「うーん」
二つ並んだボウルを前に、ホイッパーを手にしたジョルノは神妙な面持ちで立ち尽くしている。
「手作りのお菓子っていいよな」というミスタの一言を受け、次のサン・バレンティーノは望みのものを用意してやろうと密かに決意したのが数ヶ月前のこと。それから長期計画で仕事を調整し、サン・バレンティーノ前日である今日をフリーにできたのはよかった。パッショーネ本部のキッチンに自ら忍び込み、自宅にない調理器具一式をくすねてきておいたのもよかった。あとは揃えておいた材料を使い、自分の調理経験のなさを鑑みて、身の丈に合ったチョコレート菓子を作れさえすれば完璧だったのだが。
耐熱ガラスのボウルの中には、水をやりすぎた植木鉢の土のような茶色くボソボソした物体と、沸騰してから少し経った湯がそれぞれ入っている。作業中つまずくこともあるだろうと心づもりはしていたが、まさかチョコレート菓子作りの初歩の初歩、製菓用チョコを溶かす段階で失敗するとは思わなかった。
チョコに水分が入ると分離しやすいということは、湯煎について下調べをする中で心得ていた。だから調理器具の水気や立ちのぼる湯気には細心の注意を払っていたのだが、使った湯の温度が高すぎたらしい。さらに思い返してみれば、少しでも早く溶かそうと、湯煎の前にチョコを電子レンジにかけたときからすでに雲行きは怪しかった気がする。どちらがより致命的だったのかはジョルノにはわからないが、いずれにせよ、チョコをじっくり溶かす数分を惜しんだ気の短さが敗因となったのは確かだった。
「一度練習しておくべきだったな」
ジョルノは首を振りつつホイッパーをボウルの中に戻した。これまでにミスタが料理をするところを何度も見てきて、調理の手さばきはそれなりに目で学んだつもりでいたが、甘かった。見るのとやるのとでは全然違う。
パスタにトリッパ、カツレツ、ティラミス。小さなキッチンで適当に作っているように見えるのに出来上がったものがもれなく美味いのは、調理が簡単だからではなくて、作り手のミスタに豊富な経験とセンスがあるからだ。どちらも持っていない自分がぶっつけ本番で挑んだのは無謀だったなと、手遅れながらジョルノは学びを得た。
それから、この場にいない恋人を少し妬んだ。ハンサムで背が高くて強くて頼もしくて、そのうえ料理もうまいなんて、天は彼に何物与えれば気が済むんだ。信仰への見返りにしても大盤振る舞いがすぎる。
甘ったるい香りの立ちのぼるボウルから視線を上げ、ジョルノはカウンター越しにリビングのほうを見た。必要最低限のものしかないデスクの上に、鮮やかなオレンジのリボンのかかった茶色い小箱がある。
平たい直方体の小箱の中身は、日本の老舗パーラーから取り寄せたチョコレート菓子だ。今年ミスタに贈るチョコを手作りにしようと決めてから、万一うまくいかなかったときのことを想定して念のため用意しておいた。チョコを作ってもいないうちから先回りしすぎだろうかという気持ちもあったが、結果としてこの準備は役立ったことになる。少し悲しくはあるが。
ジョルノはキッチンを出てリビングに向かい、小箱を手に取った。傍らに置いていた箔押し模様の入った黒い紙袋を広げ、箱にかかったリボンを崩さないように慎重に収める。そして玄関のシューズボックスの上に、車の鍵と並べて紙袋を置いた。
これでサン・バレンティーノの支度は完了したが、後片付けをしようとキッチンに戻ると否応なしにボウルの中のチョコだったものと対面してしまう。時間が経ったせいで固まっていて、ホイッパーが抜けない。もうひとつのボウルの湯を温め直してから再度湯煎を試みたが、油っぽい固体から植木鉢の土に戻っただけだった。とりあえずスプーンで一口大に丸め、アルミホイルの上に並べてみたものの、少なくとも今のジョルノの技量ではこれ以上のリカバリーはできそうになかった。かといって、捨ててしまうのは忍びない。自分で食べて始末するのもちょっとつらい。
ジョルノは眉間にしわを寄せてしばらく考えていたが、やがて深いため息をつき、指先で歪な球体たちに触れた。
サン・バレンティーノ当日。
お祭りムードの影で人殺しの任務を果たしたミスタは、昼過ぎに本部に戻ってきた。
