パッショーネの屋敷に、ある日突然野良猫が住み着いた。
突然というのはあくまで人間側が抱いた印象で、猫のほうはまるで何年も前からそこにいたかのように、我が物顔で広い庭を歩き回り、植木によじ登り、石畳に寝そべってあくびをする。
組員の誰かがこっそりエサでもやっているのかとジョルノは思ったが、顔を合わせる者に問いかけてみても皆一様に首を振る。どんな小さなことであれ、ジョルノに完璧に嘘をつける者はパッショーネ内にはほぼいない。
組員十数人ほどを相手にしたあたりで、ジョルノは取り調べをやめることにした。屋敷の庭は広く、信頼の置ける庭師もついている。猫一匹住み着いたところで、特に誰も困りはしない。むしろ、喜ばしく思っている者のほうが多いくらいだった。緑の庭によく映える、しなやかな体躯の黒猫は、日々神経をすり減らすギャングたちのちょっとした心の清涼剤になっていた。
「去勢手術をしてやったほうがいいと思うんですよね」
猫が住み着いて三ヶ月ほど経った頃、執務室の窓際から庭を眺めつつ、ジョルノは言った。今日も芝生の上にぽつんと、黒点のような猫がいる。小鳥でも狙っているのか、中空を見つめたまま、身を低くして尻尾を上下に動かしている。
「メスなの? あのコ」
ボス直々の監視のもと書類仕事をやらされていたミスタが、気だるげに尋ねた。デスクの上の書類は半分も捌けていないようだが、退屈ごとをことさら嫌う彼はとっくに飽きた顔をしている。頬杖をついてアウロラの万年筆をくるくる回す黒眼の男に向き直り、こっちはずいぶん図体のでかい猫だなとジョルノは内心苦笑した。
「うん。そばで見たときにチェックした。あの猫はシニョリーナだ」
「シニョリーナねぇ……去勢なんて、おまえがそこまで手厚くやってやる必要ないんじゃあねーの? 増えたら増えたでいーじゃん」
びっ、と万年筆の先をジョルノに向けて、ミスタは言う。彼らしい発言だと思いながら、ジョルノは首を振った。
「増えると大変らしいんだ、猫って。糞害とか、ケンカとか。庭師の仕事を増やすのも悪いでしょう」
「んー、まあなぁ」
「一匹だけなら追い出す理由もないし、いたいときにいさせる分には別にいいかなと。だから去勢をですね」
「なるほどなるほど」
ミスタがにやにやと笑う。ジョルノははっとして口をつぐんだ。この笑みを浮かべたミスタはたちが悪い。こちらが多弁になればなるほど、何やら楽しそうに目を細めてジョルノを見てくる。いかにも微笑ましげなその表情を自分に向けられることに、ジョルノは未だ慣れることができずにいた。
「そんで、そのうち名前なんかつけちゃったりして?」
「つけません。飼うつもりはないんだから」
「ネロ? それともノッテ?」
「メスらしいのにするならノワールとか? フランス語だけど……って、だからつけませんてば」
まんまと乗せられてしまってから反論すれば、ミスタはしたり顔で「ウケケ」と小悪魔のように笑った。
「とにかく、今日はもう動物病院も閉まっているだろうから、日を改めて誰かに連れて行かせます」
「フーゴには頼むなよ。あいつがちょっと引っかかれでもしてみろ、猫ちゃんが死体になって帰ってくるぜ。いや、死体すら残らねーかも」
「縁起でもないことを」
ジョルノは顔をしかめたが、説得力は相当なものだったので、ミスタの言うとおりフーゴはこっそり候補から外した。ミスタもむろん除外である。組織の副長たる男に命じる仕事ではないし、多分彼は、道中何かしらひどい目に遭う羽目になる。猫は四つ足だから。
ジョルノに忠実で、多少痛い目に遭ってもカッとならず、4という数字に呪われていない者に頼むのがよさそうだ。いくらでもいる。
んん、とミスタが伸びをした。いつの間にか万年筆のキャップは閉められ、デスクの上に放り出されている。手つかずの書類は減っていない。椅子を軋ませて立ち上がったミスタを、ジョルノは「ミスタ」ととがった声で制した。
