一枚目

 憂いを帯びて輝く青い瞳が、自分に向けられていた。ヤシの葉が影を落とす頬は白くなめらかで、何か言おうと開きかけた唇は熟れたばかりのさくらんぼのような控えめな艶をたたえている。
 麗しの王女が左右田と対面していたのは、実際にはほんの数秒の話だっただろう。それでも左右田が彼女の気品と美しさを再認識するには十分で、少なくとも眉を下げた彼女が「ごめんなさい」と張りのある声音で詫びてくるまでは、夢のような心地でその場に立っていられたのだ。
「わたくし、今日は田中さんと牧場にお出かけしようと思っているのです」
「ソ、ソニアさん!」
 田中、という言弾にのぼせかけた頭を撃ち抜かれ、左右田は弾かれたように王女の名を呼んだ。
「また別の機会にご一緒させてください、左右田さん」
「ちょ、ちょっと──」
「ごめんなさいね」
 有無を言わせぬ困り笑顔で反論を切り捨てられ、左右田は口をつぐんだ。
 ソニアがくるりと背中を向ける。赤い靴の先の延長上に黒ずくめの男の姿を認め、左右田はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
 超高校級の飼育委員、田中眼蛇夢。
 外見も性格も物言いも奇っ怪と言うほかない彼は、左右田の中で「変なヤツ」以外になり得ない存在だったはずなのに、ソニアの目が彼に向けられたことで事情が変わった。ソニアが田中に寄せる好意のぶんだけ左右田が彼に敵意を向けるようになるのは、実にあっという間だった。自分に向けられる二つの対照的な感情を、当の田中は全く意に介した様子がないのがいっそう腹立たしかった。
 視線の先、ソニアにおでかけチケットを手渡された田中が、一言二言何か返して歩き出す。嬉しそうな笑顔を浮かべたソニアが、そのあとに続いた。
 ──何であんなヤツがソニアさんに好かれんだよ。
 左右田は嫉妬と苛立ちを募らせる。
 ソニアの思惑も男の趣味も到底理解できなかったが、ひとつ確実に言えることがある。
 田中がいる限り、ソニアの言う「別の機会」は一生来ない。認めたくはないけれど。
 左右田は舌打ちして、二人の背中から視線を引き剥がした。砂浜から舗装された道路に上り、ホテルに向かって歩く。ちらほらとすれ違う学友たちを適当にあしらいながら、出番をなくしたおでかけチケットをポケットの中で握り潰した。

 

 ホテルの門に近い自分のコテージの横を素通りし、プールサイドを抜けてレストランに入った。
 食事時には様々な料理がところ狭しと並ぶテーブルは、今は綺麗に片付いている。キッチンを覗くと、ぴかぴかに洗われた食器がステンレスのかごに伏せられていた。シンクが濡れている。後片付けをしていた花村と入れ違ったのかもしれない。
 ホールに戻った左右田は、窓際の席の椅子を引いて腰を下ろした。
「はあ……」
 大きくため息をつけば、脳裏にはまた憎き田中のふてぶてしい笑顔が浮かぶ。悔しさに涙が滲みそうになったが、いつ誰が入ってくるかもわからない公共の場でみっともなく泣くわけにはいかず、左右田は唇を噛んだ。あえてコテージに戻らなかったのは泣かないためだった。
 今頃田中は、牧場でソニアと二人、牛の乳しぼりでもしながら牧歌的な時間を楽しんでいるのだろうか。今すぐ大雨でも降らないものかと左右田は窓越しに空を見上げるが、広がるのは今日も変わらぬ雲ひとつない青空だった。
 ソニアに慕われた田中が少しでも優越感を匂わせたり、得意気な顔でも見せてくれるのならば、ここまでみじめな気持ちになることもないのだろう。
 これまで左右田は心の中で田中を妬むだけでは飽き足らず、何度となく突っかかっては、幼稚の一言に尽きる挑発や罵倒を繰り返してきた。あいにく左右田と田中では語彙の豊かさが大幅に異なるため、たいていは左右田が負け惜しみを言って終わる。流されることもあれば難解な言葉でずばりと痛いところを突かれることもあるが、どちらにせよ田中がソニアを引き合いに出して左右田を見下すことはなかった。自分がソニアの憧憬を欲しいままにしているという事実が、左右田を間違いなく叩きのめせる要素であることは明らかなのに。
 どういうつもりなんだ。
 左右田はいらいらと爪を噛む。
 立端も冷静さもソニアから寄せられる好意の大きさも、左右田より田中のほうが大幅に勝っているというのは誰が見ても明らかだ。左右田自身も不本意ながらそれは認めざるを得ない。だからこそ、自分のアドバンテージを鼻にかけない田中の余裕が憎かった。自分ばかりが田中を気にして、一方的に執着しているようで。
「は、片想いかっつのな」
 それは、己の空回りっぷりを皮肉ったにすぎない言葉のはずだった。ところが実際に口に出してみるといやに生々しく、左右田は鳥肌の立った腕をさすった。
「いやいやいや……ねーよ! 何言ってんだ!」
 ざわめいた胸の風通しを良くするようにツナギのジッパーに手をかけながら、ぶんぶんと首を振る。テーブルに両肘をつき、頭を抱える。違う違う違うんだ、と疑惑を向けてくるもう一人の自分に否定を繰り返しながら、逸れた思考回路を元に戻そうとする。
 さて、今まで何を考えていただろうか。どうして田中にここまで腹が立つのかということだったか。
 そもそも、ソニアにおでかけを断られてから今に至るまで、ほぼ田中に対する怒りだけに感情が支配されている事実自体気に入らない。能天気と言われるほどの前向きさが取り柄なのだ、悲しい現実なんてさっさと見ないふりをして、いかにして愛しの王女様の気を引くかに頭を使うこともできたはずだ。田中なんかに対する負の感情が、ソニアに抱く想いを上回るなんて。
 田中が憎いのは今更変えようもないが、もう少し心穏やかに恋がしたい。現状を変えないままソニアにアプローチを繰り返したところで、今のようにひとり悶々と思い悩む時間がいたずらに増えていくだけだろう。
 自分のことなど歯牙にもかけない田中と、せめて同じ土俵に立ちたい。自分がそうするのと同等に、田中からもまっすぐに感情をぶつけられたい。そういう関係になることができれば、たとえソニアが田中のほうに熱を上げていたとしても、やるせない怒りを覚えることは少なくなるはずだ。
 では、どうすればいいか。
 左右田は大きな動作で椅子の背にもたれかかった。
 まずは相手をよく知らなければならないし、相手にも自分のことをよく知ってもらう必要がある。
 それは奇しくも恋愛における第一歩と変わりがなかったが、左右田は努めて気にしないことにした。

