クロスロード

 前方の信号が青から黄に変わった。少し距離がある。アクセルを踏みかけたが、このあと特に急ぎの用事もないので、思い直して右足をずらした。ゆっくりとブレーキを踏む。
「おー。珍しく安全運転じゃん」
 後方から間延びした声が届く。
 悪かったな、おまえほどじゃないけどいつも運転荒くて。
 心の中で悪態をついて、僕はルームミラー越しに後部座席のミスタを見た。
 ミスタはパワーウインドウに寄っかかるように頬杖をついて、ゆるやかに速度の落ちていく景色をぼんやり眺めている。物憂げな瞳。筋張った手に隠れていて口元は見えない。ひと仕事終えて眠たいだけだろうとわかっていても、ふとしたときのこいつは見た目だけはミステリアスでハンサムなのだ。
「フーゴぉ」
 見なけりゃよかったと思った直後、ミスタが改めて僕を呼んだ。見た目だけ、と言ったが、こうして気だるげに発せられる声もまあ、ほどよく低くて甘くていいと思う。
 もっと言うなら、ちょっとしたときの立ち居振る舞いも、ズボラでだらしないくせにここぞというところでサッと気を利かせられる緩急も、悪くない。──いや、好ましい、正直。そんなこと認めてやるのは本当に悔しいが、認めないのは負けたみたいでもっと悔しい。
 ルームミラーの中、ちょっと姿勢を変えたミスタがこっちを見ている。僕は「なに」とだけ返して、一瞬合った視線を外して信号に集中した。握りしめられたハンドルの革が軋んだ音を立てる。
 今日の僕は機嫌が悪い。厳密に言うなら昨日からだ。そう、そこそこうまくいっていた年上の女性から「君って完璧すぎて疲れちゃう。あと、ちょっと線が細すぎるのよね」と思い出したように別れを切り出された、昨日の夜から。
 今日はシーラあたりに雑に扱われていれば気が紛れるだろうと思ったが、外仕事のペアにあてがわれたのはちょうど手の空いているミスタだった。男くささと謎の色気と隙を兼ね備えた、つかみどころがないくせにハイブリッドな奴。
 そういうところをこれまで密かに羨むことはあっても僻んだことはなかったのに、今日はいやに癪に障る。僕がミスタのような男なら彼女にもフラれなかったのだろうかと、不毛なことも考えてしまう。どうやら僕は自分で思っているより、突然の失恋に深く傷心しているらしい。
 フラれた八つ当たりでしかないのは百も承知だった。でも、ミスタは何も悪くないと自分に言い聞かせようとすればするほど、自分の狭量さに余計にイライラしてくるからままならない。
「なあ、あのさー」
 間違ってもここでパープル・ヘイズを発現してしまったりしないよう気を張るが、僕の努力なんて知る由もないミスタは、身を乗り出して運転席の背もたれに肘を乗せてきた。急にそばにきた彫りの深いツラを横目で睨んでやるが、当然こいつはそんなの意に介さない。
「信号変わったらあそこ寄って、あそこ」
「ええ?」
 ミスタが歩道を指差すのに合わせて、背もたれからはみ出た肘が右肩に食い込んでくる。
「あそこってどこです」
「指の先見ろよ、あそこだって!」
「具体的に言えッ!」
「ケーキ屋だよケーキ屋! ほれっ見えんだろ! ドルチェ買いてーから寄ってくれ!」
 見れば確かに、信号を超えた少し先にケーキ屋の看板が小さく見えている。右折で入れるし難なく寄れる場所ではある。ばしばし肩を叩いてくる手をハンドルから離した片手で振り払い、僕は「いいけど」と言った。どうしたってつっけんどんな態度になる。
「ジョルノにプリン買って帰りてーのよ。どうせ根詰めてるだろうしさ。無理やり休憩時間にしちまえ〜ってな」
 ミスタは勢いをつけて後部座席に背中を預け、聞いてもないのにぺらぺら話し出す。それを聞きつけたピストルズが自分たちにも何か買えと騒ぎ出すもんだから、車内は一気にうるさくなった。ため息をついてオーディオの音量を上げる。
