いくら下戸だからって

 目の前で、ワインの栓がぽんと抜かれた。
 若いオレには、ワインの個性や価値なんてわからない。興味もない。自分にとってウマけりゃそれでいいからだ。
「赤ワインですか」
 ソムリエの手で中身が二つのグラスに注がれるのを特に反応せず眺めていたら、傍らのジョルノがさわやかな声で言った。
「ありがとうございます。こんな高価そうなワインを、ぼくらのためにわざわざ開けてくださって」
 初々しく誠実な感謝の言葉と控えめな笑顔に、ソムリエがお上品に微笑んで会釈する。オレたちにとこのワインを注文したおっさんも、絵に描いたようなご満悦顔になった。
 ジョルノは下戸だ。出されたワインの価値なんてオレが思うよりさらにどうでもいいだろうに、そんな素振りは一切見せない。
 相手の警戒を解かせるため、油断させるためなら、こいつはためらいなく役者になる。その思い切りのよさとそつのなさを目の当たりにするたびオレは感心していたけれど、最近はもう、慣れた。「きたきた、ボスのいつものアレ!」ってなもんだ。
 気を抜くとニヤッとしそうになるが、そうやって顔に出すとあとで怖い顔したジョルノに小言を言われちまう。ワインボトルを手に何か語り出したおっさんに視線を戻して、オレは口の端を引き締めた。

 パッショーネのボスとその側近という立場になってから、こういう社交パーティーってやつにはたびたび出席している。毎度毎度、堅っ苦しく茶番じみたやりとりにはうんざりするが、これもパッショーネをデカくするための布石らしい。
 フォーマルな雰囲気は苦手だし、スーツだって肩が凝るからできれば着たくない。でもジョルノが嫌々ながら出席するとなれば、オレもついていかなくちゃあならない。万一ジョルノに何かあったとき、無関係な奴を巻き込まずにピンポイントに不届き者を始末するのは、オレが誰より適任だから。
 ジョルノにワインのウンチクたれてるおっさんは政治家で、普段クラブで踊ってばっかのヤツでもまず知ってるだろう政界の大物だ。善良そうなツラして裏で相当汚いことをしてるってのは、ウチの優秀な諜報連中によってとっくに調査済みだった。
「しばらく泳がせていたけど、そろそろ頃合いですね」
 つい先日ジョルノがそう言ってたことを、もちろんこのおっさんは知らない。そばに控えた秘書とさっきから意味有りげな目配せを交わしてるのもモロバレだし、ずいぶんナメられたもんだ。そのワインでジョルノを酔わせて、いったいどんな卑劣な手に出るつもりなんだか。スーツの内ポケットからちらっと見えてるその怪しげな書類に、うまいことサインでもさせようって魂胆かねえ。
「ぼく、あまり飲めないのですが」
「おや、それは失礼致しました。でもぜひ、一杯だけでも」
 ウンチクが終わって、おっさんはジョルノにワインを勧めている。似たやりとりはこれまでに何度も見てきた。だいたいこういうヤツは、ジョルノが一杯飲んだら「おいしいでしょう?」なんて言いながらしれっと二杯目を注ぐんだ。
 あんまり強引なときはオレが酔っ払ったフリして割り込んでグラスを奪っちまうが、基本的にはそばで注意深く様子を見ているだけにとどめてる。
 だって、「飲まされすぎないよう部下にセーブしてもらっている下戸のボス」なんてレッテルをジョルノが張られてみろ。ますますナメられちまうだろ、キタネーこと考えてる大人に。それって間違いなく、パッショーネにとってもよくないことだ。
 それに緊張感からなのか、ジョルノは外で多少飲まされても乱れない。たまに二人で夕食を食べたりすると、食前のカンパリを飲んだ時点でフニャッとなってるから、下戸ってのは嘘じゃあないと思うんだけど。「赤くなってんぞ。酔っちゃった?」ってからかうオレを見るちょっと据わった悔しそうな目、けっこうカワイイんだよな。っと、これは蛇足。
 グラスを傾けたジョルノの喉がこく、と動く。「なかなかいい飲みっぷりだね」なんて言いながらボトル持って待ち構えてるクソオヤジ、個人的には撃ちたくてしょうがねーんだが。
 とにかく、今のところは静観していて問題なさそうだ。あんまり余裕なさそうにしてたらオレもナメられる。自分に注がれたぶんのグラスを取って、見るからにどっしりと濃い赤ワインに口をつけた。
 ウマかった。でも、ブチャラティたちとリストランテで飲んでたワインに比べたら、大したことはなかった。

