熱風に焦がれる

 思いっきりジャンプして伸ばした指先は、用具棚の端っこをほんの少し引っ掻いただけだった。

 この春入学したここ忍術学園には、組とは別に委員会というのがある。医務室で怪我人の手当てをする保健委員会とか、学園で飼ってる虫や動物の世話をする生物委員会とか、いろいろある。わたしたち一年生は、入学後数箇月かけてそれらの委員会を見学したり体験したりしてきていて、どこに所属するかをこの前決めたばかりだった。
 わたしは図書委員会に入りたかったんだけど、そんなに人数が要らないらしく、同じく図書委員会志望だったろ組の長次にじゃんけんで負けた。残念だったけど、三回勝負とかにはしないで潔くゆずってあげることにした。だって長次は本が大好きで、そんな長次が図書室の管理をするのはとてもよいことだろうなと思ったから。
 それで、わたしは用具委員になった。こっちは人手が欲しいということで、は組の留三郎も一緒だ。
 用具委員会は、備品の管理や壊れたところの修繕がおもな仕事だ。他にも、「くびじっけん」のやり方の習得とか、城に潜入したときの振る舞いの勉強とか、そういうこともいずれはやるらしい。他に比べてうちは仕事量が多いから、ゆくゆくは二つの委員会に分けるかもと、顧問の吉野先生がおっしゃっていた。
 器用で力持ちな留三郎は、先輩に教えてもらいながら剥がれた壁とか欠けた瓦をよく直しているけど、まだ力があまりなく運動神経もよくないわたしは、用具倉庫での備品の管理を中心に教えてもらっている。
 自分で言うのもなんだけど、整理整頓はけっこう得意だ。いつもやり方を教えてくれてる三年生の先輩も、「仙蔵は飲み込みが早いな。作業も丁寧だし」と褒めてくれた。
「仙蔵、用具倉庫から生首フィギュアを取ってきてくれるか? 今日の委員会で使うんだ」
 今日は先輩にそう頼まれたから、張り切ってひとりで用具倉庫に来た。初めて仕事を任せてもらえたのがうれしくて、ちょっとうきうきしていた。用具倉庫にはいろんなものが置いてあるけど、いくつかある生首フィギュアの種類と置き場所は教えてもらっていたし、持ち運び方もちゃんと練習した。
 だから大丈夫。何も心配ないって、そう思っていたんだけど。

「と、届かない…」
 忘れてた。わたしは先輩に比べたら──いや、一年の中でも、かなり背が低いんだった。
 先輩も、きっとうっかりしていたんだろうな。備品のチェックは、いつも先輩が棚から取り出したやつをわたしが数えていたから。そうするぶんには、なんの問題もなくできていたから。
「…ふんっ!」
 しゃがんで縮こまった体勢からもう一度ジャンプしてみるけれど、さっきと同じあたりを指先がかすめるだけだ。生首フィギュアの入った箱が今触った段に置いてあるのは見えてるんだけど、そこまでは手が届かない。壁に立てかけてあるハシゴは、危ないから一年生だけでは使っちゃダメだと言われている。

 どうしよう。
 用具委員会室に戻って、先輩を呼んでくる?
 せっかく、ひとりで仕事を任せてもらえたのに?
「背が足りませんでした」なんて、「ジャンプしてもダメでした」なんて、どんな顔して言えっていうんだ。
 困っているときまって手を差し伸べてくれる同室のあいつの姿が、ふと頭をよぎった。
「文次郎…」
「なんだ?」
「うわあっ!?」
 思わず名前をつぶやいたら返事があって、わたしは飛び上がってしまった。少し開けたままにしていた用具倉庫の戸の前に、真っ黒なそろばんを抱えた文次郎がきょとんとした顔で立っていた。体育委員会の小平太ならともかく、文次郎は会計委員会のはずなのに、なぜか汗だくで息を切らしている。
「文次郎!? な、なんでここに…」
「先輩に言われてマラソンしてた。元気が有り余りすぎだから、これ持ってそのへん走ってこいって」
「望むところだ、ギンギーン!」と文次郎が掲げてみせたそろばんからは、なぜかジャラッと重たい金属音がした。
「会計委員会で配られた10kgそろばんだ。鉄でできてる」
 文次郎が胸を張る。よくわからんが、会計委員会に入らなくてよかった。
「で、どうかしたのか仙蔵。おれを呼んでなかったか?」
「……」
「ここにいるってことは、お前もまだ委員会活動中?」
「……うん」
 文次郎はそろばんを脇に抱えて、戸のすき間からするっと猫みたいに中に入ってきた。用具倉庫に入るのは初めてらしく、ものめずらしそうにきょろきょろしている。
「今日の委員会で使うものを持ってきてくれって、先輩に頼まれていて」
「うん」
「あそこにある箱を取りたい」
 届かない棚を差したわたしの指の先を、文次郎が見る。大きな目をまたたかせる文次郎の横顔を、わたしはじっと見る。

