昨日の放課後の話である。
いつも部室に入ったらすぐ着替え始める岩ちゃんが、制服姿のままエナメルだけ置いて 、また外に出ていった。
ブレザーを脱ぎながら閉まりかけた部室のドアを押さえて、階段を降りようとしてる背中に「どこ行くの?」と声を掛けたら、岩ちゃんは振り返らずに「すぐ戻る」とだけ言った。全然質問の答えになってなかったけど、そう言われてしまったら「ふーん」としか言えない。手ぶらの岩ちゃんはガンガン音を立てて階段を降り、校舎のほうに歩いて行ってしまった。
その後ものの十分くらいで部室に戻ってきた岩ちゃんは相変わらず手ぶらのままで、教室に忘れ物をしてきたわけではなかったんだなと思った。「岩泉おかえり。どっか行ってたの?」ってさらりと訊いたマッキーに、岩ちゃんは着替え始めながら「ちょっと呼び出されてたから」ってやっぱりさらりと返した。
「松川まだ来てねーの?」
「松つんは今日は遅刻って聞いてる。進路相談だって。ねー岩ちゃん、呼び出されてたなんて俺聞いてないよ? マッキーにだけ教えるなんてひどいっ! 俺ちょー傷付いた!」
泣き崩れてみせた俺に「一生泣いてろクソ川」とだけ返して支度を進める岩ちゃんは全くもっていつもの岩ちゃんで、不自然なところなんて何もなかった。きっと岩ちゃんも進路相談か何かで、たいした呼び出しじゃなかったんだと思った。だから俺も安心して、もうそのことには触れずに練習をこなして、いつものように岩ちゃんと一緒に帰ったんだけど。
「岩ちゃん、俺に何か隠してるでしょ」
昼食に食べた菓子パンのゴミをまとめながら、俺は上履きのつま先で机の下の岩ちゃんの足を突っついた。
向かいに座った岩ちゃんはとっくに弁当を食べ終えて、手持ち無沙汰な感じでどこかそわそわしている。弁当を食べるのが速いのは今に始まったことじゃないけど、それにしても今日は一段と速かった。ほとんど口を利かずに弁当をかっ込む岩ちゃんは何かに追われているかのようで、チキン南蛮は飲み物です!なんて言い出さんばかりの勢いだった。
今日の朝から、岩ちゃんは様子がおかしい。妙に居心地悪そうにしている。朝練中とか部室にいたときはそんなことなくて、今みたいに教室にいるとき限定だ。俺が昨日のうちに異変に気付かなかったのはそのためだった。
そんな異様さを醸し出しておいて、さらに今の俺の言葉にちょっとビクッとしておきながら「別になんも隠してねーよ」なんて真っ直ぐ目を見て言える岩ちゃんは、よく言えば男前で悪く言えば往生際が悪い。
「じゃあ何でそんなそわそわしてんの?」
「ぶん殴るぞ」
「当然の疑問を抱いただけなのに!? ねー教えてよー気になるじゃーん。教えてくれなきゃ今日一日ずっと付きまとうよ?」
「くそうぜーしそれいつもだろ! そんで、メシ食ったんなら早く行くぞ」
「行くってどこに?」
「コンピューター室。五時間目情報だろ」
昼休みが終わるまであと二十分はある。コンピューター室は座席が決まってるから、別に急ぐ必要はないのに。
情報の教科書と筆箱を持って教室を出る岩ちゃんに続いたとき、岩ちゃんが不自然なまでに見ないようにしている方向があることに気付いた。
ちら、と視線を投げてみる。女の子達のグループが目に留まった。体育館に押し掛けてまで俺に黄色い声援をくれる子達とは、ちょっとタイプが違う。
彼女らは揃って岩ちゃんを見ていたけど、一人だけ自分の足元を見ていた。というより、不自然なまでに岩ちゃんを見ないようにしていた。
「及川っ」
引き戸の向こう、廊下に出た岩ちゃんに急かされて、俺も教室を出る。昼休みでざわつく廊下を大股に歩く岩ちゃんに並んで、「岩ちゃん足速ぁい」と媚びた口調で言ってみる。そしたらガン無視されて歩く速度だけ上げられたから、慌てて小走りで追いかけた。
「そんなだからモテないんだってば、岩ちゃん!」
黙れボゲェ、ってすぐさま返してくれるはずの岩ちゃんは無言だった。それでも俺は口を閉じられなかった。軽口でも叩いてないとやっていられない。確信に近い悪い予感が、胸の中でむくむくと膨らんでいた。
コンピューター室の鍵は開いていたけど、案の定まだ誰も来ていなかった。出席番号の振られた座席に教科書類を置く。前の授業でこの席についた人はパソコン音痴だったのか、画像の保存の仕方が机の端に鉛筆でメモされていた。
岩ちゃんも俺も出席番号は一桁台だけど、「う」から始まる苗字の奴がいるせいで隣同士になれない。それはそれで別に悪くない。ひとつ席が離れるとある種のセンサーが利かなくなるのか、キーボードと格闘する可愛い姿を俺がどれだけ眺めようと、岩ちゃんは文句を言わなくなるから。
まあ、あくまで「悪くない」だ。一番いいのはやっぱり岩ちゃんの隣に決まってる。ここの席の奴今日授業サボってくれないかなと思いながら、俺は時間制限つきの空席に腰を下ろした。
「……あのさ、告白された、昨日。だから教室いるとちょっと気まずい」
椅子をぐるっと俺のほうに向けて、岩ちゃんは開口一番言った。俺に隠し事なんて身の丈に合わないって、教室からここまでの道のりの中でようやくわかってくれたみたい。
そういう報告は本来もっと軽くしてくれてもいいものなのに、岩ちゃんの口調は重々しい。告白されちゃった、なんていちいち報告しては相手の心をかき乱そうとするおちゃめな俺とは違って、岩ちゃんはどこまでも真面目で誠実だった。そういうところ俺にしてみたら本当に馬鹿で、でもその馬鹿さもすごくいとおしい。
やっぱりそうかと思いながら、俺は「えっ嘘でしょ?」と大袈裟に驚いてみせた。動揺したのは事実だから、なかなかリアルな驚き方ができたと思う。
さっきクラスメイトの女の子を見た時点で可能性としては考えていたけど、それでも信じたくなかった。あのモテない岩ちゃんが、俺以外にモテちゃいけない岩ちゃんが、告白されただと?