「すみません、ぼく、ちょっとお手洗いに」
 三杯目のワインを飲み干したタイミングで、ジョルノが言った。顔色は変わらないし、呂律もはっきりしてるけど、次も注がれるようならさすがに割って入ろうと思っていたところだった。なんたって、四杯目になっちまうし。
「ああ、どうぞ」
 おっさんは酒が入ってもなかなか隙を見せないジョルノに明らかにイラ立っていて、顔面に張り付けた薄ら笑いが強張ってきている。それでもこういう場で手荒なマネをしないあたり、さすが政治家様だと思う。そのへんのチンピラと違って、メンツは大事だもんな。
 ジョルノは改めて「失礼」と断って、空のグラスを近くのテーブルに置いて颯爽ときびすを返した。足取りもしっかりしたもんだ。
 背中を見送りながら、あれっと思う。こういうとき、ジョルノは必ずちらっとオレを見て、「さあ行きますよ」っていう無言の合図を出してくるのに。今はオレを見もせず、さっさと一人で出ていっちまった。
 もしかして、表に出てないだけで、ほんとはけっこうしんどいのかな。オレを伴う余裕もないくらいに。いくら緊張感があるとはいえ、立て続けに三杯っていったらオレだってほろ酔いにはなるだろう酒量だ。
 ジョルノのことだからトイレに着く前に粗相したりはしないだろうが、ちょっと心配になってきた。オレはジョルノが置いてったグラスの隣に、自分のグラスを置いた。まだ一杯目で、半分以上残ってるけど、飲み干してやらない。
「オレも失礼しますぜ」
 ジョルノの顔をつぶさねえようにニコッと笑ってそう言ったが、おっさんはおもしろくなさそうにオレの残したワインを眺めていて、渾身の作り笑いはほとんど見ちゃあいなかった。笑い損だ。クソが、と口の中でつぶやいて、オレは一足遅れてジョルノに続いた。

 ホールを出て絨毯敷きの廊下を進むと、フロアの端にあるトイレにたどり着く。中は明るく広々としていて、ピカピカの鏡の前には高そうな椅子まで置かれている。まるでラウンジみたいだ。ここまでキレイだと、奥に並んだパーテーションつきの小便器が逆に場違いに見えてくる。
 洗面所は白い大理石調で、たっぷりスペースをとって三つ手洗い場がある。一番端っこの壁際に、ジョルノはいた。洗面ボウルの両端に手をついて、うつむいている。ああ、やっぱり気持ち悪くなっちまったか。なんとかトイレまで来られたけど、個室までは間に合わなかったみたいだ。
「大丈夫かよォ〜、ジョルノ」
 背中をさすってやろうと近付いたら、ぱっと顔を上げたジョルノと鏡の中で目が合った。唇は濡れてるけど、特にしんどそうには見えない。ひとしきり吐いて、もうスッキリしたのかな。
「あ、ミスタ……来てくれたんだ」
「そりゃあ来るよ。あんだけ飲んでたんだしよォ。何も吐くまで飲むこと──」
 言いかけて、オレは首を振った。
「いや、オレがもうちょっと早く止めに入ればよかったな。悪い」
「いいんです。何も問題はありません。ぼくを立ててくれていたんでしょう」
 振り向いたジョルノは直接オレを見て、「ありがとう」と微笑む。
「ぼくを立ててくれていた」……ねぇ。まあ立てたっちゃあ立てたけど、最後はワイン残しておっさんに喧嘩売るようなマネしちゃったからなあ。オレは曖昧に笑みを返して、ジョルノの隣に並んだ。洗面台に半分尻を乗せて寄っかかる。
「問題なくはないだろ。立てようとした結果、おめーがゲロ吐くまで飲ませちまった」
「吐いてないよ」
 ジョルノはあっさりそう言った。
「そもそも、飲んでないし」
「へっ?」
 いやいやジョルノ、おまえ明らかに飲んでたじゃあねーか。GEで作られたようなものも、あのへんにはなかったし。
「その嘘は無理があるぜ」
 オレがそう言うと、ジョルノはいたずらっ子みたいにニッと笑って、そのまま指で唇を横に引っ張ってみせた。
「わっ!」
 オレは思わず悲鳴を上げてしまった。
 綺麗に並んだジョルノの歯列のうち、糸切り歯から奥歯にかけての数本が、ゼリーみたいなぶよぶよの物体に変わっていたのだ。ぶよぶよは透き通った紫色をしていて、まるで血豆か何かみたいだ。めちゃくちゃ不気味だが、この色合いには見覚えがある。ジョルノのやったこと、だいたいわかった気がする。でも、このぶよぶよの正体は一体何なんだ!?