 ボーカルのシャウトと張る声量でピストルズをなだめてから、ミスタは「いや待てよ」とつぶやいた。さっきまでの気だるいムードはどこにいったのか、やけに浮き足立っている。
「一応何が食いてえか聞いとこうかな。今日に限って違うのが食いたかったりするかもしれねーよなぁ。ちょっとジョルノに電話するわ」
「はあ。好きにしてくださいよ」
 僕が言い終わらないうちに、ミスタは携帯電話を耳に当てた。その体勢のままルームミラー越しに顔をしかめて僕を睨み、空いてる片手を何度か下げるジェスチャーをしてくる。
 わざとじわじわ音量を絞る僕をじれったそうに見ていた顔が、ふいにきりっと引き締まった。小さく咳払いを挟み、ミスタは「よお、ジョルノ」と張りのある声で言った。脚が組み直され、背筋が伸びる。目元に力がこもり、眉と目の間がぐっと狭まる。
「こっちは終わったぜ。おまえは? まだバリバリやってんのかあ?」
 今フーゴと戻ってるとこなんだけど、オレたちがそっちに着いたらおやつの時間にしようぜ。……ダメダメ、いつも言ってんだろ? 適度に休憩入れながらやるのが大人の働き方ってもんなんだよ。つーわけでケーキ屋寄るんだけどおめー何かリクエストある? プリンでいいのか? ……え、チョコケーキ? オーケー、聞いといてよかった。うん、あるだろ多分。そんじゃもうしばらく待っててくれ。チャオ! ──
 交差道路の歩行者信号が点滅し始めるのと同時に、ミスタの通話は終わった。
 黙って一部始終を聞いていた僕は、再び背もたれにだらけたミスタの「チョコケーキがいいんだってよー、ジョルノは」というゆるいテンションの一言を聞いて、ついに吹き出してしまった。
「ヒヒ、わかる、笑っちまうよなぁ」
 つられたようにミスタがニヤッとする。
「好みがカワイイんだもん。でもあいつそういうとこ気にしてんのかな、『いや、今日はチョコケーキがいいです』ってやたらクールな感じで言ってきてさ。ウケケッ、余計カワイイってのな」
「ふふっ、いや、そうじゃなくて……ふふふ」
「あん?」
 頬に笑みを残したま怪訝そうに若干眉を寄せたミスタに、さらに笑いがこみ上げてくる。自覚がないなんてなおさらおもしろすぎるだろう。
 だって、ジョルノと通話していたおまえの気取った声。力んで兄貴風吹かせた口調。向こうから見えるわけがないのに、帽子や首元をしきりに直していた指先。
 前からたびたび思ってはいたが、こうも露骨にされたら笑っちまうに決まってる。ジョルノのこと言えないぜ、ミスタ。
「君もカッコつけすぎだよ、ジョルノ相手だと」
「なっ」
「聞いてておもしろかったぞ」
 ミスタが絶句し目を見開いたのを見届けて、僕は前方に視線を戻した。
「っう、うるせーなぁ……」
 ぼそぼそ言ったきりミスタが居心地悪そうに黙ってしまったから、僕もそれ以上は何も言わなかった。ほんの少しだけ、罪悪感が湧いてきたのもあって。
 悪かったよミスタ。自分の都合で勝手に僻んだ挙げ句、恋に必死なおまえをつっつくことで失恋の痛みを紛らわすような真似してさ。
 ミスタのおかげと言ったら怒られそうだが、実際だいぶ、僕の溜飲は下がっていた。そしてミスタへの好感度はちょっと上がっていた。本当に落としたい人間にはやりすぎなくらい気合入れてグイグイいくこいつのことは、相手がだいぶ難儀とはいえ、まあ当たり障りなく応援はしてやりたい。
 だから、今はあえて言わずにおこうと思う。おまえは変にカッコつけたりしないで、のびのび自然体でいるのが一番かっこいいんだぞ、とは。
 信号がようやく青に変わった。下唇をちょっと出して爪をいじくっているミスタを一瞥し、僕はアクセルを踏んだ。信号の先ですぐに曲がるから、ゆるめに。
「君は何のケーキがいいんです?」
 ハンドルを切りながらそう聞いたら、ミスタはややあって「イチゴケーキに決まってんだろ」とだけ言った。ジョルノはこの先きっと聞くことはないだろう、不貞腐れてくぐもった声で。