見慣れたキッチンカウンターの片隅に、見慣れない黒い物体がちょこんと置いてある。水を注いだコーヒーメーカーのスイッチを入れてから、オレはちょっと腰を屈めて、その物体を間近で見た。
ぬいぐるみだ。ぴんと立った三角耳から見るに、多分こいつは黒猫だろう。黒い布地なのに瞳と鼻も真っ黒なボタンでできていて、刺繍で表現された口まで黒い。ジャッポーネのアニメ映画で見たことあるしゃべる黒猫みたいに、赤い首輪がついてるわけでもない。ぬいぐるみのわりにずいぶんそっけないというか、無骨な作りだ。
そっと持ち上げてみると、中指くらいの長さのしっぽが重力に従って垂れる。伏せをした形に作られている胴体にはビーズが入っているみたいで、意外とずっしりとした重みがあった。
「いいでしょう、それ」
カウンターの内側からひょいと顔を覗かせたジョルノが、オレの手元を見て言った。ジョルノのほうの手元にはりんごとナイフがあり、シャリシャリと小気味よい音を立てながら現在進行形で赤い皮が剥かれている。よそ見してても手を切らないのは、オレのピストルズが危なっかしい刃先を舵取りしてやってるおかげだ。
「昨日からあったっけ?」
「ええ、昨夜からここに置いてましたよ」
「マジで?」
昨日オレは外回りの仕事に出ていたんだが、ちょっと相手がゴネたもんで帰宅が遅くなった。なんとか片付けて、本部から先に帰っていたジョルノに拾われてアパートに戻ったときには、もう日付が変わっていたはずだ。すぐには寝ず、ダイニングのテーブルで一杯ワインを飲んだのに、そばのカウンターにあったというこのぬいぐるみには気付かなかった。まあオレも疲れてたし、こいつがあまりにも真っ黒なせいでもあるだろう。キッチンの電気が消えてたらそれだけで暗闇に紛れちまいそうだもん、ニンジャみたいに。
それにしても……ジョルノもついにぬいぐるみを部屋に飾ったりするようになったか。おおかた誰かにもらったんだろうが、以前のジョルノならそれが安全なものだとわかっても受け取りすらしなかったはずだ。感受性が豊かになっていってんだなあ、それをリアルタイムで見守れるのは最高にハッピーなことだなあ、なんて親みたいな感慨にふけりながら、オレはカウンターの上に両腕を重ねて組んで寄っかかる。
「こんなもん誰がくれたんだ?」
まさか野郎じゃあないだろうし、ジョルノが警戒せず受け取る相手で女といったらトリッシュとかシーラEあたりだろうか。でもあいつら、ぬいぐるみなんてジョルノに贈るタマかなぁ。
重ねた腕に顎を乗っけて返事を待つオレに、ジョルノは長くつながったりんごの皮を捨てながら予想外のことを言った。
「もらったんじゃあないですよ。買ったんです」
「買った!? おまえが!?」
「うん、ぼくが」
「……おまえが?」
「だからそうですって」
剥き身になった黄色いりんごを切り分けながら、ジョルノは涼しい顔で応える。
「マジで?」
「しつこいな」
感情の赴くまま何度も聞き返していたら、とうとう顔を赤くしたジョルノに睨まれてしまった。
いやあだって、びっくりするじゃあねーか。もらったものをジョルノが飾るなら微笑ましいなぁで済むが、こうして飾るためにジョルノ自らぬいぐるみを買ったって? 普段はちっちゃい観葉植物ひとつ買わない、とことん無駄嫌いのジョルノが?
