昼下がり、第二の島にて

 採集を終えた左右田がふらりと立ち寄ったダイナーには、意外な先客がいた。
 まず目に入ったのは、常夏の島にことごとく不釣り合いな黒い長ランと、首元を覆う長いストールだった。さらに右目を赤く染めるコンタクトレンズ、左目を縦断する刺青、左腕にぐるぐる巻かれた包帯と、身体のどの部位を見てもこの上なく個性的ななりをした男。そんな彼が赤い合皮のソファーに陣取り、テーブルに乗ったハムスターの小さな小さな前足をつまんでしげしげと眺めているものだから、その光景は異様と言うほかなかった。
 左右田は動じない。島の明るい色調の中に黒点のように存在するその姿は、彼にとってとうに日常の一部となっていた。
 それに左右田には、彼のことを他の生徒よりはるかに多く目にしている自覚がある。もともとは鬱陶しくて仕方ない恋敵のはずだったのに、ある日気付けば左右田はコテージのベッドの上で、想い人ではなくこの恋敵を裸に剥いて組み敷いていたのだ。要するに、今や彼とはそういう仲なのである。そういう仲になってしまったのである。既成事実に精神が追いついていないのは、きっと向こうも同じだろう。互いに互いを避けながらも横目で気にかけるような、むずがゆい日々が続いていた。
 ドアの開く音を耳にしたらしい男は、ハムスターを撫でながら顔を上げた。二色の瞳が左右田をとらえる。貴様か、と低く呟いた彼に歩み寄り、左右田は唇をひん曲げて、開口一番険のある声音で突っかかった。
「なーんでオメーがここにいんだよ、田中」
 苗字だけは唯一平凡な彼──田中眼蛇夢は、応えるのも面倒だというように視線をテーブルに戻した。その手によじ登った茶色いぶち模様のハムスターが、包帯の腕を伝って肩に登り、ぽすんとストールの中に収まる。すると入れ違いのようにころころと肥えた別のハムスターが這い出てきて、やはり田中の身体を経由してテーブルに降りてきた。四天王の名を冠するだけあって、田中の飼うハムスター達は相変わらず賢い。左右田は未だ、彼らの名前すらろくに覚えられずにいた。
 先ほどと同じくハムスターの前足をつまみながら、田中はようやく不敵な笑みを見せた。
「なんでここに……か。つまらぬ問いだな人間よ。貴様は吹きすさぶ風の進路にも、いちいち理由を問わねば気が済まぬたちか?」
「あ?」
「たまには俗世の供物で腹を満たすのもいいと思った。それだけだ」
 見れば、くしゃくしゃに丸められたハンバーガーの包み紙がテーブルの脇にあった。傍らには結露に濡れたグラスもある。すでに飲み物はなくなっており、薄く染まった溶けかけの氷が崩れてからんと音を立てるのみだった。
「で? 人間風情の食いもんはうまかったか?」
「フン、贅を尽くした魔界の美食の足元にも及ばなかったな……まあ、悪くはなかった」
 高貴な存在を自称する彼が案外安い舌を持っているらしいということに、左右田は薄々気付いている。小声で付け足された素直な感想は聞かなかったことにしてやって、田中の向かいの席に腰を下ろした。
「……」
 田中が再び視線を落とす。左右田も気まずいのはやまやまだったが、ここで立ち去るのはプライドが許さなかった。数日前に痕を付けてやった青白い首筋は、今は都合よくストールに隠れている。
「……そんで今は何してんだよ?」
「ふむ、貴様にしてはいい質問だな。この気高き破壊神暗黒四天王が無駄な殺生に手を染めることのないよう、氷の覇王である俺様直々に審判を下してやっているのだ」
「オレにゃオメーがハムスターとおててつないでるようにしか見えねーけど?」
「貴様の目は節穴か? チャンPの爪を見てみろ」
 この太ったヤツはチャンP、と一応インプットを試みながら、左右田は身を乗り出して田中の手元を見た。
 チャンPの可愛らしい桃色の指先に、血管を透かした細長い爪が貼り付いている。その先端にあたる長さにして1ミリほどの半透明の部分を、田中は右手に持っていた小さな爪切りでぱちんと切り落とした。
「……育ちすぎた闇の力は、己の身すら傷つけかねん。実際チャンPは、以前俺様の寝具に爪を引っ掛けて足を折ったことがあるからな」
 痛みを思い出したかぶるりとひとつ震えたチャンPは、田中によって両手両足の爪を切られ、きちんとヤスリをかけてもらってから、のそのそとストールの中に戻っていった。
 器用なもんだなあと頬杖をついて一部始終を眺めていた左右田は、一仕事終えた田中がじっと一点を見つめていることに気付けなかった。よく見てやってんだな、とかけるつもりでいた平和な一言も、結局言葉にできずじまいだった。
「……っうお!?」
 素っ頓狂な悲鳴を上げたときには、すでに左右田の片手は文字通り田中の手中にあった。頬杖を崩すほど動揺した左右田とは対照的に、田中は涼しい顔だ。その視線は、左右田の指先に集中していた。
「なっ、ななな何だよ!? 何だよ急に!?」
「……とげのひとつも抜けなそうな爪だ。貴様の戦闘力はゴミ以下だな」
「う、うっせ! 機械いじんのに爪がなげーと邪魔なんだよ!」
 爪を見られたくない一心で指先を握り込みながら、左右田は声を荒らげる。
 もう切る余地もないくらい短い爪を他人に指摘されたのは、ひどく屈辱的だった。実は左右田は昔から、人並みに爪を伸ばせた試しがない。機械いじり云々は建前で、爪を噛まないようにする苦肉の策がこの深爪だとは、口が裂けても言えなかった。