「どこ行くんですか。終わるまで部屋を出るなって言いましたよね」
「コエー顔すんなって。部屋も出ねーってば。ただちょっと」
「ちょっと、なに」
「猫の名前の候補でも考えてやろーかと。フランス語のな!」
へらりと笑ってそう言ったミスタの姿が、次の瞬間消えた。
ぽかんとしたジョルノの眼前、デスクの端で、亀がとぼけるように首をすくめている。甲羅に嵌った鍵の赤い宝石から中の様子を覗いたジョルノは、ひとつ大きなため息をついた。直後、ジョルノの姿も消えた。
窓の外、気まぐれに執務室のそばまで来ていた黒猫が、突然二人の人間が消えた室内をしばらく不思議そうに見つめていた。
屋敷の庭に住み着いた黒猫は、結局去勢をされることも、名付けられることもなかった。死んだからだ。ジョルノたちが亀の中で猫の名前について語り合った翌朝、猫は無惨な死体となって発見された。ミスタの言ったことは、ある意味的中してしまった。
真っ先に見つけたのは庭師だった。ジョルノが猫を密かに可愛がっていたことを知っていた彼は、自宅に帰っていたジョルノにわざわざ電話をして、猫の死を知らせてくれた。
小雨の降る中、猫の死体のそばにじっと屈んだジョルノを、組員たちは沈痛な面持ちで遠巻きに見守っていた。ただ一人、ミスタだけが、ジョルノの背後に立っていた。彼の気配を背中で感じながら、ジョルノは独り言のようにつぶやく。
「血を引きずってきた跡がある。おそらく、ここで殺されたのではない。どこか近くで痛めつけられて、ここまで逃げてきたところで事切れたんだろう」
「…………」
「血の跡をたどれば、どこで傷つけられたのかはわかる。犯人の正体も、突き止めることができるだろう。この猫が屋敷に出入りしていることを知っている者が犯人だとすれば、これは組織への宣戦布告の可能性もある」
「…………」
「……ミスタ」
「ん」
隣に来て屈んだミスタに、ジョルノは開いた手のひらを差し出す。そこにミスタが拳を重ね、そっと開いた。鈍色の空を映した銃弾が、ジョルノの手のひらの上で雨粒を弾く。
「十二発ある。そんぐらい要るだろ。スコップも借りてきたぜ」
「ありがとう」
ジョルノはミスタに渡された銃弾を使って、猫の体を修復した。千切れた右耳、潰れた左目、欠損した脚。ずたずたに切りつけられた胴体。一箇所ずつ治していっても、猫は身じろぎひとつせず、鳴き声ひとつ上げなかった。傷を塞ぎ欠損を補ってやることはできても、一度絶命した生物に再び生命を吹き込むことはジョルノにはできない。
生前の艷やかな黒い毛並みを取り戻し、体を伸ばして眠っているような様相になった猫を、広い庭の片隅に埋葬した。いくらか銃弾が余ったのでミスタに返そうとしたが、彼は受け取ろうとしなかった。
「花でも供えてやれよ」と静かに言われ、彼が多めに銃弾を手渡してくれていた理由にそれで気付いた。ジョルノは残りの銃弾を色とりどりの花に変え、湿った土の上に供えた。
即席の猫の墓前で短い祈りを捧げ、目を開けた。ミスタに向き直る。
「組織の今後に関わることかもしれない。徹底的に調査しよう。ミスタ、きみのチームにも動いてもらいたい」
いつも頼もしく応じてくれるミスタは、ジョルノを見つめたまま、数秒口をつぐんでいた。漆黒の瞳が、かすかに揺らいだように見えた。
「……ああ、わかった。何でも、仰せのままに。──ジョジョ」
やがて厚い唇を重たげに開き、ミスタは言った。黒く密度のあるまつげの下、ジョルノを見る瞳は深い闇色に戻っていた。
肌にまとわりつくようなぬるい夏の雨が、少しずつ勢いを強めている。
血痕が消える。急がなければ。
屋敷の地下、拷問室で椅子に縛り付けられている男は、最近パッショーネについて嗅ぎ回っていたチンピラだった。
