名前

 ああ、轟くん。君、轟焦凍くんだろう?
 飯田に初めて下の名前を呼ばれたのは、雄英高校に入学して間もない頃、四月の桜並木を足早に歩いていたときだった。轟が足を止めて振り返ると、制服を一糸乱さず着こなした飯田がこちらに歩み寄ってきていた。
 そうだが、と短く返した轟の無愛想さを気にするでもなく隣に並んだ飯田の背が、自分より少しだけ高いのだと知ったのもそのときだ。こちらを見る飯田の目線がほんのわずか、しかし確かに自分を見下ろしていたものだから、轟はむっつりとした顔のまま気持ち背筋を伸ばした。
「俺は、同じクラスの……」
「飯田だろ。知ってる」
「む、そうか!」
 クラスメイトにさほど興味のなかった轟だが、入学式当日に爆豪と派手にやりあっていたのを目の当たりにしていれば、嫌でもその名は記憶に残った。下の名前は覚えていなかったが、学生生活を送るにあたり大した支障にはならないとそのときの轟は思っていた。
「誉れ高き雄英ヒーロー科に入学した者同士、共に切磋琢磨していかねばな! これからよろしく、轟くん!」
「ああ」
「では、俺は先に行くぞ。学生たるもの、始業十分前には席に着いているべきだ。ではな轟くん、また後で会おう!」
「ああ」
 適当な相槌で済まそうとする轟相手に言いたいことを言って、飯田は轟を追い越し風のように去っていった。エンジンなしでも速いのか、と轟が思い出したようにつぶやいたときにはもう大きな背中ははるか遠くにあって、桜並木には元通り舞い散る桜と轟だけが残された。
「……忙しい奴だな」
 飯田の張りのある声が未だ耳の中でわんわんと響いているような気がして、轟はゆるく首を振った。それから通学鞄を肩にかけ直し、再び学び舎へと歩を進めていった。

 

 あれから二年。
 飯田が轟に声をかけ、颯爽と追い越していったあの桜並木で、二人は向かい合って立っている。花が咲くにはまだ少し早い桜の木々は、伸ばした枝の先を桃色に染め、開花のときを今か今かと待っているようだった。
 雄英に通ううち、轟はいくらか背が伸びた。卒業証書を手にした目の前の飯田もまた成長し、上背も肩幅もよりたくましくなっていた。結果として、轟が彼を見上げる構図は変わらない。それでも轟の心は穏やかだった。頬を撫でる風が暖かい。
(これからよろしく、轟くん!)
 二年前飯田にかけられた言葉を思い出し、轟は小さく笑う。よろしくとは言われたが、まさかここまで深い関係になるなんて、自分達をはじめいったい誰が予想できただろう。多感な青少年が友情で結ばれ、葛藤を乗り越えた末にそれ以上の関係を築くのに、三年という月日は長いようで短かった。
「何を笑っているんだい?」
 目の前で不思議そうに首をかしげた飯田に、轟は前述の内容を率直に伝えた。すると飯田は少しはにかんだ様子で「そうだなぁ」と笑んだので、その延長で轟は続けた。
「おまえが初めて俺の名前呼んだのも、あの日だ」
「君の名前を?」
「ああ、『轟焦凍くんだろう?』って」
 それを聞いた飯田は、「そ、そうだったか……」と呟いて、どういうわけか顔を曇らせてしまった。
「飯田?」
 声をかけてきたときの手の動きまで真似して再現したのがまずかったのだろうか。密かに反省しながら轟がそっと顔を覗き込むと、飯田は急に拳を握りしめ、「僕は馬鹿だ……!」と絞り出すように言った。轟はぱち、とひとつ瞬き、「どうした?」と心の底から発した疑問符を投げる。眉間を押さえた飯田はなんだか悔しそうだ。
「俺は、君とこういう仲になってから呼んだのが初めてだと思っていた。……君が、そうしてくれたみたいに」
「……おお」
「そんな、ただのクラスメイトに他ならないときが最初だったとは……迂闊だったよ……」
 絵に描いたように頭を抱える飯田は真剣そのものだ。全身で嘆きの感情を表現する彼を見ているうちいとおしさが込み上げてきて、轟は眉を下げた。
 飯田はそういうロマンチックなことに無頓着なようで、意外とこだわる。それも、自分がする行動限定で。仮にあの日声をかけたのが轟のほうで、「おまえ、飯田だろ。飯田天哉」なんてさらりと初の名前呼びを済ませてしまっていたとしても、飯田は今も微塵も気にしなかったに違いない。馬鹿みたいに自分に厳しく、馬鹿みたいに轟が好きなのだ。飯田天哉という男は。
「無粋な男で本当にすまない! 悪く思わないでくれ。……焦凍くん」
 腰を直角に折る勢いで頭を下げ、その後ぽそぽそと消え入りそうな声で許しを乞うた飯田に、轟はとうとう小さく吹き出した。人間が笑ってしまうのは、可笑しさが臨界点を超えたときだけではないらしい。轟はもはや緩んだ口元を隠そうともせず、自分より低い位置にきている飯田の頭を撫でた。硬く艶やかな黒髪が指の間をくすぐる感触にすら、肩を揺らして笑ってしまう。
「気にしちゃいねえよ、天哉」
 ぽん、とそのまま軽く頭を叩いて、轟は言った。
 飯田はしばらく頭を上げなかった。轟の目前に晒されたうなじと耳が、一足早く咲いた桜のように薄桃に染まっていった。