「……岩ちゃんの、どこが好きって言ってたの?」
岩ちゃんを好きなのは誰なのかとか、昨日のどのタイミングで告白されたのかとか、もう全部わかってるから訊かなかった。でも岩ちゃんはそのへんの質問からくるだろうと思っていたみたいで、ちょっと意外そうな顔をした。自分で思ってるよりもずっと、岩ちゃんはわかりやすいのだ。
「そこから訊くとかお前ほんと俺のことナメてんな」
「岩ちゃん待ってマウスは投げちゃダメ!」
「キーボード盾にすんのもダメだろ!」
パソコンの周辺機器を手にしばらく睨み合ったけど、やがて岩ちゃんが小さくため息をついて、右手に構えていたマウスをマウスパッドの上に戻した。
「どこが好きとか、別に言われてねぇよ……好きだからよかったら付き合ってくださいって」
頬のひとつでも染めればいいのに、岩ちゃんの顔色は普通に浅黒いままだ。俺がモテるのがおもしろくないって普段あんなに僻んで嫉妬して当たり散らしてくるくせに。いざ自分が告白されてみたらこれだ。岩ちゃん、君はなかなか罪な男だよ。
それにしても、好きだからよかったら付き合って~とはまあなんてずるい告白なんでしょう。自分本位の想いを一方的に告げておいて、「よかったら」なんて口だけの選択の余地を与えるあざとさときたら。おとなしそうに見えても、女の子はこれだから油断ならない。
「えー何ソレ、雑な告白ー。岩ちゃんそれさぁ……何かの罰ゲームだったんじゃないの? ああいうのってモテない人が狙わイタァーッ! だからマウス投げないでって!」
「次は鼻を狙う」
「もうやだよ鼻血騒動は!」
マウスが命中したおでこをさする俺をジト目で見たまま、岩ちゃんはハンバーグを作るときみたいに両手でマウスのキャッチボールをしている。ほんと暴力的なんだから。
「雑な告白」って言い得て妙だと思うけど。どこが好きなのかも伝えられないのに、よく岩ちゃんに告白しようなんて思ったもんだ。
岩ちゃんの照れた顔とか泣き顔とか、見たことないわけでしょ?
バレーで怪我したりさせたりしないようにちゃんと爪にやすりをかけてあることも、キツそうに見えてほんとは面倒見よくて優しいってことも、知らないわけでしょ?