彼自身は組織の人間ではないが、その行いについて調べはついている。足のつかないカタギとしてちょっとした伝言役をつとめただけだったのに、欲を出した愚か者だった。
自分に伝言を頼んできた者の正体について必死に調べ、パッショーネ残滅を目論むギャング組織の人間であったと判明するやいなや、頼まれてもいないのに、パッショーネの情報を売ってやろうなどという馬鹿なことを目論んだ。遊ぶ金欲しさだったという。ジョルノの命を受けたミスタがこうして捕らえていなければ、遅かれ早かれ敵方のギャング組織に始末されていただろう。
男の顔は腫れ上がり、床には点々と血が落ちている。ネアポリスは今日一日雪の予報とあって、コンクリの壁にモルタルの床のこの拷問室は冷え切っている。白い息をひっきりなしに吐き出しながら、男は震えていた。むろん、寒さだけが理由ではなかった。
「おまえ、前に猫をいじめたこと、覚えてるか?」
ブーツの爪先が床の血痕を踏む。愛銃の銃口を男の口に突っ込んだまま、ミスタは軽い口調で尋ねた。銃を持つ右手の指の関節が、じくじくと鈍く痛む。引き金を引くのに全く支障はないが、少しばかり、手荒にしすぎた。肝心の話をする前に、目の前の男を殴り殺してしまうところだった。
「綺麗な黒い毛の、可愛いシニョリーナをよぉ、散々痛めつけただろ? 今年の夏、教会の裏で。あんた、神様は信じねーのかい? それとも、信じてるからこそそんなとこでやったのかな。赦されようとして」
ま、どっちでもいーんだけど。
吐き捨てるようにつぶやいて、ミスタは銃口をより深く男の口内に押し込んだ。ガッ、と苦しげな声が漏れる。
「おまえから逃げたあの猫、ウチの屋敷の庭で死んでたんだ。知らなかっただろ、あの猫が前からウチに出入りしてたなんて。
うちのボスもよ〜、えらく可愛がってたんだぜ。本人は隠してるつもりだったみたいだけどな」
引き金にかけた指を一瞬たりとも離さないまま、ミスタは言葉を紡ぎ続ける。腫れて熱を持ち始めている右手とは裏腹に、頭の中は冷えていた。男を言葉でいたぶりながら、別のことを考えることができるくらいには。
これまで仕事の息抜きなんてめったにしなかったのに、何かにつけて窓際に立っては、目線であの黒猫を探していたジョルノ。
去勢をしてやらなくてはと言い出したときの、事務的とは到底言い難かった気遣わしげな瞳。
亀の中でポルナレフも交えて猫の名前について論じたときの、段々とわかりやすく高揚していった声音。
「あの猫が死んでるのを見たとき、ジョルノはそりゃあもう落ち着いたもんだった。こっちが戸惑うくらいにな。別の組織からの宣戦布告かもって、警戒してた。
猫のことは埋葬してやってたけど、花供えて、ちょっとだけ祈ったかと思ったら、すぐオレに犯人を探すよう命令してきたよ。組織が危機に晒されるかもしれねーって、真剣な顔して」
ミスタは唇を引き結ぶと、左脚を大きく後ろに引いて、男の脛を蹴飛ばした。鈍い音がして、男が悶絶する。それを冷たく見下ろして、ミスタは低く唸るような息をひとつついた。
「……なあ、猫殺したぐらいで何をって思ってるか? 猫だけじゃあねー、ジョルノを殺したも同然なんだよ、てめーは」
パッショーネを乗っ取って以降、これまで何度もジョルノの心の死を目の当たりにしてきたミスタは、何度も任務にかこつけて報復を行ってきた。
報復に失敗したことはなかったが、そもそも報復自体が不可能なことは数えきれないくらいあった。ボスという立場にのしかかる重圧は、ミスタにも殺せない。それに、ジョルノが自ら心を殺すこともままあった。そうしなければ切り抜けられない状況が、自分の比ではないくらい多く彼にはあるのだということを、ミスタもわかっていた。