 

 二度鳴るインターホンのチャイムが田中のコテージに響いたのは、消灯時間を少し回った頃だった。
 消灯はせずにロッキングチェアに腰掛け、ケージの中でカラカラと回し車を回すハムスターを眺めていた田中は、突如鳴った電子音に静かにない眉を寄せた。玄関脇の窓に目をやるが、外の明かりが足りず人影がそこに浮かぶには至らない。
 思えばこのコテージに誰かが訪ねてきたのは初めてのことで、チャイムが鳴った後の対処の仕方は不明だった。一応視線を巡らせてみるも、狭い部屋の中に受話器の類は見当たらない。数秒思案した田中は、ロッキングチェアから腰を浮かせつつ、心もち凄みを効かせて「なにやつ?」と声を投げた。
 いくら危険のない修学旅行中とはいえ、夜更けのアポなし訪問を不審に思うくらいの警戒心はある。ケージの中のハムスター達も、回し車を止めて耳や鼻をぴくぴくと震わせていた。
「オレ。左右田だ」
 やがて田中の耳に届いたのは、馴染み深い声だった。いつも何かと因縁をつけては突っかかってきて、勝手に怒ったり涙目になったり忙しい奴。うるさい彼にも時間帯を考えるだけの頭はあるらしく、声は普段よりも幾分低く落とされていた。
 コテージの鍵でも失くして締め出されたのだろうか。やりかねない、と田中はひっそりと笑うと、ドアを開けないまま応答した。
「闇夜の漆黒は制圧せし氷の覇王たる俺様のためだけに存在するはずだが……クク、まさか貴様にもこの闇を纏うことができたとはな。下等生物にもこのような逸材が潜んでいたか」
「あーうっせうっせ! 消灯後に来たのは謝るっつの!」
「フン……何の用だ?」
 訪問するなら時間を考えろという訴えを正しく読み取った左右田に若干の感心を覚えつつ、田中はドアを開ける。日中と変わらぬいでたちの左右田が、硬い表情で立っていた。田中がドアに沿うように立って左右田を中に通そうとすると、彼は少し驚いたように目を見はってから、首を振ってここでいいと言った。ドアの下にスニーカーのつま先を噛ませた左右田はひとつ深呼吸をして、こちらを見上げてきた。
「オメーを予約しに来た」
「なに?」
 突拍子もない言葉に田中がそれ以上返せずにいると、左右田は黙って、田中の学ランのポケットに何かを素早く突っ込んできた。
「明日になってからじゃ絶対先越されちまうからなァ」
「おい雑種、何の話だ。貴様何を入れた?」
「ちょっ、今確認すんなバカ! 明日、課題終わったらちゃんと時間空けとけよ! すっぽかしたら許さねーからな!」
 いつも通りの声音に戻って一方的にまくし立てると、左右田はドアの下からスニーカーを引っこ抜き、「じゃーな」と背中で言い残して大股に去っていった。そして、スニーカーに代わってブーツのつま先をドアストッパーにした田中をついに振り返ることなく、自分のコテージのドアを開け、中に入っていった。それきりだった。
「……ゲヘナをも凌駕するな、あの男のもたらす混沌は」
 田中はドアを閉めて施錠をしてから、再びロッキングチェアに腰かけた。学ランのポケットを、外側から軽く叩いてみる。かさ、とかすかに乾いた音がした。
 予約。左右田の言葉が蘇る。まさか金か、と田中は疑ったが、この島に現金を持ち込むことができていた者はいなかったはずだ。
 ポケットから出てきたものは、やはり金ではなかった。一枚の紙切れ。一度丸められたものを丁寧に伸ばしたらしく、細かい折り目がたくさんついている。
 しばらく紙切れを眺めていた田中は、やがてそれを机に置いた。
「……おもしろい。俺様もちょうど、奴の生態を暴いてみたいと思っていたところだ」
 クク、と喉で笑うと、氷の覇王は一段落ついたとばかりに学ランを脱ぎ、タオルを手にシャワールームへ消えた。
 あとに残された四匹のハムスター達も眠りにつき、コテージにシャワーの水音だけが響く。
 机には、紫のマフラーに重しをされた紙切れがある。
 しわだらけで文字も掠れたこれが、田中眼蛇夢が左右田和一に渡された、最初のおでかけチケットだった。