「歯を数本クラゲに変えた」
「クラゲ!?」
「ええ。クラゲは体の98%が水分でできてますから。ワインは全部こいつに吸い取らせました」
「マジかよ……ああっほんとだ、よ、よく見たら足が……! うげえ〜ッ!」
「たいていは一本だけ変えれば十分なんだけど、あの男がどんどん飲ませてくるからクラゲの数も増やさなきゃならなくて。仕切り直すために一旦逃げてきたんですよ」
 前歯や舌までクラゲに変えたらさすがにバレるでしょう、ちょっと危なかったです。
 涼しい顔で、ジョルノは言う。
 ヤバいぜ、イカれてる。いろいろヤバいが何が一番ヤバいって、ジョルノがこの手段を取るのが今回初じゃあないらしいことだ。いったいいつからこんなおぞましい切り抜け方をしてるんだ? なんか、あのときだなって思い当たる節があるような気もするんだが。
「能力、今解除したらどうなんの?」
 ジョルノのクレイジーさに圧倒される一方で、好奇心を隠せない自分がいる。歯と同列に並ぶ紫色のクラゲを指差しながらきいてみると、ジョルノは真面目な顔で「普通に歯に戻りますが、吸わせていた液体をどうするかについてはふたつ選択肢があります」と答えた。
「ぼくの体に吸収させるか、口の中に元通りの形で戻すか」
「ふーん……?」
「今回の場合、ワインをぼくの体に吸収させてしまったら本末転倒でしょう。だから後者の手段をとってます。吸わせてたワインを口の中に戻して、そのまま吐き出してる」
「あー」
 なるほど。だからジョルノは洗面台の近くにいるわけか。口からワインを吐き出すだけなら、歯磨きやうがいをするのと大差ないもんな。
「口に収まるぶんしか一度に吐き出せないから、ちょっとめんどくさいんだけど」
 ジョルノが口を閉じる。一瞬の間をおいて、なめらかなほっぺたがぷくっと膨らんだ。洗面ボウルに水を流しながら、ジョルノはぺっとワインを吐き出した。濃い紫色はすぐに水と混じり合い、渦になって排水口に消えていく。グラスを傾けたときに香ったのと同じ渋みのある葡萄の匂いが、辺りにほんのりと残る。
 いけ好かないおっさんが打算たっぷりに開けた高級ワイン。ブチャラティたちと飲んでいたものには及ばないとはいえ、それなりにウマかったのは確かだ。残しておいてなんだが、ジョルノに無表情に吐き出されるワインを見ていたら、少しだけやるせない気分になった。ワインに罪はないからな。
「ちょっと、もったいねーなァ」
 思ったことがぽろっと口から出た。手の甲で口を拭いながら、ジョルノが顔を上げてオレを見る。唇の隙間からちらっと覗いた歯は、あと一本だけがクラゲの姿をしている。
「きみ、ワイン好きだもんな」
「ワインがっつーか、ウマい酒なら何でも好きだけどよ」
「そうか──」
 きゅ、とレバーをひねって、ジョルノが水を止めた。まだ全部吐き出しきってないのに。
 歯一本分のクラゲって、どれくらいの量の水分を吸収できるんだろう。もしかして、最後のクラゲが吸ったワインはそのまま飲んじまうつもりかな。
「それなら、やっぱりぼくの分のワインは最初からきみに飲んでもらえばよかったのか」
「ええ? いやいや、でもさぁ〜、おめーにって注がれたワインをオレに渡すのってちょっと締まらねーんじゃあねーか? あ、こっそり花とかに変えたらいいのか。そしたらオレがこうブローチみたいに胸んとこに挿しといてよぉ、あとでグビッと、んむっ!?」
 思いついた案は、ジョルノに最後まで聞き入れてもらえなかった。
 しゃべれない。息が苦しい。なんだ!?
