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 重厚なカウンターに突っ伏してぐすぐすと鼻をすするミスタを見やり、ジョルノはため息をついた。
 その左手から離れて倒れかけた空のグラスを間一髪で受け止めて、カウンターの中のバーテンダーに水を注文する。「まだ飲み足りねぇ」と恨みがましくこちらを見る一対の瞳は、涙と酔いですっかりとろけていて、日頃の迫力などあったものではなかった。

「なあジョルノ、ちょっと今夜付き合ってくんない? そんなシケた仕事明日でいいだろ」
 今日の夕方、ミスタからの誘いを受けて、ジョルノは久々に定時で仕事を切り上げた。
 いつも明るいミスタが、ときどき今日のように浮かない顔で夕食に誘ってくることがある。初めのうちこそ何事だと心配していたジョルノだったが、すぐに慣れた。ミスタに元気がないときは、十中八九付き合っていた女に振られたときだと気付いたからだ。つまり、ジョルノが慣れるくらいには、ミスタは頻繁に女とお別れしているということになる。
 多少のことは気にせず前に進む性格であるミスタだが、女絡みに限っては、極限まで落ち込んでから前を向くタイプであるらしい。その都度付き合わされるジョルノはうんざりしないと言えば嘘になるが、落ち込んだ穴の底にいてほしいとミスタに望まれているのは悪い気がしなかった。

「ほらミスタ、水」
「ん……あんがと」
 バーテンダーから受け取った水のグラスを手にミスタの肩を叩けば、彼は案外素直に礼を言い、のそのそと身を起こした。涙の残る目尻をじっと見つめるジョルノの視線に気付いたか、ミスタは袖口の赤いニットの腕で自ら目元を拭う。ジョルノは伸ばしかけていた指先をそっと引っ込めて、ミスタに水を手渡した。
「あー……うめえ、水ってうめえ。染みるなぁ」
「よかったですね」
「あんだよ、つめてーな……やさしくしろよ、オレへこんでんだから」
「そんなこと言われても、ぼくまだ詳しい話聞いてないし。振られた振られたって泣いてるばかりじゃあかける言葉も見つからない」
「説明すんのも悲しいの! 付き合えよッ、気長によぉ!」
 水のグラスを勢いよく空にし、ミスタは氷が溶けて薄まったウイスキーのロックも続けて飲み干した。「おかわり。ダブルな」と据わった目でバーテンダーに告げ、物憂げな吐息を漏らす。コースターを見つめるその瞳にまた涙が滲んだのを見て、ジョルノは下唇を噛んだ。

 ミスタはプレイボーイであるわりに、女のために割く時間の優先順位がさほど高くない。特定の恋人がいたとしても、任務とあらば平気で数日から数週間姿をくらます。その間、プライベート用の携帯電話の電源は切られる。さらに言うなら、音信不通になる旨を恋人に伝えもしない。そんなだから、当然恋人からは愛想を尽かされてしまう。
 面と向かってあなたとは終わりだと言い渡されたり、留守電に一方的な別れのメッセージが残されているのはまだいいほうで、女たちはたいていミスタに断りなくミスタの恋人という立場を捨てている。数週間ぶりに合鍵を使って女の部屋に入ったら、恋人であるはずの女が知らない男とお楽しみ中で、その男に思いっきりぶん殴られる。そんな修羅場も、ミスタの人生の中においては珍しい出来事ではないというのだから驚きだ。
 結果から言うと、今回もそれらの前例に漏れないパターンのお別れであったらしい。しっかりした女で、最後も自然消滅ではなく、目を見てハッキリと「さよなら」と言われたのが逆に堪えたと、ミスタはうめくように言った。
「『何も言わずに音信不通になるなんて信じらんない』とか、『あたしのことなんてどうでもいいんでしょ』とか、ペラペラ好き勝手言ってよお……しょーがねーじゃん。そんな、足がつくようなことするほどマヌケじゃねーっての」
「さすが。ギャングの鑑ですね」
「だろぉ!?」
「きみがギャングだってこと、今回も相手には……?」
「言うわけない。言ったって、オレにとっても相手にとってもいいことねーから、な……」
 注文どおりダブルで出されたウイスキーのロックをひと口飲んで、ミスタは気だるげに頬杖をつく。ひく、としゃっくりをしたのに合わせてこぼれ落ちた涙が、透き通った氷の表面に音もなく着地する。
 ミスタにとって、仕事とプライベートは人生の中で同一線上にあるものでも枝分かれした道でもなく、はなから交わることのない平行線なのだ。その二本の線の上を踊るように飛び移りながら、ミスタは生きている。どちらかの線上を歩いているとき、もう一方の線のことは考えもしない。仕事の線の上を長いこと歩き続けたあと、プライベートの線に飛び移りさえすれば、そこで待っていた恋人と楽しいオフタイムを過ごせると思っている節が彼にはある。仕事の線の上には間違っても恋人を連れて行かないし、線の存在自体匂わせもしない。
 自分の中に二つの世界を両立できる器用さがあるのに、愛した相手がその世界に馴染んでくれない。それで悲しむミスタを見ていると、その器用さが果たして才能なのか、それとも欠陥なのか、ジョルノにはわからなくなってくる。
 ただひとつだけ、言えることはあるけれど。いざミスタを前にすると、どうしても言葉にすることができない。

