鈍い頭痛に唸りつつ、ミスタは重いまぶたを開いた。
新聞の置かれたローテーブルに、お気に入りのカーペット。視界に広がる光景を見るに、どうやら自宅のソファーに横向きに寝転んでいるらしい。
しかし、それにしては寝心地に違和感がある。ソファーにクッションを置いているわけではないのに、頭の下に馴染みのない弾力を感じる。枕よりも硬めで、なぜかほの温かい。正体を探ろうと頭を持ち上げかけたのと同時に、肘のあたりをそっと何かにさすられた。
「ミスタ、起きたんですか?」
「ジョルノ……?」
ミスタが体をひねるようにして上方を仰ぐと、こちらを見下ろす一対のエメラルドと目が合った。位置関係から考えるに、膝枕をされているようだ。パッショーネのボスであり気の置けない仲間でもある、年下の男、ジョルノ・ジョバァーナに。
「へ? なっ、なんで……つーかおめー、何やって……ッうあ」
飛び起きようとした瞬間ぐらりと視界が揺らぎ、ミスタは思わず目元を覆って再びジョルノの膝枕に沈む。ジョルノの小さな吐息が聞こえ、宥めるように頭に手を置かれる。それで、帽子が外されていることに気付いた。
「覚えてないんですか? きみ、一緒に行ったバーで酔いつぶれたんですよ」
「あー……」
ジョルノの言葉で徐々に記憶が蘇り、ミスタは腫れぼったい目元を押さえたまま苦虫を噛み潰した。
そうだった。ずたずたになった心の痛みをなんとか紛らわしたくて、ジョルノを付き合わせてヤケ酒をしたんだった。店でどこまでジョルノに話したのかは思い出せないが、とにかく前後不覚になるくらいには飲んで、面倒をかけてしまったようだ。またしても。
「ごめんよォジョルノ、オレ、また……」
「大丈夫。今回はきみのアパートまで近かったし」
「ええと、吐いたりとかは……」
「トイレまでちゃんと持ちこたえました」
「…………」
「気にしないで」
口内は妙にさっぱりとしている。一体どこまでジョルノに世話をかけさせ、みっともない姿を晒したのだろうか。少しでもばつの悪さをやり過ごそうと、ミスタはジョルノの視線から逃れるようにうつ伏せになり、しわになった黒いスラックスを力なく叩いた。
「なにもよぉ、膝枕なんかしなくたって……いつもみたいに、玄関にでも放り出しといてくれりゃあよかったのに」
「別にいいでしょう。ぼくのやりたいようにやっただけです」
『別にいいでしょ? あたしのやりたいようにやっただけ。今更彼氏ヅラ? 何日も連絡してこなかったくせに』
どこかぶっきらぼうなジョルノの物言いに、何番目かの元恋人の声が重なって聞こえた気がして、ミスタはこめかみのあたりを押さえた。
うまくいかない、いつも。仕事柄連絡の取れない期間があるのは仕方ないことだから、そのぶん一緒に過ごす時間はありったけの愛情を込めて恋人に接してきているつもりだ。仕事について詳細に話せないことを後ろ暗く思うこともあるにはあるが、なにかの間違いで恋人をいざこざに巻き込む可能性がある以上、秘密にしておくこともまた愛だとミスタは解釈している。
直情的なミスタは打算的に人を愛することはしないが、愛はある程度貯金ができるものだとは思っていた。日頃からめいっぱい愛し合っていれば、多少至らないところがあったって、積み立ててきた愛が事態をなんとかしてくれるのだと。実際、それで事なきを得てきたことだってあるのだ。少なくとも、新生パッショーネの副長の座を任されるまでは。
組織の幹部ともなると、生活を占める仕事のウエイトは一気に増す。これまで何も考えずぶらぶら散歩していた道を、神経を尖らせて一分の隙なく歩く機会も増える。
ミスタにとって、人生は交わらない二本の線だ。周りからはいつも自由だとか呑気すぎるだとかと好き勝手言われるけれど、仕事とプライベートはしっかり分けている。
自分が仕事の線上で暗躍している間、プライベートの線上に残してきた恋人は、自らにあてがわれた「グイード・ミスタの恋人」という肩書きをそのままに、つつがなく毎日を過ごしているものだとミスタは信じていた。愛の貯金を崩しながら、ハッピーに生きて自分を待ってくれているに違いないと。
