飯田天哉は頼られるのが好きだ。
何か頼まれればたいていのことは引き受けるし、引き受けたからには最後まで責任をもってやり遂げる。面倒見のよさと真面目さが過ぎて、ズレているとか堅物だとかと渋い顔をされることも多々あるが、それでも何かと飯田を頼る者は多かった。
一番上の長男なのかとよく問われるが、飯田は家庭では弟の身分である。下はおらず、上に年の離れた兄が一人。インゲニウムの名で若くしてヒーロー事務所を立ち上げた優秀な男だが、傲ることなくいつでも謙虚で朗らかだった。兄さん兄さんとついて回る飯田にも優しく、おまえみたいなできた弟に憧れてもらえて嬉しい、おまえに憧れられるということは俺はすごいヒーローなんだろうなと、必ず飯田を褒めたうえで賞賛の声を受け取ってくれた。
そんな兄だったし、両親もまた、飯田を伸ばす接し方をしてくれた。運動神経も学力も小さい頃から周りより頭ひとつ抜きん出ていた飯田を、彼らは褒めるだけでなく、頼ってくれた。
「ありがとう、天哉」「天哉がいると助かるわ」「昔の俺よりずっと頼もしいからな、天哉は」──こうして健やかに育まれた自尊心は、飯田を自然と頼られ好きにした。ステイン戦で一度は大きく揺らいだが、培われた礎は頑強だった。むしろ、周りのために動こうとする意志がそれでより強まったと言ってもいい。
「飯田、今日の夕食後空いてるか? 数学を教えてほしいんだが」
だから今日の終礼後、す、と寄ってきて声をかけてきた轟にも、飯田は「いいよ、もちろん」と快く応じた。頼ってきてくれたこと自体はもちろん、ヒーロー殺し騒動以来距離の縮まった轟がそうしてくれたということが嬉しかった。
しかし約束を取り付けたまではよかったが、勢い余って「では、俺が君の部屋に行こう」と申し出てしまったのは間違いだったかもしれない。這い上がる不穏な感覚をやり過ごすように、飯田は唇を噛んだ。これに関しては、相手が轟でなければ何の問題もなかったのだが。
「……ああ、なるほど。この向きだと、範囲はこうなるのか」
轟の部屋。
テキストにある不等号の向きをシャーペンでなぞって納得したように呟いた轟が次の問題に取りかかるのを、飯田は隣で見守っている。雄英に特待生として入学している轟は、もともと成績優秀だ。だから基本的には轟が一人で問題を解いていって、詰まったところで飯田が教えてやるという、個別指導塾のような方式になっている。ちなみに飯田自身は夕食前にさっさと同じ範囲の復習と宿題を仕上げ、明日の学校の準備まで済ませてきている。心置きなく轟に付き合えるはずだったのだ。
「説明がうまいんだな、飯田」
「……そうかい?」
「得意なのか、こういうの」
「わからないが、数学は好きだな。答えがはっきりしているし。だから説明もしやすいのかもしれない」
「そうなのか」
シャーペンを走らせながら少し感心したような相槌を打ち、轟は無造作にノートを払う。消しゴムのカスが、轟の膝にぱらぱら落ちた。ひとつしかない座椅子を客だからと飯田に譲り、彼が畳に直に正座してからおそらく三十分は経っている。テキストとノートを交互に見る色違いの両目は、未だ涼しいままだ。飯田はそっと息をついた。
轟の部屋は和室である。実家が日本家屋だったためフローリングは慣れないらしく、この寮に入って早々自室を和室にリフォームしたとのことだ。カーテンも障子に替えるという徹底っぷりで、これには匠もびっくりといったところである。
和室は趣があっていい。だが、飯田は苦手だった。特に他人のテリトリーである和室は。
実家の和室はまだよかった。「天哉は無理しなくていい」と、飯田を甘やかしてくれる人間しかいなかったから。続く言葉はいつでも「よそではきちんとするように」だった。でも、普段していないことをよそでできるかというと、なかなかうまくはいかないものだ。