ドア越しに近付いてくるブーツの重く硬い足音を聞きながら、デスクについたジョルノは片隅に置いていた黒い紙袋を引き寄せる。
足音はドアの前で止まり、直後せっかちで荒っぽいノックが執務室に響いた。取り立ての癖が抜けていない。ジョルノが「どうぞ」と言い終わる頃にはもうドアが開けられ、ミスタの長い脚が片方部屋の中に踏み込んできている。
不遜だと眉をひそめる者も多いミスタの振る舞いを、ジョルノは特に気に留めない。ジョルノが今眉を寄せたのは、報告のためこちらに近付いてくるミスタに思いもよらぬ連れがいたからだった。
「ただいま戻りました」
こちらを見下ろしぶっきらぼうに告げるミスタの頭に、スズメが二羽乗っている。赤い帽子の網目模様の踏み心地を楽しんでいるのか、ちょんちょん跳ねては小刻みに首を傾げ合っている。
「電話でも伝えたとおり、ニコロ・ヴァラキは始末したぜ」
たくましい二の腕に、イタチがじゃれついている。ミスタが後ろ手を組んでいるのをいいことに、長い体でらせんを描くように左右を行ったり来たりしている。
「奴が木工細工に仕込んで売ってた麻薬もルートは特定できてる。ちっと数が多いが、明日には関係者ひととおりリストアップできるはずだ」
ミスタが少し得意気な面持ちで言ったのに合わせて、ハイネックから一瞬顔を出したのはリスだった。またすぐに襟の中に潜り込んでいったリスのふさふさの尻尾が、筋張った首筋をなぞっていく。くすぐったかったのか、ミスタは後ろ手を解いて首周りを掻いた。
「そしたらあとはオレとオレの部下で全員──」
そこでちらりと足元に視線を落とし、ミスタは「ふふっ」と表情を緩めた。大きな動作でしゃがんだ彼が、一瞬ジョルノの視界から消える。
ほどなくして立ち上がったミスタは、両手でウサギを抱えていた。薄茶色のウサギは暴れるでもなく、ふんふん鼻を鳴らしながら、盛り上がった胸筋に抱き寄せられるままになっている。つぶらな黒い瞳を同じ色彩の眼で見つめ返したミスタの顔から、みるみる締まりがなくなっていく。
「……なぁ〜ジョルノ! なんなんだよこいつらッ!」
ミスタはとうとう報告を放棄し、観念したように声を張り上げた。背中側から回り込んできたイタチを胸を寄せるようにして腕で支え、ハイネックから飛び出してきたリスの膨らんだ尻尾にまた首をすくめる。肩に飛び移ったスズメたちがセーターをつっつくのを「こーら、ダメだって」と猫なで声で叱ってから、ミスタは眉を下げて再びジョルノに視線を向けてくる。
「オレは大事な仕事のおハナシしてんのによぉ〜、こいつらフワフワチョロチョロと……さっきから邪魔で仕方ねーぜ!」
邪魔だなんて微塵も思っていなさそうなニヤニヤ顔ではあるが、真正面からジョルノに苦情をぶつけてくるあたり、やはりミスタは読みが鋭い。この小動物たちが自然の掟から外れて生み出された存在であることを、しっかり見抜いているようだ。ジョルノが「なんですかその動物」としらを切ったところで無駄なあがきだろう。
「こいつらおめーが作ったんだろ? なんで? 今年のサン・バレンティーノの贈り物はボスのお手製ペットってか? いったい何から」
「はいこれどうぞ、アモーレ」
質問を重ねてくるミスタを強引に遮り、ジョルノは紙袋から取り出したチョコの箱をずいと突きつけた。口を開きかけたまま一瞬固まったミスタが「おおっ! チョコもあった!」と弾んだ声を上げる。
「グラッツェ〜! ほい、オレからも」
片手を後ろに回したかと思うと、ミスタは本の形をした缶を取り出し、両手でジョルノに差し出した。ジョルノが贈ったものとは少し色合いが違うが、こちらにもオレンジのリボンがかけられている。偶然の一致にどちらからともなく顔を見合わせ、微笑む。
「素敵な缶だ」
「だろ? その絵ローマの町並みなんだって。帰り道に買ったやつで悪いけど、ここのチョコはうめーからよ」
「ありがとう。でもきみ、今これどこから出したの?」
「コ・コ。手が塞がるのヤだったから」
ミスタはくるりと後ろを向き、ボトムスとパンツの隙間を指しながらウインクを飛ばしてきた。
