「兵太夫、爪が伸びすぎているぞ」
作法委員会室で朝から宿題を教えてくれた立花先輩が、ぼくの手元を見て言った。
両手をパーにして確認してみたら、確かに、先の白いところがずいぶん長くなっていた。からくりをいじるときは爪があったほうが便利なんだけど、ここまで長いと欠けちゃったりするかも。しかもよく見たら、ところどころ墨とかゴミが入り込んじゃってる。作法委員は身だしなみも大事だっていうし、これはあんまりよくない。
「ごめんなさい…部屋に戻ったらすぐに切ります」
「いや、ちょうど道具もあることだし、ここで整えてやろう」
引き出しから小刀と書き損じの紙を取り出して、立花先輩はぼくに「手を出してごらん」とやさしく言った。おずおず差し出したぼくの手をとって、手際よく、ていねいに爪を切ってくれる。
すらっとして柔らかそうな立花先輩の手は、筋張っていて意外と硬い。よく見たらところどころやけどの痕で肌が突っ張ったみたいになってて、それがすごくかっこいい。
骨っぽい指の先にくっついた縦長の爪には白いところがほとんどないくらいで、短いのを通り越してちょっと深爪ぎみだ。
昨日は夕方に作法委員会の活動があって、生首フィギュアに化粧をする立花先輩の手も近くで見たけど、ここまで爪は短くなかった。てことは、先輩もあのあと爪を切ったのか。
「よし、次は左手だな」
「あっ、はい…んっ?」
「どうした?」
「立花先輩、ここ。傷がついてる…」
血管がうっすら透けた白い手の甲に、細い半月みたいな赤い痕がいっぱいついている。血は出てないけど、でこぼこしててちょっと痛そうだ。
こういう傷、前にも見たことあるな。
そう、確かあれは、は組のみんなで手押し相撲してたときだ。金吾と虎若の勝負がなかなかつかなくって、両手をがっちり合わせたまんま全然動かなくて。
結局引き分けになったんだけど、終わったら二人とも、手の甲に相手の爪の痕がくっきり残っちゃってた。そう、ちょうどこんなふうに、ところどころ引っかき傷もできちゃってたりして。
「先輩も、手押し相撲するんですか?」
「手押し相撲…?」
「こうやって押し合うやつです」
爪を整えてもらった右手を、立花先輩の左手に合わせる。絡まった指を見た立花先輩は、猫みたいな目を何度かぱちぱちさせてから、ふふっとおかしそうに笑った。
「似たようなことはときどきするな」
「ほんとですか!? もしかして、ゆうべも?」
「ああ」
「楽しいですよね、あれ! ぼくあんまり強くなくて、すぐ押し負けちゃうんですけどぉ……」
「誰にでも得手不得手があるさ。…ほら兵太夫、こっちの手もやるから」
「はーい」
右手のときと同じように、立花先輩はぼくの左手の爪も綺麗に切っていってくれる。その手つきはやっぱりていねいでやさしくて、先輩もこの手でぼくらみたいに遊ぶことがあるなんてなんだか信じられなかった。
「立花先輩は、お強いんですか? 手押し相撲」
切った爪を包んで捨てようとしている立花先輩に、どきどきしながらきいてみる。
「潮江先輩とか、めちゃくちゃ強そうですけど」
くず入れの前で、先輩がぼくを振り向いた。長い髪がさらっと流れる。
「確かに、文次郎は強い」
「ですよねー」
「だが、負けたことはないよ」
いたずらっぽくそう続けた立花先輩の、首筋のあたり。こっそり旅に出てきたみたいに、赤い爪の痕が見えた気がした。