そのうち何度か捨てられてみて、どうやらそうもいかない相手もいるらしいなとは感じていた。相手のせいではなくて自分の振る舞いに問題があるらしいと気付くのに、そう時間はかからなかった。
それからだ。女に捨てられるたびに、ジョルノを付き合わせて飲んだくれるようになったのは。
「……オレ、なんでフラれたらおまえと飲むようになったんだっけ」
ジョルノのスラックスのしわを見つめたまま、ミスタはくぐもった声でつぶやいた。まだ酔っているし、泣いた記憶もおぼろげにある。熱く重たくなったまぶたが、眠気に抗えず下がる。
一瞬の間のあと、後頭部をそっと撫でられた。猫じゃあねーぞオレはとミスタは喉の奥で唸ったが、悪くない感触ではあったのでそのまま身を任せる。ふ、とジョルノが品よく笑う気配があった。
「知りませんよ。ぼくが聞きたい」
「まあ、そりゃそうだよな。なんでだったかなぁ……八つ当たりしたかったんだったか……?」
「八つ当たりはフーゴにして懲りたって言ってましたよ。危うくバールを数秒で廃墟にするところだったって」
「おまえ記憶力いいな……」
「まあね。きみがぼくを付き合わせる理由を聞いたことは、まだないけど。前からきみは酔っ払うと、メソメソ泣きながらぼくに毎回同じようなことを愚痴ってるってのは確かだ」
「同じようなこと……?」
「うまくいかない、あんなに好きだったのに、オレの何が悪いんだ──」
「…………」
「悪くないですよ、きみは。ただ、かわいそうなだけで」
かわいそう? 誰がかわいそうだって?
そう悪態をついてやりたかったが、強烈な眠気に阻まれて思うように舌が回らない。身を屈めてこちらを覗き込むジョルノの美しい瞳を、ミスタはうつ伏せたまま首だけを回してぼんやりと見る。
見覚えのある眼差しだった。失恋したミスタの嘆きを隣や向かいで聞きながら、彼がときおり見せる表情。気遣わしげで、同情的で、腹の立つことに、ちょっと微笑ましそうで。そしてどこか、思いつめているようにも見える眼差し。
これでもミスタは、他人の顔色には敏いほうだ。しかしジョルノ相手となると、表情に乏しすぎて難航することが多かった。酒が入るとなおさらダメだ。いつもにも増して自分の感情が剥き出しになる代わりに、ジョルノの表情や声音の奥を探るセンサーはいっそう鈍ってしまう。そしてやっかいなことに、ジョルノはこの表情を、ミスタが失恋をして酒に溺れているときにしか見せてくれない。
ただジョルノは、女に捨てられたミスタのヤケ酒の誘いを、断ったことがない。たったの一度も。付き合えば必ず酔いつぶれた自分の介抱までする羽目になると、賢い彼ならわかっているだろうに。
「なに考えてんのか、わかんねー……おまえって」
「よく言われます」
「……でも、ジョルノ。おめーがけっこうやさしいヤツだってことは、わかるよ」
後頭部を撫でていた手が、ぴたりと動きを止めた。目を閉じたまま、ミスタはわずかに口角を持ち上げる。
すました年下の上司の心に、少しだけ波風を立ててやれた。そんな子どもじみた愉悦を胸に、そのまま深い眠りにつくはずだった。
ミスタにとって予想外だったのは、勝手に口が動いて、寝言のような一言が転がり出たことだ。
「案外、うまくやれるのかも……おまえとだったら……」
ジョルノの手はなおも止まっていた。自分が何を言ったのかも自覚しないまま、ミスタは主人にだけ心を許した猛獣のように、ジョルノの膝枕にうつ伏せて静かに寝息を立てていた。
夢と現の狭間で、ミスタは一本の線の上に佇んでいた。その対岸、決して交わらない平行線の上に、誰かが立っている。白い霞がかったように、顔のぼやけた少年。彼はこちらに手を伸ばし、唇を動かした。少しだけ上擦って掠れた声が、不思議なことに至近距離で聞こえた。
「……ぼくも、そう思うんだ。ミスタ」