初対峙

 近所の店で万引きがあったらしい。
 被害に遭ったのはうちの店からさらに坂を降りていったところにある惣菜屋で、一パック二百円かそこらの惣菜を盗んで逃げたのはいい歳こいた男だったそうだ。以上、店に来ていた高校生の雑談より。それで嘆かわしいもんだなぁと思っていた翌日に「万引き注意」のビラが挟まった回覧板が回ってきた。内容は高校生が語っていたものよりだいぶあっさりしていて、何月何日に惣菜屋が万引きに遭ったという事実と中学生でも書けるような注意文しか書かれていなかった。犯人が捕まってないわけだからそれくらいしか書けないのかもしれないが、それにしてももう少しどうにかできなかったのか。うちの店より前にこの回覧が回ってきているはずの当の惣菜屋は、どんな気持ちでビラを見ただろう。俺までやるせない気持ちになりながら、白い紙の端に「坂ノ下」の印鑑を捺して、いつものように隣の家のポストに回覧板を入れた。
 万引きに注意しろだなんて言われても、はいわかりましたと防犯カメラだとかゲートだとかをすぐに設置できるほどの時間も金もない。どーすりゃいいんだろなとその日一緒に飲んでいたたっつぁんと嶋田に軽い調子でぼやいたら、「とりあえず仕事中にジャンプ読むのはやめたほうがいいな」「タバコ吸うヒマあったら店の中見張れよ」と俺自身の改善を勧められて参った。それはイヤだとごねて、結局滝ノ上電器店でハリボテの防犯カメラを、嶋田マートでカラーボールを買った。友達の店にこんなことで金を落としてやりたくはなかったが仕方ない。
 翌日店を開けるときに、入り口のあたりにカメラを取り付けた。録画はできない代物だが、いかにもな大きなレンズと無意味にチカチカしている赤いランプはなかなかどうして頼もしかった。四つ入りのカラーボールは、箱のフタを開けてレジの脇に置いた。
 とりあえず万引き対策はしたが、見かけ倒しの防犯カメラを本物に替える日も、中で蛍光色の液体が揺れるボールを利き手に持つ日も、向こう数年来ないに違いない。俺はそう信じていた。信じていたのだが。

 肉まんを買った高校生につり銭を渡し、カウンターの中から制服の背中を見送った。
 回覧板が回ってきた日から一週間。あの日以来、ハリボテの防犯カメラは赤いランプを光らせながら、店に入ってくる客を録画するふりをひたすらに繰り返している。店に来たときや帰り際にピースしていくバカどもは置いとくとして、このカメラもどきが万引きの抑制になっているかは正直疑問だ。
 今出ていった高校生を最後に、店内の客はいなくなった。タバコの灰を落としながら、入り口のガラス戸に目を向ける。数台並んだ自販機の影、さっきからガラス越しにじっと店の様子を窺っている奴がいる。身体の半分以上が自販機に隠れているが、眼鏡をかけた男だというのはわかった。取り付けた防犯カメラがもし本物だったとしても、ぎりぎり死角で映らないだろう絶妙な位置取りだ。
 どう見ても怪しい。怪しいが、万引きをしようとしているという確証があるわけでもない。何なんだお前は。睨んでやったら目が合った。びくっとしたのがわかったが相手は逃げるわけでもなく、なぜか会釈してきた。余計に怪しい。
 まさか店内のものじゃなく、自販機の中のものを盗もうとでもしているのか。俺はレジを閉じ、鍵をエプロンのポケットに入れた。もし相手が万引き犯じゃなかったときの口実としてハタキを持って、ガラス戸を中から開けた。
 慌てた様子で立ち上がった男は、俺より小柄で線が細い。あの、えっと、と落ち着きなく取り繕おうとする様子はもう話にならないくらい怪しいが、眼鏡の奥の目といい声音といい身体全部から人の良さが滲み出ているような奴だ。こっちは素性も知らないんだから後ろ暗いことがあるならここで逃げちまえばいいものだが、相手は逃げずに留まっている。だからって、ああよかったと安心するにはまだ早いだろう。
「小銭でも落としたか?」
 自販機の下をハタキで指しながら白々しく訊いたら、男は「あ、いえっ!」と裏返った声で答えて首を振った。「こそこそして申し訳ないです」と頭を下げられたあたりで、ちらりと辺りを見回してみる。共犯者らしき奴は見当たらない。こいつが未だ捕まらない万引き犯である線はなくなってきたように思えた。
「お店から人がいなくなるのを待っていたんです」
 不穏な台詞を穏和な笑顔に乗せて言われ、反応に困った。万引きなら混雑に乗じてやるだろうから、こいつの言うことと一致しない。じゃあこいつは、いったい何者なんだ。 スーツ姿じゃないし、どこかの営業担当というわけでもなさそうだが。
「君が、烏養繋心くんですね?」
 確かに俺は烏養繋心で間違いない。だが、こいつが俺の名前を知る術がどこにあった? 店の名前は母方の姓からとった坂ノ下商店だし、店名がプリントされたエプロンに、名札をしてるわけでもない。どうしてこの見ず知らずの男が、俺が烏養だということを知ってるんだ?
 ──本当に見ず知らずか?
 初対面に違いないのに、なんだかこの男とは話したことがある気がしてきた。それも比較的最近。「あんた誰だっけ」と俺が訊くのと、「申し遅れました、僕──」と相手が名乗ろうとするのと、背後に小さな足音を聞いたのはほぼ同時だった。

 店内に戻ると、挙動不審な男が陳列棚の前でごそごそとカバンを開いているところだった。俺がいないところを狙おうとしたんだろうが、残念だったな。近くに寄って「おい」と声をかけただけで、そいつは面白いくらいに動揺して、何も盗まず一目散に逃げていった。こんなときのためのカラーボールは店の奥のレジの横だ。舌打ちしたところに電話が鳴り響いて、俺はカウンター奥の受話器を取った。配達依頼だ。
 店に入っていく人影を確認し、再び向き直って仕事に戻る旨を告げたとき、あの眼鏡の男は「お客さんですか。わかりました、待ってます」とあっさり頷いた。実際は招かれざる客だったわけだが、そんなことは当然知る由もなかっただろう。
 電話は長引きそうだ。店の外で待つ眼鏡の男を気にしながら電話相手と話しているうちに、馴染みのおばあちゃんが来店してきた。さらに高校生がちらほら現れたあたりで、眼鏡の男は急に慌てたふうになって、通話中の俺に「また改めて来ます!」とやっと聞こえるくらいの声で告げてから、姿を消してしまった。電話を切ったあとは立て続けに接客に追われ、その後店をかあちゃんに任せて交番に報告に行き、戻って店じまいを済ませた店内で落ち着いてタバコに火をつけられたのは数時間後のことだった。
 結局、あの眼鏡の男の正体はわからずじまいだった。 あのとき確かに名乗ってくれようとしてたのに、本物の万引き犯に邪魔されてしまった。
『烏養繋心くんですね?』
 真っ直ぐ俺を見上げた目に見覚えはなかったが、あの穏やかな声には確かに聞き覚えがある。そこまでわかっているのに、あと一歩がどうしても思い出せない。いっそこのカラーボール、あいつに投げつけてやりゃよかったかな。そしたら居所探れたんじゃねぇか? んなことしたら俺が捕まるか。
 電話が鳴っている。交番か。それともまた配達依頼だろうか。もう営業時間は終わってるってのに、狙ったようにかけてきやがって。
 大きく息をついて煙を吐き出し、俺は受話器を取った。全部がつながったのは、その数秒後だった。