愛しの着せ替え人形

 第三ボタンまで開けられた白いシャツの胸元に、とりあえず首に引っ掛けてあるだけのゼブラ柄のネクタイ。身じろぎに合わせて、両端がひらひら揺れている。
 細身のスラックスの尻から太ももにかけてはぱつぱつに張り詰めていて、勢いよくしゃがみでもすれば、伸縮性のない生地は一気に裂けてしまいそうだった。ウエストのサイズ感は問題なさそうだが、ファスナーもホックもだらしなく空いている。ベルトもループにとりあえず通してあるだけで、バックルは留まっていない。派手な原色のボクサーパンツの股のあたりが丸見えだった。
 いつもの帽子は外されており、癖のある黒髪が露わになっている。それだけはきっちりと整えられているのがアンバランスだ。
「助けてくれ、ジョルノ……やっぱスーツって、上手に着られねー」
 しどけない格好で助けを求めてきたミスタに、ジョルノは小さくため息をついた。
 言わんこっちゃない。着替えの前にちゃんと「手伝いますよ」と申し出ていたのに、かっこつけて断ったりするからこうなるのだ。
 念のため、ミスタがいるのと同じ部屋で着替えをしていて本当によかったと思う。もし屋敷の空き部屋を存分に使い、それぞれ別室で着替えをしていたのなら、今頃ミスタはこのあられもない出で立ちで他の組員も行き交う廊下を駆け、ジョルノに助けを求めに来ていたに違いなかった。
「一人で着られたためしがないんだから、最初からそう言ってくれりゃあよかったのに」
「いやあ、だっておめー、ハズカシーじゃあねーか。いい年した野郎が、着替えるの手伝ってくれ〜だなんて」
「何を今さら。きみのハズカシー言動なんて慣れてます」
「ひっでえ〜!」
 ミスタが大げさにむくれるのに合わせて、ぎち、とシャツの肩のあたりが引き攣れる。
 すっかり身支度を済ませていたジョルノは、着ていた上着を一度脱いでハンガーにかけた。学生服もスーツも似たようなものなので着慣れてはいるが、着替えを手伝ってやるとなると動きにくい。それに、これから向かうのは権力ある政治家の催すパーティーである。この日のために仕立てたスーツに余計なしわを刻むのも避けたかった。
 振り向くと、シャツの背中側から必死に生地を手繰り寄せているミスタが視界に入る。日頃軽装を極める彼は、いつまで経ってもフォーマルな装いに慣れないようだ。しかも素晴らしいことに──ではなかった、かわいそうなことに、サイズが合っていない。
 窮屈なのが嫌だとごねるので、このたび全身しっかり採寸して新しいシャツやスーツをオーダーしてやったのだが、採寸からスーツの到着までの数週間で、ミスタはまた体格がよくなったらしい。
「これ以上は留まりませんか? シャツのボタン」
「留めよーと思えば留めれるけど……けっこうキビシーぜ。胸んとこに隙間が空くっていうか」
 ミスタは一番上までシャツのボタンを留め、ほれ、とジョルノに向かって胸を張ってみせる。第二ボタンと第三ボタンの間から、盛り上がった胸筋のつくり出す谷間が直接見えた。肌着を着ていないせいで、白く張りのある生地の下からうっすら乳首が透けている。ジョルノは首を振りつつ、片手で顔を覆った。
「ベネ」
「なんて?」
「なんでもない。この隙間はネクタイで隠そう。ベストも渡したでしょう、あれもちゃんと着てくださいよ」
「ええ……着なきゃダメ? 余計に肩凝るじゃあねーか」
「着るんだ、ミスタ」
「わ、わかったって」
「何怒ってんだよ……」とぼやきながら、ミスタはクローゼットからベストを取り出す。別にジョルノは怒ってはいなかった。透けた胸元をなんとか隠してもらわなければと、ちょっと必死になってしまっただけだ。
「ミスタ、先に下をちゃんと履いてください。全部開いてるじゃあないか」
「あ、そーだった。シャツの後ろがよー、何回やってもぐしゃってなって気持ちわりーんだよ。おまえ、いい感じに整えてくんねー?」
 ミスタはそう言うやいなや、くるりとジョルノに背を向けた。スラックスの腰からシャツがはみ出しているのにも構わずホックを留めようとしているので、ジョルノは慌ててミスタのスラックスの背中側に手を突っ込んだ。
 なだらかなU字の裾を入れ込む手のひら、シャツと下着の生地越しに、きゅっと上がった尻の温かな弾力が伝わってくる。左手はミスタの肩に置き、右手はシャツのしわを伸ばすためまさぐるように動かしているこの絵面は、なかなか際どいものがある。どさくさに紛れて丸い尻をつかんだら、肩越しにこちらを見たミスタに「こら」と怒られてしまった。
「油断も隙もねーな。もうベルト留めてもいーい?」
「ちょっと待って……このへん、もう少しだけ……」
「ケツ触りてーだけだろ、おめー!」
「失礼な。自分から頼んでおいてなんて言い草ですか」
