばれる可能性は限りなく低い。失恋した挙げ句今の関係までもが崩れてしまったら、冗談抜きに及川は生きていける自信がなかった。
 及川徹は本命しか愛せない。しかし、一途というにはいびつだった。及川を見限った元恋人たちは、その歪みを見抜いていた。自分は一番ではないと悟って、及川に浮気者の烙印を捺して去っていったのだ。
「ねえ岩ちゃん」
「なに」
「好きな子がいながら違う子と付き合うのって、浮気とは違うよね?」
「……よくわかんねぇ、けど」
 岩泉の足が水溜まりを蹴った。
「お前にはそういうグズグズしたことしてほしくねーな。殴りたくなるし」
 タオルを頭からかぶったまま、及川はそっと岩泉を見た。しっとりと色付いた紫陽花を、岩泉は見ているようだった。
 こちらを向かせる術を、少しでも増やしたい。そう思い続けるうちに、どれほどの年月が過ぎていっただろうか。むなしい交際を何度繰り返してきただろうか。
「……じゃあ俺、今日から頑張ろうかなあ。ちゃんと好きな子と付き合えるように」
 他の誰と付き合っても自分をごまかすことはできなかったし、何より本命のひとが、及川の形だけの恋愛ごっこをよしとしなかった。してほしくないと言われたことを続ける意味はない。腹を括るより先に、及川の口は言葉を発していた。岩泉がこちらを向いてくれた。
「勝手にどーぞ」
「冷たい!」
「つーか何だよ今日からって。まず好きな奴見つけなきゃ意味ねぇじゃん」
 可笑しそうに笑っている岩泉は、何も知らない。及川に昔からずっと変わらない本命の相手がいることも、それが誰なのかも。少しくらい自覚していてくれたほうがやりやすいのにと及川は思うが、バレー以外のことに関しては基本的に岩泉は鈍い。
「バカだな、岩ちゃんは」
「んだと?」
「あ、岩ちゃんち着いたらさ、シャワーと着替え貸して。俺でもちゃんと着れるやつね」
「ないから全裸で帰れ。シャワーは浴びていい」
「中途半端にデレるのやめて!」
 頑張るのは宣言通り、今日からで間違いない。
 及川は傘を持ち替えて、じゃれ合いのどさくさに紛れて岩泉の手を取った。ひやりとしていて柔らかくもない、男の手。昔は何の躊躇もなく、息をするより簡単に繋ぐことができていた手。
「そっちに傘持ったら俺が濡れるだろ」
 岩泉は怪訝な顔をしつつもそう言って、迷惑そうかつ不本意そうに及川に身を寄せてきた。
 そのまま紫陽花通りを抜け、住宅街を歩き、岩泉家の玄関でようやく手を離したとき、岩泉は「お前、手汗かきすぎ」と呆れたように言った。
 振り払われなかった安心感と手汗を指摘されたみっともなさに翻弄され、及川は傘の水気を切りながら「うるさいなぁ」とだけ返す。傘の先から滴る雨水を見ながら先は長いとため息をついたこのときの及川には、背後で一度手を握って開いた岩泉の表情なんて、知る由もなかった。