「なんかワケありのぬいぐるみとか?」
切られたりんごの乗った皿をカウンター越しに受け取る。続いて二つのカップを受け取りながらそうきいたら、ジョルノは頬に赤を残したまま「そんなに変ですか? ぼくが普通にぬいぐるみ買うのって」とぼそぼそ言った。
「たまたま雑貨屋で見つけて、かわいいなと思ったから買った。それだけの話です」
「ふーん……」
ポットの中に出来上がったコーヒーをカップに注ぎながら、カウンターの端に戻したぬいぐるみを改めて見てみる。
けっしてブサイクじゃあないけど、もっとかわいいぬいぐるみなんてごまんとある。どこもかしこも真っ黒で、顔立ちもろくにわからないようなこの黒猫のぬいぐるみの、いったい何がジョルノの心をつかんだんだろう。
少なくともオレは、かわいかったから買ったって話のあととってつけたみたいに「それだけの話です」だなんて言うおまえのほうが、よっぽどかわいいと思うけどなあ。
そう言ってやってもよかったけど、クールっぽく振る舞うジョルノに「かわいい」とか言っちまうと高確率でめんどくさいことになるのはよく知ってる。だからオレは、ダイニングに出てきてテーブルについたジョルノに、ぬいぐるみについての感想だけを正直に伝えることにした。
「そんなにかわいくなくない? そいつ」
「そう? まあレジの店員にも同じようなことを言われましたけど。ぼくにとってはかわいいんで」
椅子に座ったそばから少し腰を浮かせて、ジョルノがカウンターからぬいぐるみを取る。淡い色をしたジョルノの手の中に収まると、ぬいぐるみの黒さは悪い意味でいっそう映えて、より得体が知れないものに見えた。なんだっけなぁ、それこそジャッポーネのアニメ映画で見たことあるなぁ。古い家の隅っこに湧く黒いウニみたいなやつ。あれはもっとつぶらな目をしてて、誰が見たってかわいいと思えるような愛嬌があったけど。
くし切りのりんごにフォークを刺し、かじる。シャリッとしっかりした歯ごたえがあって、オレ好みのりんごだ。それなのに、なぜかいまいちテンションが上がらない。二口で食べきって、オレは果汁に濡れたフォークでぬいぐるみを示す。
「そいつさぁ」
ふてくされた声が出た。よくわからんが、ジョルノがご執心であると明らかになったこのぬいぐるみに、妙にイチャモンつけたくなる自分がいる。
「目の色がよくねーと思うんだよ。普通黒猫の目って黄色か緑だろ? 黒ってなぁ〜」
「別によくないですか? ぬいぐるみなんだから」
「体の色と馴染んじゃって、どんな顔なのかよくわかんねーじゃん。鼻と口まで黒だしよ」
「近くで見たらわかりますよ。ほら」
「どれどれ……あーほんとだ、ずいぶんふてぶてしい顔してやがるなぁ」
「そこがいいんです」
「なーんか姿勢はダラッとしてるしよぉ。くつろぎてえのかガン飛ばしてえのかどっちなんだよって話だよ」
「……そうですね? ふふっ」
相槌を打ってたジョルノが、そこでこらえきれないように短い笑い声を漏らした。オレは思わず口をつぐみ、ぬいぐるみからジョルノに視線を移す。ジョルノは嘲笑でも冷笑でもなく、目元の緩んだ穏やかな笑顔を浮かべている。オレは少し面食らった。気に入って買ったぬいぐるみにダメ出しされて怒るならともかく、おまえはなんでそんな微笑ましそうな顔で、オレを見てるんだ?
ジョルノは目を伏せ、機嫌よさそうにコーヒーをすする。それからちょっとぬいぐるみを持ち上げ、向かいからオレを見て、「終わりですか?」と言った。込められたニュアンスが「言いたいことはそれだけか?」じゃあなく、「もうおしまいなの?」であることは明らかだった。変な話、オレがもっとこのぬいぐるみについて何か言うのを期待してるみたいな、そんな響きがあった。
「まだあるに決まってんだろ」と挑発に乗ればジョルノの思うつぼだし、かといって「はいもう終わりです」なんて言ってやるのも癪だ。オレは黙って、二つ目のりんごにフォークを突き刺した。ふふ、と、またジョルノが吐息で笑った。
「きみに似てるなと思って買ったんですよ、このぬいぐるみ。一目惚れでした」
さらっと告げられた言葉に、フォークを口元に運ぶ手が止まった。りんごを食べるために開けていた口から、「は?」とマヌケな声が出た。
「瞳が真っ黒だし、のびのびしながら睨みをきかせてるような顔してるのも、きみっぽい。毛が黒いのも一緒だ」
ジョルノの手が伸びてきて、帽子の隙間に指先が差し入れられる。もみあげのあたりを触られた感触があった。もう片方の手はぬいぐるみを持ったままだ。強く握らず、ほとんど手を添えてるだけなのが見てわかる。帽子の中では、同じくあまり力の込められない指先が、オレの耳をなぞっている。ぬいぐるみにオレを重ねてるのか、それともその逆なのか。ぬいぐるみを買ったときは前者だったんだろうが、今となってはどっちなのか、ジョルノの手付きからは読み取れない。そのくらい、ぬいぐるみに触れるジョルノの指先は目に見えて優しかった。
「きみも気に入ってくれればいいと思ったけど……まさかそんなにイチャモンつけてくるなんて。残念だな」
どう見ても残念そうなんかじゃあない顔で、いけしゃあしゃあとジョルノは言う。「妬いてくれて嬉しいです」って、ここまではっきり顔に出るヤツも珍しい。
「よく言うぜ。最初っからオレに妬かせるために買ったくせに」
「えっ」
そのくせ、余裕ぶった顔を睨みながら低くそう言ってやったら、目に見えて顔色変えて、慌てて弁解を始めるんだ、こいつは。
「ミスタ! それは違います! 買ったのは本当に、きみに似ていてかわいいなって思ったからで……!」
「へーへー、そうですかあ」
適当に聞き流してデコでも突っついてやろうとしたが、できものひとつない肌に触れる直前で気が変わった。大事そうに持たれたままのぬいぐるみのデコを、オレは思いっきり弾いた。ぼすっ、と爽快感のない音がして、ジョルノの手の中で少しだけぬいぐるみの角度が変わる。
「あ! 何するんですか!」
ジョルノがおおげさなくらい不平そうな声を上げ、かばうようにぬいぐるみを引っ込める。その拍子に、帽子の下に潜り込んだままのジョルノの指先が、かりっと音を立ててオレの耳の裏のあたりを引っ掻いた。
「いてっ」
「あ」
ジョルノは少し目を見張って、引っ掻いたところを確認するように帽子をめくろうとする。多分傷にもなってない。オレはフォークが刺さったままのりんごを皿に戻し、ジョルノのその手をそっとつかんだ。引っ張り出して、両手で包む。ぱちぱち瞬く綺麗な瞳を、真正面からじっと見つめる。
ジョルノ、何て言ってほしい?