だからこそ、あの黒猫が、ミスタでは手の回らないジョルノの心の死んだ部分を、ほんの少しでいいから暖めてやれればいいと思っていた。言葉を持たない存在だからこそできることがきっとあるはず、亀の他にもう一匹くらい動物の組員が増えたっていいと、そう思っていたのに。
猫は殺され、ジョルノの心のどこかがまた死んだ。彼を癒やすはずだった猫を、彼をより冷徹にする踏み台に変えてしまったこの男を、ミスタはこの半年間ずっと密かに追い続けてきた。
「夏の時点じゃあ、まだてめーはただのチンピラだったろ。猫を殺したのがてめーだってことは、翌日には調べがついてた。
すぐこうやって口に銃ブチ込んでやれなかったのは、てめーがカタギだったからだ。カタギのチンピラが憂さ晴らしで野良猫を殺したからって、ギャングが動く理由にはならねー。
ジョルノのヤツはそのへんきっちりしてるからな。てめーの素性を知った時点で、『パッショーネにとっての脅威になり得ないなら、これ以上の行動は無駄だな』つって、あっさりてめーから興味なくしちまった。だから──」
ミスタはそこで、口元を歪めるようにして笑った。やはり自分は幸運の星のもとに生まれた男なのだと、そう思わずにはいられなかった。
「今回、てめーがパッショーネを嗅ぎ回ってくれてよかった。おかげでこうして堂々とてめーを引っ捕らえることができた」
ひ、と男が息を呑む。その口から、ミスタは銃を引き抜いた。糸を引く唾液も、今は気にならなかった。
「いいか。どのみちてめーは、これからオレが殺す。もちろん、ジョルノからの命令でそうするわけだが──」
前触れなく引き金を引いた。破裂音。男の右耳が吹き飛び、血が迸る。密室に絶叫が響く。
耳をつんざくような声に眉一つ動かさず、ミスタは続けて二発撃った。右腕、左脚。噴き出した血が床を汚す。
庭の隅の墓に手を合わせるジョルノを眺め続けた半年間だった。
「泣けないものですね」と、いつだかジョルノはミスタに言った。
「悲しむときを逃してしまったというか。こんなに冷たかったかな、ぼくは」と。そう言ったときのジョルノの顔を、ミスタは今でも忘れられずにいる。
「──これは、オレの勝手な報復でもある。せいぜい苦しんで死にな」
ミスタは無表情に引き金を引き続けた。
胸、腹、四肢。あとはどこを傷つけられていただろうか、あの猫は。痛ましい死体を思い出しながら、頭を振ってシリンダーに弾を込める。
男が声を上げなくなった頃、ミスタは見開かれたままの左目を正確に撃ち抜き、ようやくリボルバーを下ろした。
真っ赤に汚れた床や壁。窓のない地下室にこもったむせ返るような血の匂い。
ジョルノはきっと怒るだろうな。ここまでやったら片付けが大変だって。
真っ先にミスタの頭に浮かんだのはそんなことだった。
汚い唾液に濡れたリボルバーの銃身を男の服で拭い、腰に差す。それからポケットに手を突っ込んで、携帯電話を取り出した。手早く通話ボタンを押し、帽子の下に潜らせるようにして電話を耳に当てる。コール音が一度鳴るか鳴らないかのうちに応答したジョルノに、任務は完了したと短く伝えた。「わかりました、ご苦労さまです」という労いの言葉を聞いて、通話を切った。
「はあーーー…………」
大きくため息をついて、血に濡れた床にしゃがみ込む。
これまで幾度となく繰り返してきた報復。これからもきっと、自分はこの独りよがりな行為を、標的を変えつつ延々繰り返していくのだろう。
やるせない虚脱感を伴う報復は、できるなら今回が最後であってほしい。
そんなに甘くはないとわかってはいたが、そう願わずにはいられなかった。
ミスタはしゃがんだまま頭を垂れた。
ジョルノが階段を降りる足音が聞こえてくるまで、そうしていた。高揚感と達成感をなんとかして見つけ出そうとするかのように、ミスタは黒い眼で、静かに足元の血溜まりを見つめていた。