「俺は昼寝はしないぞ」
「……え?」
なんの含みもなく告げた言葉に轟が疑問符で返してきたことが、飯田にとってはそれこそ疑問だった。
級友と言うには近く、親友と言うにはこそばゆい関係になってから、日曜日に轟が飯田の部屋を訪れるのは珍しいことではない。図書館で一緒に勉強した流れでその後の時間をともに過ごすこともあれば、轟が直接やってきてドアをノックすることもある。飯田が轟の部屋に赴くこともあるが、頻度で言えば轟が来ることのほうが多かった。
曰く、飯田の部屋にあるベッドが気に入っているらしい。その言葉に違わず、ここに来ると彼はまず決まってベッドに腰かけるし、そのうち寝転がって枕元の本を適当に取り、読書をし始める。そしてページをめくる音がしなくなった頃に飯田が見ると、たいてい目を閉じて静かに寝息を立てているのである。気ままな猫のようだ、と飯田はいつも呆れ半分微笑ましさ半分でその様子を見ていた。
「そんなにベッドが好きなら、君の部屋にも置けばいいのに」
一度だけ、そう言ってみたことがある。するとうつ伏せになった轟は枕に頬を乗せたままこちらを見て、ちょっとムスッとした顔で「……俺の部屋には合わねえし、いつも身近にあるんじゃ見飽きるだろ。ときどきがいいんだ」と反論してきた。前半はともかく後半の理屈がよくわからなかったが、轟がその直後に寝落ちたのでそこでやりとりは終わってしまった。
今でも腑に落ちないが、追い返す理由もない。そういうわけで、轟の寝息を聞きながら勉強机で静かに本を読むのは、飯田の習慣になりつつあった。
ところが今日は少し話が違った。部屋に来てベッドに座り、そのうち寝転び、適当な本を読むもすぐに閉じて枕に頬を埋めた轟は、勉強椅子に姿勢よく座った飯田にこう言った。
「なあ、昼寝しねえか」
そして、冒頭に至る。
「昼寝はしないってどういうことだ」
うつ伏せの体勢のせいか眠気のせいか、轟の声音はくぐもっている。じとりと剣呑な視線を向けられて、飯田は「どういうことだと言われても……」と眼鏡のブリッジを押し上げながら呟いた。
「そのままの意味だ。俺は昼寝はしない」
「なんで」
「な、なんでって……眠くないからだが?」
下手な言い逃れは許さないとばかりに見据えてくる轟には悪いが、それ以外には言い様がない。というか飯田にしてみれば、昼間からぐうぐう熟睡できる轟のほうが異様だった。学校で居眠りする轟は見たことがないので、日頃の睡眠が足りていないという線はなさそうなのがまた不思議だ。普段布団で寝起きする人間にとって、ベッドとはそれほどまでに眠気を誘うものなのだろうか。ならば障子くんも? と飯田が思考を逸らしかけたのを見透かしたように、轟がむくりと上体を起こした。
「昼寝はいいぞ。作業効率も上がるって言うし」
「うむ、そういう話なら聞いたことがある! だが、俺は睡眠時間はしっかり夜に確保しているぞ。君は眠いのか?」
「眠い」
「もしかして、いつも夜更かしをしているんじゃないのか?」
「……まあ、おまえよりは遅くまで起きてるかもな」
「やはり! だめだよ、きちんと夜寝ないと。何のための消灯時間だと思ってるんだ?」
身を乗り出した飯田が八時間睡眠の重要性をつらつらと説くうち、轟の眉間に一本、また一本としわが寄ったが、飯田は怯まなかった。学級委員長という立場上、鬱陶しそうにされるのには慣れている。相手が轟だからといって、大目に見るということはない。むしろ常ならぬ関係の轟だからこそ、体を大事にしてほしいというのが大きい。飯田だって人並みに心配はするのだ。
やがて轟はため息をついて、再びぼふんとベッドに上体を沈めた。飯田の小言を遮るように、左右で色の違う瞳が閉じられてしまう。普段なら轟が昼寝をしても見守るに留めるのだが、一度始めた説教を中断させるのは飯田にとって難しい。轟の左肩に手をかけ、軽く体を揺さぶった。
「ほら、また寝る! 今寝てしまったら、夜に眠れなく──」
手首に圧を感じて、飯田は息を飲んだ。
肩にかけた自分の手首を、逆手になった轟の左手がつかんでいた。炎の力は発せられていないはずなのに、熱い。いよいよ怒ったのだろうか。
負けないぞと意気込んで轟の顔を覗き込もうとした飯田を止めたのは、「……わかってるよ」という拗ねたような声だった。
「……そんなことは、わかってんだよ」
「わかってるなら──」
「わかってるから」
「え」
「わかってるから、一緒に昼寝しねえかって言ったんだ。……そしたら、おまえも遅くまで起きてられるんだろ?」
そう言って、轟が肩越しにこちらを見た。昼寝をしたい人間のそれとは思えないような、ぎらりと光る瞳と目が合った。その瞬間おぼえた既視感に、飯田はぼっと顔を赤くした。
飯田は知っている。轟がこういう目をするのは、何かしらの壁を壊そうとしているときだ。轟はいつでも、飯田がおそるおそる差し出した手をしっかり取って、茨の道をずんずん進む。最初に壊した壁の向こうにあったのは抱擁で、その次はキスだった。飯田はもうそれだけでじゅうぶん長い旅路を歩いてきた気でいるのだが、まだ壊すべき壁はあるらしい。轟はなお、自分と未知の世界へ進もうとしているのだ。
「……昼間からでもかまわねえっていうなら、話は別だけど」
そしてその世界はきっと、一緒に昼寝をした先、眠れぬ深夜の中にあるのだろう。どんな世界か想像もつかず壁の前で立ちすくむ飯田の手をとったまま、轟は「どうする?」と尋ねた。
どうするもこうするも、何をだ。
質問で返そうとした飯田だったが、答えを待つ轟の整った顔も赤く染まっているのを見て、ああ、と思った。何でもないようなふうを装っているが、轟だって手探りなのだ。自分もわからないなりに、動かなくては。彼の決断に身を委ねるだけではいけない。茨の道に踏み込んだ時点で、前に進みたいと思うのは飯田も同じだった。
「するか? 昼寝」
だめ押しの誘い文句に背中を押され、飯田は意を決してベッドに上がった。眼鏡が歪まないよう外して枕元に置き、並んで寝転ぶと、轟が飯田の髪をすくように撫でた。そのまなざしが先ほどと打って変わって熱く潤んでいるのは、眠いからなのだろうか。
日はまだ高いし、昨夜もよく寝た。それに、轟のせいで胸が苦しい。内側からどんどんと叩かれているかのようで、睡眠につながるような規則正しい呼吸をすることは難しそうである。
形から入ろうと目を閉じるも一向に眠気は訪れず、ほどなくして飯田は目を開けた。轟もまた目を開いてこちらを見ていた。
「……僕は、眠くないよ」
二つ並んだきれいな虹彩を見つめ、飯田は正直に言った。轟がしようとしていることをよくわかっていない彼にとって、それは事実の報告に他ならなかったのだが、轟の表情は目に見えて変わった。
男二人で手狭になったベッドの上、至近距離で目と目を合わせてそう言った己の姿が轟に何を思わせたか。飯田にはもちろん、最後まで知る由もなかった。