モノクロに沈める

 ええとなになに、門が三つ。塀は高くないが見張りが多い……が、先日にも敵襲があったばかりだからみんな疲労困憊、と。ふむ。城はからくり屋敷であちこち仕掛けだらけ。城主はすぐに城を抜け出そうとするから足軽はそっちにも気を張っている。でもこの城主は元忍者なのでどれだけ目を光らせてもすぐに独自のルートで脱走を成功させてしまう……って、なんじゃこりゃ!? こんなのばっかりなのか!? ていうか何ページあるんだよこれ!

 文机に向かった文次郎が、先程から一人でうるさい。とっぷりと日が暮れてからようやく手をつけた宿題に、かなり手こずっているようだ。
 この宿題というのは、一年生ひとりひとりがありったけ挙げた「ぼくの考えた最強の城」に六年生ならどう忍び込むかという記述式の問題集で、言うまでもなく学園長先生の思いつきにより作られたものである。問題文も一年生が書いたものがそのまま綴じられているので、まず読解に相当な手間がかかる。ナメてかかって鍛練を優先させた文次郎はとんだバカタレだ。
 明日の座学の授業は午前中で、宿題もそのときに提出する必要があるわけだが、今から睡眠時間を削って取り組んだところで果たして間に合うかどうか。あの地獄の会計委員長がこんなことで徹夜なんて、下級生に笑われてしまうぞ、文次郎。
 こいつが徹夜して目の下の隈を濃くするのは勝手だが、許せないことがあった。もう夜も遅いというのに、同室の私を先に寝かせてやろうという思いやりが微塵もないということだ。衝立を挟んで寝転んでいても、でかい独り言に邪魔されて眠れやしない。
 文次郎は集中し出すと周りが見えなくなるたちである。だから今の文次郎の頭の中に、寝たいのに眠れなくていらいらしている私など存在すらしていないだろう。
 およそ忍者らしくもないと呆れてしまう。そんなことでは実習中にいつか不意を突かれてあっさり死んでしまうぞと思ったが、胸が張り裂けそうになったので深く想像するのはやめた。
 とにかく、私はもう寝たいのだ。私は同じ宿題に早いうちから取り組み、団蔵のページの解読や、パリパリくっついてそもそも開かないしんべヱアンド喜三太のページに心折れそうになりながらも、日没にはなんとか仕上げた。だから今日は早く眠れそうだなと思っていたのに、このとおりだ。この無計画な鍛練馬鹿のせいで眠れない。
「文次郎、いい加減にしろ」
「あん?」
 衝立から顔を出して声を投げれば、寝間着の袖をまくって文机に肘をついた文次郎が、ぎろりとこちらを見て柄の悪い返事をした。
 目の下の隈は早くも濃くなっていて、いつにも増してひどい顔だ。不機嫌そうにしているが、一から十まで自業自得である。
「もう諦めて補習でもお叱りでも受けろ。眠いんだ私は」
「先に寝りゃいいだろうが」
 面倒くさそうに返す文次郎は、もう私を見てはいない。手元に視線を落として、筆に墨をつけている。
 私は苛立ちを隠さずにため息をつき、衝立から出てじりじりと膝で文次郎に寄った。
「こんなうるさいのに眠れるか」
「なんだよ、眠れねえのか?」
「私はそんなに神経が図太くないんだ。池でも寝られるような誰かと違ってな」
「へーえ? そりゃ苦労するな」
 こちらを見ないまま浮かべられた半笑いがなんとも憎たらしい。うっかり墨でも飛ばしてやるかと覗き込んだ解答用紙はまだ半分近く白紙で、邪魔してやり甲斐のない状態だった。
 まっすぐに並んだ几帳面な字が目に入る。文次郎はいつも、行書の存在を知らないのではないかと思うほど、一文字一文字をきっちり丁寧に書く。留め跳ね払いも完璧で、まるで書写の手本のようだ。
「お前、もっと要領よく書けんのか。書道の宿題ではないのだぞ」
 長考する上にこんな字で書くから時間がかかるのだ。内容が大事なのだから、読めさえすればここまで丁寧に書く必要はないだろうに。
「べつにゆっくり書いてるつもりはねぇよ。邪魔するなら寝ろ」
 筆を動かす手を止めないまま、文次郎が無愛想に返す。筆先がしなって、黒く美しい跳ねの軌跡が残る。
 大人しく布団に戻ってやるのも癪なので、私は文次郎の隣で文机に頬杖をついた。