「揉みながら言うんじゃあねーッ! もう留めるからなッ」
 ぎゅっと強くベルトが引っ張られ、スラックスに突っ込んだままのジョルノの手に圧がかかる。意識しなくても、ミスタの尻に手のひらが密着している状態だ。これはこれで悪くなかったが、かちゃかちゃとバックルが留められる音がしたので、ジョルノは慎重に手を引き抜いた。シャツの裾が綺麗にスラックスに入ったことで、くびれた細腰がより際立っている。ミスタが体ごと振り返った。スタイルの良さを見せつけるかのように、両腕を広げてみせる。
「どうお? 前側は見ながらできたからマシだと思うんだけど」
「大丈夫、綺麗にできてます。後ろもぼくが整えたから完璧だ」
「さすがだぜージョルノ。んじゃ、最後はこれお願い」
 ミスタはそう言うと、結ばないまま垂らしていたネクタイの端をつまんで持ち上げてみせた。おそらく、これがミスタにとっての最難関だ。ジョルノは頷き、ミスタの手からネクタイの両端を受け取る。左右の長さを調節し、結び目を作り始めたところで、手を止めた。
 どうした? というように首を傾げるミスタに、ジョルノは努めて平坦な声音で指示した。
「……悪いんだけど、ちょっとだけ屈んで、ミスタ」
「おっ、わりーわりー! こんぐらい?」
 なんとも思っていないふうを装っていたのに、ミスタが子どもでも見るかのように目を細め、その目でジョルノを見つめたまま身を屈めるものだから、愛おしいやら悔しいやらで心がどうにかなってしまいそうだ。これからは朝だけでなく夜にも牛乳を飲もうと心に決めて、ジョルノはそつなくネクタイを結んだ。自分で結ぶのとは勝手が違うが、もう慣れた。何度も密かに練習したのだ。自分のネクタイもろくに結べないミスタのために。
「タイピンあります?」
「あるけど、要る? ベスト着るならいらなくない?」
「念には念を入れるんだ。ちょっとでもネクタイがズレたらここが見えてしまう」
 シャツのボタンの隙間に指を突っ込んでやると、ミスタは「ぎゃっ」と色気のない声を上げて、ポケットから取り出したシンプルなタイピンをジョルノに手渡した。バランスを見つつ、ちょうどいい位置に留めてやる。その間に、ミスタはシャツの袖口のボタンを留めていた。手先が器用だからか、それは問題なくできるらしい。
「……はい、できました」
「グラッツェ! いやー、ほんと助かったぜ」
「拳銃はどうするんです?」
「今日は普通にポケットに入れるわ。いつも足首に隠してんだけど、このサイズ感じゃあ銃抜いた瞬間ケツが破れそう。カッコわりーだろ」
「いや……ちょっと見たいな」
「ゲッ。ほんとひでーシュミしてんなァー」
 ミスタは肩をすくめつつ、椅子の背にかけていたベストを身に着けた。上着にきびきびと腕を通す姿に、ジョルノは見惚れた。
 正装のミスタ。何度見てもいいものだった。爽やかなのに普段着のときとは違う色気があって、いつもの快活な表情すらもどこか妖しく見えて。実はこんな服装が最も似合うように生まれてきたんじゃあないかと思うくらいなのに、当の本人は一人ではろくにスーツを着こなせない。
 この魅力を引き出すのに大いに貢献しているという自負が、ジョルノにはある。えも言われぬ愉悦を覚えて、ジョルノはぶるりと背筋を震わせた。
「もうそろそろ向かったほうがいいか?」
 ミスタが真面目な顔で振り向いたので、ジョルノは我に返った。
「そうですね、出ましょう。車は回してきてるので」
「おー」
 脱いでいた上着を羽織り、連れ立ってドアに向かう。ドアノブに手を伸ばしたミスタをちらりと見上げて、ジョルノは言った。
「ミスタ。今日のパーティーが終わったら、きみの家に行きます」
「いいぜ」
 ドアノブに手を添えたまま、ミスタは短く応えた。少し高い位置からジョルノを見下ろす瞳が、わずかに細められる。先程のような、子どもを見るような微笑ましさはそこにはなかった。敬愛や親愛とも違う、ジョルノ・ジョバァーナの恋人としての色と温度を宿した眼差しが、惜しげもなくジョルノに注がれていた。
「脱がすんなら、オレにだってできるからな」
 ジョルノのネクタイをつまんで、さらりとミスタは言った。
 それから何事もなかったかのようにドアを押し開け、顔色ひとつ変えずにジョルノと並んで廊下を歩く。ポケットに両手を突っ込み、すれ違う部下たちからの挨拶に気さくに応えるその余裕に、ジョルノは歯噛みしたい思いだった。
「……きみこそ、着せてもらうばかりで終われると思うなよ」
 部下たちが離れた隙に耳元で囁いてやると、ミスタはちょっと目を見開いて、「おう」とだけ言った。そこからは互いに何も言わず、長い廊下を歩き続けて屋敷を出た。そして車に乗り込むとき、帽子のないミスタが赤くなった耳をそっと手で隠したのを見て、ジョルノはひっそりと笑ったのだった。