(ま、まずい……)
平たいクッションの敷かれた座椅子の上、慣れない正座をした飯田の脚は限界を迎えかけていた。
個性であるエンジンを備えたよく発達したふくらはぎには、金属に似た質感の排気筒が並んでいる。正座をすれば脚の血管に強い圧がかかり、常人の数倍の早さで末端部に血が通わなくなる。すでに飯田の裸足の足の裏は真っ白になり、一切の感覚を失いつつあった。
それに加え、硬い排気筒が押し付けられた太ももの裏が脈打つように痛み始めている。丈のあるズボンを履いていればまだましだったのかもしれないが、気を抜いて薄手のハーフパンツに着替えてきてしまっていた。
初めに轟に事情を話しておけば、心苦しくも脚を崩して座ることもできたかもしれない。しかし部屋の主である轟がさっさと正座で座ったものだから、生真面目な飯田はもうそれに倣って自分も正座をするしかなくなってしまった。そうでなくても飯田には「よそではきちんとするように」の言いつけが染み付いているので、場所を轟の部屋に指定してしまった時点で飯田のこの宿命は決まっていたようなものだった。
この状況を少しでも改善しようと、飯田はほんのわずか尻を持ち上げ、ふくらはぎが腿の裏に当たる位置が少しずれるように座り直した。
が、逆効果だった。刺激が引き金となってかゆみにも似た強烈なしびれが足を襲い、飯田はたまらず呻いて脚を崩した。
「う、ぅ……」
「飯田? どうした」
「あ! ごめ、大丈夫だ……ちょっと足が……痺……ッ!」
手を止めてこちらを見た轟になんとか笑いかけようとするも、暴力的な痺れに背筋まで震えてしまう。脚に触れることすら恐ろしい。机に両手をついて黙り込む飯田の足元を、轟がひょいと覗き込んだ。
「そうか……おまえ、個性のせいでしにくいのか、正座。最初から崩して座りゃあよかったのに」
「い、いや、そういうわけには……」
「赤くなってる、ここも」
轟が指した先を見てみると、腿の裏に、押し付けられた排気筒の跡が赤い円となってくっきりと残っていた。片足につき綺麗に六つ。そこは痺れてはいないが、じりじりとした痛みが付きまとっている。あまり晒さない部分を轟が凝視しているのが恥ずかしくて、飯田はハーフパンツの裾を少し引き下げた。
「脚、伸ばせるか?」
「っ」
轟の言葉を受けてそろそろと膝を伸ばそうとするが、動かない。兄さんはこの先ずっとこうなのか、と今思い出したくないことまで頭に浮かんでくる始末で、飯田はやりきれない気分で首を振った。その動作は、そのまま轟に「伸ばせない」という意味合いで伝わったらしい。根が親切な轟はシャーペンを置き、体ごと飯田に向けた。ちなみに彼は正座をしたままである。
「アキレス腱の辺りを揉むといい」
「さ、触るのか? 足を!? む、むりだ」
「じゃあ俺がやってやる。いくぞ」
「えっ!? ま、待ってくれ、轟く」
制止の声も虚しく、あっと思ったときには轟の手が伸びて、排気筒の並ぶふくらはぎの少し下の部分に触れていた。くっきりと浮き出したアキレス腱を軽く握るように押し込まれ、びくんと体が跳ねる。くすぐったさとむず痒さに同時に襲われ、飯田は唇を戦慄かせて身を捩った。過ぎる刺激にうっすら涙まで滲んでくる。
「ぁっ、や、やめ、てくれ……っ! う、ぁあっ!」
「ちょっと我慢しろ。ここ揉むと血流がよくなるんだよ」
「ひっ、ぁあ”!」
反対の足も揉まれ、掠れた声を上げてしまう。机に上体を這わせるようにして逃げようとするも抱え込むように引き戻され、しぶとくほぐされる。炎の力を秘めた左半身に押さえ込まれ、体にじわりと汗が滲むのを感じた。熱と痺れに気が狂いそうになりながら、飯田は机に額をつけて耐えた。轟の指が時折ふくらはぎの排気筒を掠めていたが、声こそ上げても指摘する余裕などあるはずもなかった。