 かくんと、ミスタの頭が頬杖をした手から落ちかける。肘をつき直した先にあったグラスをジョルノがずらしたのをとろんとした目で見やり、ミスタは「あーあ」とふやけた声を発した。両腕をカウンターの上に組み、それを枕にまた突っ伏してしまう。ぐす、とくぐもった音が聞こえた。
「……かなしい、オレ。いつもうまくいかねえ」
「減らしてあげましょうか? 仕事」
「ヤダ。そーいう折り合いのつけかたは、好きじゃあねー。わかってんだろ」
「まあね」
「けっこー意地悪い、よな……おまえ……あー、やばい……目ぇまわる……」
「飲み過ぎです。帰りましょう、家まで送るから」
 ミスタのグラスにわずかに残っていたウイスキーを飲み干し、喉を焼かれるような熱さに顔をしかめないようにしながら、ジョルノは会計を済ませた。
 突っ伏したままうなっているミスタの両手首を引っ張り出し、コートを着せた。それから、自分の首に腕を回させて立ち上がらせる。ミスタの腰の後ろ、ベルトのあたりをつかむと、自然と正面から抱き寄せているような体勢になる。酔って少し荒くなった呼吸、高めの体温。アルコールとコートに染み付いた硝煙の匂いに混じった、ミスタの香り。たくましい肩口に鼻をうずめて、思いきり吸い込んで。背中に添えた腕にぎゅっと力を込めてから、ジョルノはミスタを支えてゆっくりと店の入り口に向かった。ジョルノの肩に体重をほぼ全て預け、真っ直ぐ歩いてくれない酔っ払いはやや手に余るが、問題ない。こうなることを予測して、ミスタの住むアパートからほど近い店を選んでいた。
「気持ち悪くないですか?」
 首を傾けて問えば、泣いたのと酔いとで赤く染まった目元を緩めて、ミスタは頷いた。
「らいじょーぶ……ありがと、いつも……」
 それきり半分眠ったように頭を垂れたミスタの体を引っ張り上げ直して、ジョルノは木製のドアを押し開けた。外はすっかり日が暮れて、雪がちらついている。さぶ、と小さく声を上げたミスタの腰を、ジョルノはしっかりと支える。

 二つの世界をもつミスタ。
 自分の中の世界がどうなっているのかについては、ジョルノは考えたことがないけれど。
 ひとつ確かに言えるのは、ミスタのもつ二つの世界の両方を、自分は生きているのだということだ。仕事だけでなく、プライベートの線上にもジョルノを連れ込んだのは、他でもないミスタ自身だった。

 仕事の事情は言うまでもなくよくわかっているし、ぼくならきっと、きみと手を取り合って、二つの線上を踊るみたいに行ったり来たりできるのに。プライベートのこの線上で、きみを悲しさや寂しさで泣かせたりなんかしないのに。
 どういうつもりで、毎回礼まで言って、ぼくにそんな姿を見せているのか知らないけれど。都合よく解釈して構わないんですか? ミスタ。

 寒風が吹き抜ける。
 最後に喉に流し込んだウイスキーで少しは酔えたかと思ったが、この寒さですっかり覚めてしまった。後先考えずにものを言おうとしたのを踏みとどまるだけの理性が、戻ってきてしまった。
 ジョルノは開きかけた口を結んだ。ミスタを引きずるようにして、雪の積もり始めたアパートまでの道を歩いた。預けられる重さと熱が愛おしくて、ひどくもどかしかった。