「届かないから手伝ってくれ」、って。
 素直にそう頼むのが一番いいのはわかってる。
 でも。
「わたしでは届かないんだ、文次郎」
 こっちに視線を戻してちょっと首をかしげてみせる文次郎に、わたしは今日もまた、言葉足らずなことしか言えない。
「お前ならあれをどうやって取る?」ってきいたところで、運動神経ばつぐんの文次郎がとる行動は、きっとわたしには選べないから。
 かといって、「手伝ってくれ」って素直に頼むのは、自分にできないことを思い知らされるみたいで、やっぱりどうしてもどうしても、くやしいから。
「ふーん。じゃあ肩車してやる。この高さだったらそれで取れるだろ」
 それでも文次郎はいつも、わたしにとっていちばん正しく、優しい答えをくれるんだ。初めて手を差し伸べてくれたあの日からずっと、当たり前みたいな顔で。
 文次郎はそろばんを置くと、棚のほうを向いて両脚を開いて立ち、中腰になって太もものあたりに手を置いた。肩越しにわたしを見て、「ほら」と声をかけてくる。
 誘われるままに背中に飛びついたら、文次郎は器用に体をもぞもぞさせて、わたしを肩車してくれた。文次郎は一年にしてはがっちりしてるとはいえ、同い年の友だちを土台にした肩車ってちょっと怖い。そっと両腕を持ち上げて、目の高さにある生首フィギュア入りの箱を慎重に棚から取った。
「取れたか?」
「ああ、取れた」
「よし。いったんそれどっかに置いてくれ」
 ふつうに立ってても手の届きそうなところにわたしが箱を置くと、文次郎はわたしを乗っけたままゆっくりと屈んだ。片足ずつ地面に降りる。小さい頃に父上の肩車から降りたときよりずっと地面が近くて、あやうく転びそうになったけど、なんとかふんばって持ちこたえた。
「文次郎、ありがとう」
 お礼を言ったら、立ち上がりながらこっちを見上げた文次郎はちょっと口元をもにもにさせてから、すっと目を逸らして「べつに? いいって」と言った。
 照れ屋の文次郎がなかなか「どういたしまして」とは言わないのは置いといて、わたしが文次郎から「ありがとう」と言われたことも、ほとんどない。いやもしかしたら、一度もないかもしれない。
 文次郎が恩知らずなわけじゃない。助けてもらうのが、何かしてもらうのが、いつもわたしばかりだからだ。
「おれ、マラソンに戻る。おたがい委員会がんばろうぜ、仙蔵」
「うん。またあとでな、文次郎」
 戸から出ていく文次郎を見送ったわたしは、何気なく地面に目を向けてみて、あっと声を上げた。
「文次郎! そろばん! 忘れてる!」
 倉庫の外で、文次郎もあっと声を上げた。
 照れくさそうに戻ってくる文次郎に、ふいに、このそろばんを拾って手渡してあげたくなった。
 わたしは屈んで、黒く冷たいそろばんに手をかけた。でも、そろばんとは名ばかりの鉄のかたまりはびっくりするほど重たくて、両手で持ち上げようとしたわたしは勢い余って尻もちをついてしまった。
 駆け寄ってきてわたしを助け起こした文次郎は、そろばんをひょいっと拾い上げると、今度こそ熱風のように去っていった。
「バカタレ、無理すんなって」
 残された私のうれしさも、恥ずかしさも、くやしさも、苦しさも。まるごと全部焦がしてしまいそうな、まぶしい笑顔を残して。