「……引いてきたか?」
「ん……」
永遠とも思える時間が過ぎた頃、轟に声をかけられた。ずれた眼鏡を直しながら、足首から先を動かしてみる。いつの間にか痺れが消えて、足の感覚も戻ってきていた。大きくひとつ息をついて、飯田は体勢を整えた。さすがに今度は脚を崩して座る。
額に張り付いた前髪を払って、轟を見た。もがく飯田を押さえるのに疲れたのか、彼もまた息を弾ませていた。
「治った、みたいだ。ありがとう轟くん! すまない……!」
指先まで揃えた両手をぱんと合わせて頭を下げれば、轟もまた前髪を直しながら「いいよ」と短く言った。彼の脚も自分同様崩れているのを見て、わけもなくほっとする飯田だった。
「痺れたらここを揉めばいいのか……覚えておう。詳しいんだな、轟くん」
「ああ。俺も昔はよくしびれてたからな」
やはり慣れなのか、と一人で頷いている飯田を轟は机に頬杖をついて見ていたが、ややあって、やけに神妙な口調で「おもしろかった、おまえ」と言った。ぱっと赤くなって「からかわないでくれ、必死だったんだから!」と返した飯田だったが、「だって」と続けた轟のその後の言葉に、二の句が継げなくなってしまった。
「痺れてないとこ触っても、いちいち反応するからよ」
そこにも感覚があるんだな。
表情を変えないまま言う轟を呆けたように見ていた飯田は、彼の指差すふくらはぎの排気筒に視線を落とす。そこをなぞっていた轟の指の感触が今になって蘇ってきて、下腹のあたりがぞくりとした。
物心ついたときから付き合ってきている個性だが、要はふくらはぎに穴が空いているわけだ。自分でもじっくりと眺めるのはなんとなく気が引けたし、必要以上に触ることもなかった。
だからなのだろうか。轟にどさくさ紛れに触れられて、過剰に反応してしまったのは。轟の体が離れたのに、いつまで経っても顔が熱いのは。
「わ、わざと触っていたのか?」
「最初掠ったのはたまたまだ。でも、そっから後はわざとだった。……嫌だったか?」
轟がそこでほんのわずか眉を下げて尋ねてくるものだから、飯田は喉まで出かかっていた「意地が悪いな君は!」という言葉をぐっと飲み込まざるを得なかった。
「……べつに、嫌では、なかった、が」
「ならよかった」
飯田の切れ切れの言葉を最後まで聞いてから、轟は安堵したように言った。それから何事もなかったかのように机に向き直り、シャーペンを取って、数学の問題の続きを解き始めた。
足の痺れを治してもらっておいてなんだが、なんというマイペース。飯田はどこか釈然としない気分になったが、気を取り直して轟の見守り体制に戻った。
シャーペンが紙を叩く音は淀みない。もう飯田の説明は必要無さそうだ。ノートの紙面を眺めていると、轟がテキストをめくりながら「……なあ」と呼び掛けてきた。
「ん、なんだ? 何番だ?」
「いや、わかんなかったわけじゃねえ。これが終わったら」
パキ、とシャーペンの芯が折れた。
カチカチとノックを繰り返しながら、いつもの何でもないような顔で、轟は続けた。
「おまえの個性、もうちょっと見せてもらいてえ、かも」
飯田天哉は頼られるのが好きだ。
何か頼まれればたいていのことは引き受けるし、引き受けたからには最後まで責任を持ってやり遂げる。
だから今回も、そうするというだけの話だ。間違っても、髪の隙間からのぞく轟の赤い耳にほだされたからではない。先ほどの痺れとはまた違う疼きが、いつまでもふくらはぎの辺りで燻っているからでは決してない。
「……いいよ、もちろん」
飯田は小さく頷いた。
そして、あとは息を詰めて見つめていた。轟が何度もシャーペンの芯を折りながら、最後の問題を解いていくのを。