氷の覇王が死んだ。
足元に広がった血が人のものと同じ赤色をしていたのが、立ちすくんだ左右田にはそのときひどく奇妙なことに思えた。
自称覇王の正体を知らなかったわけではない。彼が田中眼蛇夢という名をもつただの人間であるということは、言うまでもなく周知の事実だった。常人と一線を画す超高校級の冠も、希望ヶ峰学園においては生徒全員に備わっているものである。それを差し引いてもあまりある個性の持ち主ではあったが、人間というカテゴリからは外れない男であったことには間違いがない。
田中眼蛇夢は人間。
不変であるはずのその考えを左右田が改めたのは、田中が処刑された直後のことだ。
万力で締め付けられるように鋭く痛んだ左右田の胸は、次の瞬間には何事もなかったかのように穏やかな鼓動を刻み出した。田中の亡骸にすがる愛しの王女を見た瞳が、死の事実のみを淡々と脳に伝えた。
人の死に直面した自分がどうなってしまうたちであるかは、今日までのコロシアイ修学旅行のなかでいやというほど実感していた。また誰かが死んだらと思うと、それだけで身体は震え、涙腺は緩んだものだ。
ソニアの憧憬を欲しいままにする田中はいけ好かない奴に違いなかったが、突っかかる頻度の高さはそのまま馴染みの深さにつながっていたと言っていい。それなのに、心はどこまでも冷たく静まっていたのである。
──きっと凍らされたんだ。
血の気が引いていっそう青白くなっていく田中の顔を見ながら、左右田は思った。
自分が死ぬのと引き換えに、あいつはオレに得意の魔法とやらをかけたんだ。オレのことがうっとうしいから、嫌いだからって、心のどこかを凍らせやがったんだ。
そうかよ田中、オメーは自分でさんざん言ってた通り、ほんとに氷の覇王ってやつだったんだな。
地面に広がり続ける血は、やがて左右田のスニーカーの靴底を汚した。
赤い。まるで人間のもののようだ。田中に殺された弐大の青い体液のほうが、よっぽど氷の覇王の血に近かったのではないか。
「…………」
嗚咽と嘆息に色付いた空気を細く吸い込み、左右田は目を閉じた。
そうしてまぶたの裏の闇を見てから今に至るまでのことを、左右田はよく思い出せない。
ただこうして自分のコテージの床にあぐらをかいて、使い慣れたドライバーで金属部品のネジを締めているところから考えるに、どうやらあの忌まわしい閉鎖空間からは脱出できたようだ。モノクマの約束は守られたことになる。コロシアイは、間違いなく起こったのだ。
手にした金属部品は、弐大猫丸の残骸である。人として死ねなかった彼の硬質な身体の一部を、左右田は持ち出してきていた。部品があれば組み直したくなるのは、メカニックのさがだ。ドライバーとドリルとレンチを持ち替えながら、かつての仲間を組み直していく。
何気なく金属板を裏返すと、あの青いオイルが付着していた。
メカと化した弐大の血液だったもの。タワーの床で死んでいた彼を中心に撒き散っていたもの。田中のものよりもよっぽど氷の覇王らしい、青い──
靴を汚した赤色が脳裏に蘇り、左右田はぎしりと動きを止めた。
氷の魔法は解けていない。一部が硬く凍ったままの心と脳は、今はない氷の覇王の輪郭を無機質になぞるばかりだった。
平常心の底に田中の長身を沈め、作業を再開する。
魔法をかけるのなら、いっそ田中眼蛇夢という存在ごと自分の中から消し去ってくれればよかったものを。そこまではしなかった田中はよほど自分を嫌っていたとみえる。人の心を凍らせるばかりか片隅にしつこく居座るなんて、まったくどこまで腹立たしい奴なんだ。
左右田は唇を噛んだ。軽く歯を立てたくらいのつもりでいたのに、乾いた口の中にかすかに鉄の味が広がった。
それにしても、超高校級の飼育委員ともあろう者がよくも殺人など犯したものだ。本人に言わせれば「超高校級の飼育委員『だからこそ』」の行為だったのだろうが、自分には彼の信念は汲めそうにない。生のために死を賭すなど、あの状況で選択肢にすらなかった自分には。
布の端切れで部品のオイルを拭い、ネジ穴をあける。何千回と聞いているはずの電気ドリルの音が、やけに耳障りだった。
果たして田中はいつ、犯行を決意したのだろう。モノクマに解放条件を聞いたときか。それとも空腹が限界を迎えたときか。何がきっかけになった。何が背中を押してしまった? 心の異変に気付いてやれていれば、彼を止めることもできたのだろうか。
ファイナルデッドルームに向かうとき、彼は間違いなく自分の部屋の前を通っている。あのブーツの底が部屋の前の床を鳴らしたとき、自分は何をしていた? 思い出せない。そもそも田中がいつファイナルデッドルームに挑んだのかも定かでない。確かなのは田中が尋常でない決意を固めていたときに、自分はどこかでみっともなく疑心暗鬼に押し潰されそうになっていたということだけだ。
回転するドリルの先が滑り、金属板のなめらかな表面に傷を残した。
他人事のようにそれを見て、左右田は黙ってドリルの電源を切る。あぐらの中に部品とドリルを置いて、こうべを垂れる。
止められなかった。おかげでもう二度と、顔を合わせることはなくなった。ソニアの視線の先に黒い背中を認めることもなければ、見下したような不敵な笑みをまっすぐに向けられることもない。
ふいに左右田は恐ろしくなる。田中の切り開いた道を、これから自分は何を思って歩くのだろう。そこでどれだけ周りを見回しても、田中の姿はないのだ。
膝に置いたこぶしが、白く色をなくしている。前触れなくこぼれ落ちた涙の理由は、わからなかった。他の誰が死んだときにもなかったこの未知の感情につける名を、左右田は知らない。知りたくない。
霜の下りた心の片隅が、ぴたりと冷たく息を潜めている。氷が溶けて、再び心に血が巡るようになったとき、自分はいっそう苦しむことになるのだろう。この涙の理由を、残酷なまでに思い知らされて。
それならば、いっそ死ぬまで魔法にかけられたままで構わない。
左右田は動かずに、黙ったままばらばらと涙をこぼし続けた。この涙が溶けた心の成れの果てだとしたら、それはとても恐ろしいことだ。融解は、始まってしまっている。
「なんとかしろよ、田中……」
赤い血をした氷の覇王は死んだ。
左右田の言葉は誰にも届くことなく、ただ己の胸を不穏に燻らせるのみだった。