 見ているだけなら文句はないらしく、文次郎は手元を見つめる私には構いもせずに、筆を走らせていく。時折ぶつぶつ言いながら考え込むので、その間私は文次郎の並べた字を眺めた。紙の上にどっしりと腰を据えた字はつややかに黒く、文次郎の磨る墨の濃さが窺える。
 字に性格が出るとはよく言ったものだと思う。力強く豪快に見えて、一切の妥協を許さないような几帳面さを秘めた字だ。腰を据えて丁寧に書いています、というのが滲み出ているあたりなど、いかにも文次郎だなと思う。
「……仙蔵? 何してんだ?」
 文次郎が、怪訝な顔で私を見た。そこで初めて、指先で文次郎の字を撫でていたことに気付いた。墨でわずかに湿った紙はほのかに冷たい。
「お前に似た字だなと思ってな。可愛いので撫でてやった」
 文次郎が嫌う形容詞をわざと用いて言ってやれば、文次郎は化け物でも見たかのように目を剥いた。 
「っバカタレ……寝ぼけてんのか?」
「寝ぼけようにもお前のせいで眠れんと言ってるだろう。ほら、無駄口きいてる暇があるなら手を動かせ」
「うるせぇ、わかってる!」
 文次郎はしかめっ面になり、鼻息荒く紙に向かう。ちらりと寄越されたうっとうしそうな視線には構わず、私はいとおしさの向くままに、乾いてきた字を撫でた。
 ついに無機物にまで愛情をおぼえるようになるとは。自分の酔狂ぶりに少々驚くが、よくよく考えてみれば、文次郎から生み出されるものを無関心に見ろというほうが無茶な話だ。
「仙蔵」
 小さな声に呼ばれて、私は顔を上げた。頬をうっすら染めた文次郎が、なんとか作った感じの仏頂面でこちらを見ている。視線を結んだままなお字を撫でていると、文次郎はくっと息を詰め、いよいよやりきれないような顔をして俯いてしまった。凛々しい両の眉の間に刻まれたしわは、いつものことながら、十五にしては苦み走りすぎている。
「なぁ頼む……それ、やめてくれ。全然はかどらねぇ」
「なぜだ? 続ければいいだろう」
「気が散る! それに、……」
「それに? なんだ?」
「……やっ、やらしいんだよっ、なんか…」
 耳まで赤くしながらこの世の終わりのような声で訴える文次郎に、口角がつり上がるのを感じた。
 字を構っていた指で膝を撫でてやれば、文次郎はひっと情けない声を上げて体勢を崩した。その拍子に筆を持ったままの右手が跳ね上がって、玉になった墨がぱたぱたと紙の上に散った。
「あぁっ! くそっ、何しやがる!」
「読めればいいんだ、このくらい問題ないだろう。いちいち大げさなやつめ」
 みるみる円く広がっていく墨が、文次郎の字に重なる。美しい楷書が、完璧だった留め跳ね払いが、ところどころ歪に崩れていく。
 私が崩した。お堅い文次郎を初めて乱した記憶とどこか重なって、無性にぞくぞくした。
「……お前の思考回路は理解できねえ」
 思いがけず訪れた背徳感からくる愉悦は、どうやら顔に出ていたらしい。ひくりと口の片端を引きつらせた文次郎が、首を振りつつおぞましげにつぶやいた。
 心外だ。私の可愛い愛情表現をやらしいとか言って、あんな思わせぶりな反応までしておいて、よくもまあ自分ばかり常識人の顔ができるものだなあ、文次郎?
「どうする? 一から書き直すのか?」
 文次郎のあぐらに乗り上げ、真っ黒な瞳を覗き込んで問う。そのまま肩に手をついて体重をかければ、されるがままに倒れそうになった文次郎は慌てて肘を床につき、上体を支えた。
「それとも、諦めてもう寝るか?」
 文次郎は答えない。揺らいだ視線が私を越えて、文机にある宿題に向けられる。それから衝立の向こうの畳まれた布団を経由して、文次郎は再び私を見た。
「……せめて、どっちかは選べるようにしとけよ」
「寝かせてはやるさ、いずれな」
 剣呑に細められたほの赤い目の縁を親指でなぞり、荒れた唇に口付けを落とした。文次郎の身体からすっと力が抜けて、その背が床に預けられる。
「いい子だな、文次郎」
「お前に褒められたってしょうがねえんだよ」
 墨の匂いの立ち込める中、文次郎の白い寝間着に私の真っ黒い髪が落ちて、さらりと歪に広がっていった。