明日へ続く道

 坂ノ下商店の前で別れたはずの彼の気配が消えないことに気付いて、帰路につこうとしていた僕は足を止めました。
 僕が見えなくなるまで見送りをしてくれるというような、乙女のようなことはしない彼です。いつも早々にポケットから鍵を引っ張り出して、お店の裏口から家に入っていきます。もっとも、「なんか恥ずかしいからじっと見るな」と言われてしまってからは、僕はその一部始終を、彼の衣擦れと鍵の回る音だけで感じているのですが。
 立ち止まって振り向いてみると、やはり彼は僕のほうを見ているわけではありませんでした。別れた場所に立ったまま、ごそごそと自分のポケットを探っているだけ。やがて引き抜かれた両手がジーンズのあらゆるポケットを外側から叩き始めたあたりで、僕は彼が未だ街灯の下に立っている理由を何となく把握することができました。
「烏養君」
 一人で進んだ数歩を戻りながら彼の名を呼ぶと、烏養君はしかめっ面になって、くわえ煙草の口元を少し歪めて僕を見ました。
「もしかして、鍵なくしちゃったんですか?」
「あー、なくしたっつーか……持ってくんの忘れたみてぇだ」
 彼に倣って視線を上げると、無情に閉められたカーテンが目に入りました。今の時間は午前一時。中からは物音ひとつ聞こえてきません。烏養君の帰りを待たずに、皆さん眠ってしまったようです。一度お母さんにお会いしておきたかったのになと、ちらりと場違いなことを思いました。
「ということは……家に入れない?」 
「いや、問題ない。鍵忘れたときのために、昔っから母ちゃんがこの下にスペアの鍵をだな……」
 僕が見ていることにも構わず、烏養君は玄関先の植木鉢のひとつに手をかけました。
 僕を信用してくれているんでしょうか。そうだとしたら、とても嬉しく幸せなことです。でもそれはそれとして、実家暮らしの息子が齢二十五を過ぎてなお隠し鍵を設けている家庭が、果たして存在するものなんでしょうか。
 植木鉢を持ち上げて下を覗き込んだ烏養君の唇から、短くなった煙草がぽろりと落ちるのが見えました。
「やばい。ねーわ、鍵」
 そうでしょうね、とは言えず、僕は「ありませんでしたか……」と返すだけにとどめます。
 落ちた吸い殻を律儀に拾い上げて、烏養君はしゃがんだまま重く長いため息をつきました。

 今日の練習後、暇だったら飲みに行かね?と誘いをかけてきたのは彼のほうでした。
 ちょうど定期テストの採点を終えたのもあって、僕は二つ返事で彼の誘いに乗り、バレー部のみんなを見送った後に烏養君と馴染みの居酒屋に向かいました。
 明日は早朝のそらまめ収穫はないと言っていたものの、自営業跡継ぎの烏養君には基本的に休日がありません。だから早めに帰さなきゃと思っていたのに、カウンター席の隣でビールをあおる烏養君と談笑するうちに、彼は僕の教え子でも未成年でもないから多少の夜更かしは大丈夫だろうと、言い訳じみた理屈でもって自分を納得させてしまっていました。その結果、これです。
 こんなことなら、やっぱり早く家に送り届けてあげればよかったなぁ。
 今一度ポケットを探る烏養君を見下ろしながら、心の中で白々しく呟いてはみるものの、いい展開だと親指を立てるもうひとりの自分のことを僕は無視できずにいます。
 そう思ってしまうのも仕方がない、だって僕は彼のことを愛しているから。──なんて、自分勝手を無理矢理美しく言い変えようとする僕のくだらない葛藤を、彼は知る由もないでしょう。
「あのっ、烏養君。もしよかったらなんですけど、僕の家来ますか? 泊まっていっていいですよ」
 やましい気持ちを抜きにしても、今はこの方法が最善のように思えました。
 明日は学校も部活も休みだから、今日は僕が烏養君を一晩泊めて、彼の仕事に間に合うように明日またここに送り届ければいい。
「先生んちに?」
 いつの間にか新しい煙草をくわえていた烏養君が、ライターで火を点けながら僕を見上げました。
「助かるけど、いいのかよ? 親御さんとか」
「それなら大丈夫です! 僕、一人暮らしですから。ちょっと散らかってるし狭いですけど……」
「へー、先生一人暮らしかあ」
 感慨深そうな顔をした烏養君は、やがてゆっくりと立ち上がりました。そして少し腰を屈めて真っ直ぐに僕の目を見ると、大きな両手をぱんと合わせ、ぎゅっと目を閉じました。
「じゃー、わりぃけどそうさしてくれ! 朝にはおいとまするからよ」
「はい、喜んで!」
「……喜んで?」
「あっ!? いやっあのっ、スミマセン!」
 曲がりにも高校教師だというのに、どうして僕は彼を相手にするとこうも油断してしまうのでしょうか。
 びゅんと風を切って下げた頭はそのままにおずおずと視線を上げてみると、仏頂面の烏養君と目が合いました。今が日中なら、その顔色の変化も少しは見て取ることができたのかもしれません。
「……別に、わざと鍵忘れてきたわけじゃねーんだからな」
「そ、そうですよね。うん、わかってますそれは」
「早く行くぞ先生」
 そう言うが早いが、烏養君は僕に先立ってずんずん歩いていってしまいます。アパートの場所、知らないはずなのに。
 コンパスの違いを埋めるように小走りに追いかけたら、彼は立ち止まって僕が隣に並ぶのを待ってくれました。
 紫煙を燻らす烏養君と並んだ僕の考えることといえば、布団はひとつしかないが大丈夫だろうかとか、留守にしがちのお隣さんは今日も変わらず留守だろうかとか、そんなことばかり。
 下手な高校生より節操がないなぁと自嘲するそばから、部屋にずっとあるコンドームは果たして何年物だっただろうか、そもそもちゃんと残っていただろうかなんて考えていることに気付き、僕はさすがに自分に失望せざるを得ませんでした。
 ……途中でこっそり買っていったほうがいいかな。
「そうだ先生、途中でどっかコンビニ寄ってくれ」
「へっ!?」
「もうないから」
 思いきり動揺した僕のろくでもない内心を知ってか知らずか、烏養君はぺたんこになったタバコのソフトケースを手に、にっと歯を見せて笑うのでした。