 もしもこの爪を、いま田中の手のひらに食い込ませられるくらい長く伸ばせていたなら。田中は先ほどの「審判」を延長して、この身にも下してくれていたのかもしれない。田中の右手が持ったままの爪ヤスリを一瞥し、左右田は歯噛みする。何だかんだで田中に期待をしている自分が悔しかった。より長く触れられていたいと思ってしまっているのが悔しかった。そして何より、またしても田中に見下されているという事実が悔しかった。
 怒涛のような悔しさに突き動かされた左右田がじろりと田中を見上げるのと、興味をなくしたらしい田中が左右田を解放するのとは、ほぼ同時だった。
 手が離れた瞬間、左右田は待てを解かれた犬のような勢いでストールの端をつかみ、田中を間近に引き寄せた。だん、と田中がテーブルに手をついた音に反応したか、四天王の身じろぐ気配があった。こちらを睨み返したまま無言で彼らを制する田中の落ち着きぶりに、またしても左右田の悔しさは募る。
「田中キングダムに手を出すとは……愚かなる人間よ! 宣戦布告なら受けて立つぞ!」
「じょっ、上等だ! オレの戦闘力がゴミ以下? へっ、いっつもそのゴミ以下にいいようにされてんのはどこのどいつだっけなァ!?」
 含みを持たせた挑発は、見事田中の不意を突いたらしい。ぐ、と言葉に詰まった田中の白い頬が、目に見えてわかるくらいに赤く染まる。ただしそれを見た左右田も人のことは言えない顔色になってしまったので、この発言は諸刃の剣だったようだ。
 さて、左右田にとってもまずい雰囲気になってしまった。この空気を打破する手段なんてひとつも思い浮かばなかったし、口喧嘩で乗り切れるほど機転の利いた言い回しができるわけでもない。まして相手はあの田中である。ボキャブラリーで彼に勝てる気がしない以上、根が平和主義の左右田は中途半端に煽っておきながらあとは黙るしかなかった。
 数秒の沈黙を経て、先に口を開いたのは田中だった。
「……この俺様を侮辱する発言、聞き捨てならんぞ」
 返せとばかりにストールを引っ張られ、力の抜けていた左右田の手から紫色がすり抜ける。取り返したストールの端をやけに高く巻き直して顔の半分を隠した田中は、その甲斐なく耳まで赤かった。
「……決闘は今宵だ」
「はい?」
「言っただろう。貴様の宣戦布告、俺様は受けて立つと」
「オイオイオイオイ、それってどういう──」
「案ずるな……俺様が貴様の空間に出向いてやる。貴様はせいぜい、身を清めて神にでも祈っているがいい!」
 ストールのせいでいつもよりこもった高笑いとともに、びし、と人差し指を突きつけられる。そして左右田がその言葉の真意を汲むのを待とうともせず、田中は食事の残骸もそのままに、そそくさと席を立ってしまった。
「あ、おい田中っ」
「確かに知らせたぞ……左右田。逃げようなどとは考えんことだ」
 長い脚で大股に左右田の横を通り過ぎた田中はあっという間にドアに行き着き、ぐるぐる巻きのストールをついに緩めることのないまま、直射日光の照りつける屋外へと出て行った。
 ひとりダイナーに残された左右田は、判で捺したような真っ黒い背中が見えなくなってなお、からりと乾いた灰色のパーキングをしばらく窓から眺めていた。
 やがて大きくため息をついて、テーブルに突っ伏す。目線と同じ高さになったグラスを見れば、いつの間にか氷はすっかり溶けて、わずかな水がグラデーションを作っていた。
 だらけた体勢のまま、左右田は両手を目の前にかざしてみる。白いところのほとんどない十指の爪が、控えめに視界を遮る。これのせいで左右田は、戦闘力はゴミ以下という惨めな烙印を捺されてしまった。気まぐれにこの手をつかんだ、田中によって。
 いったい何をもって戦闘力といえるのだろう。物理的な鋭さに限らないのなら、むしろ戦闘力は高いのではないか。この指先は触れた者に痛い思いをさせることがないから、むしろそのことが──と、そこまで突き詰めて左右田は考えるのをやめた。
 田中が、コテージに来る。
 尊大で高飛車でいつでも自分の世界に生きていて、左右田の名をこれまでに一度しか正しく呼んだことのない彼が、わざわざ夜という時間を選んで決闘とやらを挑みにくる。
「……結局ヤりてーだけかよ、あのヤロー」
 呆れたように呟いてみても、それを拒まなかった数分前の自分はごまかしようがないのが事実だった。
 精神的にも肉体的にも距離を置きたくて仕方ないのに、どうにもうまくいかない。初めて肌を合わせてしまったあのときから、もう後戻りはできなくなっていたのだ。そう頭ではわかっていても、なかなか吹っ切れないものだった。既成事実ばかりが、当事者たちを残して少しずつ積み重なっていく。
 夜までまだまだ時間がある。
 しかし午前中の採集の疲れも手伝って、これから活動する気力はことごとく削られてしまっていた。体温でぬるくなってきたテーブルに頬を押しつけたまましばらく目を閉じていた左右田は、やがて日中の過ごし方を決めた。コテージでシャワーを浴びて、そのまま夜まで寝てしまおう。どうせ田中が来たら、朝まで眠れないのだから。
 しかしその前に腹を満たしたかった。左右田は再び大きくため息をついて、重い腰を上げる。そして、氷の覇王が舌鼓を打ったらしい俗世の供物を自分も貪るべく、カウンター奥のコンテナを漁った。