岩ちゃんの好きなとこ面と向かって百個は言えるぐらいにならなきゃ、岩ちゃんに告白する資格なんてありません。恋する権利すらありません。俺はそれができるから、いつも岩ちゃんといていいの。
ドアが開いて、クラスメイトがぽつぽつとコンピューター室に入ってきた。もうすぐ予鈴が鳴る。俺はちょっと岩ちゃんに寄って、声を落とした。
「それで岩ちゃん、断ったんだよね?」
「あたりめーだろ」
同じく声を小さくして、岩ちゃんが短く言う。間髪入れずにそう答えてくれてほっとした。一番は俺だって自信はあるけど、岩ちゃんが実際告白されたとあればさすがに不安になる。
予鈴が鳴ると同時に、俺が座ってる席の奴がのんびり入ってきた。 その後ろに、岩ちゃんに告白した女の子が続く。友達を含む四対くらいの目線から逃れるように、岩ちゃんがすっと視線を逸らした。
「何て言って断ったの?」
椅子から腰を浮かせながら訊くと、岩ちゃんは目だけで俺を見て「今はバレーに集中したいから、って」と消え入りそうに小さい低音で答えた。
ベタな振り方したねぇと言ってやりたかったけど、空けたばかりの岩ちゃんの隣の席が埋まってしまったせいで叶わなかった。自分の席につくと、パソコンの黒いディスプレイに、斜め後ろに座った例の女の子が映っている。その目線の先には岩ちゃんがいる。パソコンの電源を入れたら、その子は消えた。
終学活を終えて、部活に行こうと岩ちゃんと下駄箱まで降りたところで、教室前のロッカーに英語の問題集を置いてきたことに気付いた。
「あれって明日提出だっけ? 岩ちゃんの見して」
「ふざけんな、俺もまだ終わってねーっつの」
「じゃあ練習終わったら一緒にやろう?」
「お前と勉強してはかどったためしがねーからヤダ。先行ってるから早く取ってこいよ」
「そこは『待ってるから』じゃないの!?」
呆気に取られる俺を置いて、靴を履き替えた岩ちゃんは一人でさっさとクラブ棟のほうに歩いていってしまった。岩ちゃんのこういうとこほんとびっくりする。
仕方なく脱ぎかけた上履きのかかとを踏んで、来た道を引き返す。途中すれ違った何人かの女の子が「及川先輩、部活行かないんですか?」って可愛い表情と声音で話しかけてきてくれたから、「忘れ物しちゃったんだ」ってとびっきりのやっちゃったスマイルを返しておいた。及川さん株、また上がっちゃうな。
教室の前までくると、中から話し声がした。ドアの隙間から何の気なしに覗いてみて、ぱっと身を潜める。岩ちゃんに告白したあの子が、友達と一緒に残っていた。
中腰のままドアの前を通り過ぎて、そっとロッカーの鍵を回す。音を立てないようにプルプルしながら扉を開けてたら、隣の教室から出てきた松つんが「何してんの及川」なんて普通に話しかけてくるから、慌てて唇の前に人差し指を立てた。松つんは不思議そうな顔をしたけど、「遅刻すんなよ」とだけ言い残してゆらりと去っていった。今だけはこのクールさに感謝。
ロッカーを閉めるときはどう頑張っても音が出てしまう。とりあえず扉は開けたままにしておいて、取り出した問題集をエナメルにしまいながら、俺は聞き耳を立てた。一応言っておくけど、いつもはこんな趣味の悪いことしないからね?岩ちゃんに振られたばかりの女の子が友達とどんなことを話すのか、気になるだけだから。
「──でもさ、ショックだったけど、しょうがなかったよ」
「しょうがなかったって……何て言われたの?」
切れ切れに聞こえる会話は、間違いなく岩ちゃんに関わることだ。振られた子の声は意外としっかりしていた。
岩ちゃんが何て言ったのかは本人から聞いた。「今はバレーに集中したいから」だ。今日びあんまり聞かないような、古典的な振り方。「君に構っている暇はないから」をスポーツにかまけて爽やかに言い換えた、実は冷たい振り方。いかにも岩ちゃんらしかった。
「付き合ってる奴いるから、って言われたの」
エナメルのファスナーにかけようとした手が止まった。俺の聞いた話と違う。
「高校入る前からなんだって。私、知らなかった」
「えっ、岩泉くん彼女持ち!?」
「意外ー。そういうの興味なさそうなのに」
「やっぱそのへん先に調べとくべきだったんじゃん?」
「ほんとだよねー。あーあ」
気付いたら両手で口を押さえて、息すら殺してる自分がいた。
高校に入る前からずっと一緒の、岩ちゃんの恋人。そいつのことならよく知ってる。岩ちゃんが大好きで、自分以外の奴にモテるなんてありえないと思ってて、いざ岩ちゃんが告白されてみれば馬鹿みたいに動揺するばかりの、どうしようもない奴。
ガタガタ椅子が動く音がしたから、それに乗じて素早くロッカーの扉を閉めた。だけど鍵を締める手がもたついたせいで、教室から出てくる女の子達とばっちり鉢合わせてしまった。
「ああ、どうも」
今用事を済ませたんですよというていで微笑んでみせたら、彼女らはちょっと焦るようなそぶりをみせた。そりゃそうだろう、日頃誰よりも岩ちゃんにべったりの俺に、このタイミングで会ってしまったんだから。
みんな曖昧に会釈しながら足早に離れていったけど、岩ちゃんに振られたあの子だけが、友達の後に続きかけてぴたっと足を止めた。俺を振り返る。後ろから差す西日の作る影が長く伸びて、俺の足元に突き刺さっている。
「あのさ及川くん、岩泉くんに付き合ってる人がいるって、ほんと?」
掠れた声。軽い調子で訊いたつもりなら滑稽だなと思った。少し離れたところで立ち止まった他の子達が、目配せし合いながらこっちの様子を窺っている。
「うん、ほんと」
エナメルを肩にかけて、俺は静かに言った。
「岩ちゃんの好きなとこ、百個ぐらい言える子なんだって」
じゃあね、と手を振って、女の子達の横をすり抜ける。
岩泉くんの付き合ってる人。誰なのかってストレートに尋ねてくれたら、喜んで教えてあげたのに。
そろそろ部活が始まる。足を速めて、俺は素直じゃない恋人の待つ部室を目指した。何度引き締めようとしても、勝手に口の端が緩んで仕方なかった。