「いつも本物がそばにいるのに、なんでわざわざぬいぐるみなんて買って、これみよがしに愛でるのよぉ〜!」って、かわいく拗ねながら言ってほしい? おめーより三つも年上の、かっこよくて頼れるこの彼氏様に。おまえに女々しいところなんて1ミリだって見せたくない、このオレに。
言ってやらねーからな。絶対に。思ってたって言ってやらねー。ただ、何かおめーに言ってやらないことにはオレの気が済まない。さっきからずっと、どうやっても手の届かない胸の奥の奥が、ジリジリ焦げてくみたいに疼いて気持ち悪い。
ジョルノのそばに引き寄せられた、黒猫のぬいぐるみを見やる。その体には、相変わらずジョルノの薄い手のひらと長い指が触れている。ふんと息をついて、ジョルノに視線を戻した。
「いくらオレに似てるっつったってよお〜、そいつはしゃべれねーし、こうやって自分からおまえに触ったりもできねえわけだよなぁ?」
握った手に少し力を込めながら、平らな声で言ってみる。ジョルノは「そりゃあそうですけど……」と困惑したようにつぶやいたが、明らかに目が笑ってる。ちくしょう。奥歯を噛み締めると、さっきジョルノの爪が掠めた耳裏がちりっと痛んだ。
「それだけじゃあねー、ぬいぐるみはおめーと一緒に仕事もできねーし、デートもできねーし、キス……はまあできなくもないけど──あっ、セックスだってできねーじゃあねーか!」
ジョルノの口がぽかんと開く。いたたまれなくなってきて、オレは冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
失敗した気がする。いや、こっから「オレなら全部できるぜ!」って締めんのダサすぎねえ? わかりやすく妬いてやったほうがまだカッコついたんじゃあねーか?
ピストルズに騒いでもらって、いったんうやむやにしたうえで仕切り直したいところだ。だがこういうときに限って、あいつらはせっかく剥いたりんごにも手をつけず、銃に戻って揃って爆睡してやがる。まったく、気まぐれで困る。誰に似たんだか。
テーブルにカップを置くと、がつんと思いのほか大きな音が立った。変な沈黙の間ができちまう前にと、オレはとりあえずもう一度口を開いた。焦っていた。あまり考えずに、言葉を発してしまった。
「そんなぬいぐるみより、オレのほうがかわいいだろうが!」
息を飲む音が真正面から聞こえて、我に返った。耳まで赤く染まったジョルノが、笑いと怒りの入り混じったようなヘンテコな表情でオレを見ていた。
対するオレは、きっとめちゃくちゃ情けない顔をしてるに違いない。自分がとっさに何を口走ったのか思い出したくもないのに、そう思えば思うほど、形にしちまった言葉が生々しく頭の中に蘇る。
オレは、オレは、なんてカッコ悪いセリフを……!
一気に汗ばむ手のひらの中で、拘束したままのジョルノの手がわずかに動いた。
「……そのとおりです。わかってますよ、そんなの」
少し掠れたジョルノの声は、今のオレにはつらいくらいに甘い。声音と同じくらいとろけた目元を見てられなくて、手元に視線を落とした。顔が、体が、熱い。
ジョルノの右手がぬいぐるみから離れ、流れるように銀のフォークを取った。突き刺さったままのりんごが持ち上げられる。
「誰よりも──何よりもかわいいもんな、きみは」
オレの口の高さまでりんごを持ってきて、ジョルノは笑ったみたいだった。恥ずかしさで爆発しそうだったが、オレはその手からフォークを奪い取ることはしなかった。落としたままの視線の先、ほったらかしになった黒猫のぬいぐるみの顔が、ちょうどオレのほうを向いていたから。
乾燥して変色しかけたりんごを、見せつけるようにジョルノの手から食べた。ゆっくり咀嚼して飲み込んだそれは美味かった。剥きたての一つ目を食べたときより、ずっと。