 抱き寄せるみたいに腰に手が添えられてて、唇はふさがってて……
 オ、オレ……ジョルノにキスされてる!
「ん、んーっ! んッ……」
 首を傾けていっそう深く唇を合わせられた瞬間、唾液よりちょっと冷たい液体が口の中に流れ込んできた。鼻に抜けていく葡萄の香り。ワインだ。舌にまとわりつくような渋味とピリッとしたアルコールの刺激に、いつの間にか閉じていたまぶたの端からうっすら涙が滲んだ。
 さすがにグラス一杯分とまではいかないが、一気に飲まされるにはちょっと多い。舌の裏に溜めながら、少しずつ必死に飲み込む。残りのワインを纏ったジョルノの舌が上顎の裏に潜り込んできて、鼻の奥がツンとした。
「っぷは!」
 口の中から何の味もしなくなった頃、ジョルノはようやくオレを解放してくれた。ちぎれた唾液の糸が顎に垂れたのを、素早く指で拭う。ばくばく鳴ってる胸を押さえながら、ばっとジョルノから距離を取った。
 ち、ちくしょう、ジョルノよォー! 前からイカれたヤツだとは思ってたが、まさかここまでとはよ! これがファーストキスだったらてめー、ド頭ブチ抜いてるとこだぜ、オイッ!
「な、なっ、何しやがんだぁてめーっ!」
 頭ン中で切った啖呵は全然言葉になってくれない。自分の口から出た上擦った震え声があまりにもみっともなくて、睨むだけにしときゃあよかったとすぐに後悔した。
 こっちを向いて立ったジョルノは、なんだか妙に満足そうな顔をしている。ジョルノのふっくらした唇も濡れてるのに全然拭われる気配がないから、オレは無性にそわそわしてしまう。
「ごめんなさい。いい機会だから、いつもの仕返しをさせてもらいました」
 さわやかさにちょっと甘さの混じった、聞いたことのないような声で、ジョルノは言った。ずいっと大股の一歩で寄ってきて、オレが空けた距離を一気に無に帰してくる。
 指の長い手が、そっと肩に置かれた。耳元に、少し背伸びをしたジョルノの顔が近付いてくる。ふわふわした金髪が頬に触れる。
「きみの余裕を崩す絶好のチャンスだと思って」
 ぼそ、と吹き込まれた声の低さと甘ったるさに、思わず息を飲んだ。目を見開いて、間近にあるジョルノの顔を見る。オレを見つめ返したジョルノは、元通りに揃った白い歯を覗かせて、悔しいくらい綺麗な微笑みを見せてきた。綺麗だが、完璧ではない。「してやったり!」って顔に書いてある。
 いやもう、何が何だかサッパリわからねえ。キスなんてしてまでオレの余裕を崩すことに、いったいなんの意味があるっていうんだよ。
 仕返し? いつも自分ばっかり酔っ払うの、そんなに悔しかったのか。それにしたって、負けず嫌いもここまでくると大したもんだ。
 ……うん、まったく、大したもんだ。以上。
 オレは掘り下げねーぞ、これ以上は。少なくとも、こんな場所では。
「さ、戻りましょうか。あの男のワインに何を仕掛けてやりましょうかね」
 ジョルノがトイレの出口に向き直る。歩き出した背中に続こうとしたとき、くらっとかすかにめまいがした。酔ったのか、あんな量のワインで。いや、酔ったって仕方ねえよなぁ、あんなふうに飲まされたんじゃあ。
 足音が乱れたのを聞き逃さなかったらしいジョルノが、こっちを振り向く。オレを見る宝石みたいな瞳がふっと緩む。
「赤くなってますよ。酔っちゃった?」
 くっそー! 嬉しそうなツラしやがって! 心配して様子見に来てやったってのに、なんつーゲス野郎だ!
「ちょっとだけな。どっかのガキのせいでな」
「ふふ」
 嫌味も笑いひとつで流されてしまう。一発蹴りでも入れてやろうと思ったが、色白なはずのほっぺたとか耳の先がしっかり赤く染まってるのに気付いたから、大サービスでやめといてやった。
 トイレを出て、連れ立ってホールに戻る。よそ行き用の顔に戻って前を見るジョルノが、舌先で無造作に唇を舐めた。
 またくらっとめまいがして、見なければよかったなあと思いながら、オレは両手で挟むように自分の火照った頬を叩いた。