「ちょっと溶けてるかもしれねーし一応冷やして食ってねッ、オレのステッラ」
しなを作って言うミスタの剥き出しの腰に、うっすら缶の形の跡が残っている。ジョルノは心から「バカだな」とつぶやいたが、手に取った缶から伝わってきたほのかなぬくもりに不覚にもどきどきしてしまった。ミスタの言うとおり、執務室の片隅の小さな冷蔵庫に缶ごとしまう。
冷蔵庫のドアを閉めながらジョルノが振り向くと、ミスタはデスクの端に尻を乗せて、ジョルノからのチョコを早速開封していた。昼寝をしているのかピストルズは見当たらないが、まとわりついた小動物たちが興味深げにミスタの手元を覗き込んでいる。
「見るのはいいけどよ〜、おまえさんは食わねーほうがいいと思うぜ。頬袋の内側にチョコついたら虫歯とかになっちまうかも。リスは歯が命だろ」
肩から指先まで移動してきて箱の匂いを嗅いでいるリスを、ミスタは真面目な顔で諭している。それからリボンの端をついばむスズメたちに「おっ、そのまま引っ張れるか?」と笑いかけたり、本型チョコの入っていた隙間に頭を突っ込もうとするイタチを「くすぐってえよ」と引っこ抜いたり。なんとも微笑ましい光景に、ジョルノは苦い気持ちになる。
「なんだかきみ、そうやって小動物とじゃれてると映画のプリンセスみたいだね」
「あん?」
ダークチョコのかかったドライメロンを唇に挟みつつ、ミスタがこちらを見る。手元のチョコがけドライフルーツの詰め合わせから、ジョルノのいるところまで甘酸っぱい香りが漂ってくる。
「森の中で暮らしてるタイプのプリンセス。白雪姫とか」
「ふっ、なんだそりゃ」
小麦色の頬をもぐもぐ動かしながら、ミスタが小さく笑う。「うまっ」と厚い桃色の唇でつぶやき、節くれ立った指で次に食べるチョコを選び始める。白雪姫とは真っ黒な髪くらいしか共通点のない男は、ジョルノの煽りをものともせず、ホワイトチョコのかかったドライアップルを箱からつまみ上げる。
「オレは毒リンゴなんかじゃあ死なねーけどな」
「だろうね」
「……ん? おめーリンゴ好きなのか?」
腹のあたりに陣取ったウサギと手元のドライアップルを交互に見て、ミスタがつぶやいた。
「まあ、チョコがついてない部分ならやっても大丈夫かなぁ」
彼はいつでも決断が早い。ドライアップルのホワイトチョコのついた部分だけを噛みちぎり、残りを目を輝かせたウサギの口元に持っていく。ひくひく動く鼻の下で小さな口が開くのを見た瞬間、ジョルノは叫んでいた。
「ゴールド・エクスペリエンス! 能力を解除するッ!」
「あっ!?」
声を上げたミスタの周りでぱっと輝いた小動物たちは、一瞬で元の姿に戻り、ミスタの手元の箱やハイネックの中に落ちた。腹のあたりから床に転げ落ちかけたひとつを、すんでのところでミスタがキャッチする。それを間近でしげしげと眺め、首を傾げて、匂いを嗅ぎ、また首を傾げてから、ミスタは怪訝な表情でジョルノを見た。
「チョコ、か……? これ」
あれだけ検分してなお自信なさげに問われてしまい、やるせなさが膨れ上がる。
つかつかとミスタに歩み寄り、その手に残った食べかけのドライアップルを頂戴してから、ジョルノは咀嚼のついでのように応えた。
「……失敗作ですよ」
キッチンで生み出してしまった土くれのような物体を食べることも捨てることもできなかったジョルノは、それらに自らの意志でいなくなってもらう手段を選んだ。
全て動物に変えて、チョコレートを作った事実ごと証拠を隠滅してしまおうという作戦だ。あまり体が大きくなく、そのへんに放せば勝手に野に還りそうな生き物ならば何でもよかった。
ジョルノにゴールド・エクスペリエンスの力を注がれた歪な球体たちは、果たして新たな生命体として生まれ変わった。
ウサギにリス、イタチ、二羽のスズメ。
元・チョコレートたちは綺麗に仕上げてくれなかったジョルノから逃げるようにキッチンを飛び出し、開け放った窓からあっという間にばらばらの方向に散っていった。
失敗作のチョコが手元を離れたことで、ジョルノはいくらか気持ちが軽くなった。イタリアでは手に入りにくいチョコを保険として用意してあるのだし、あとはそれをミスタに渡せば、今年のサン・バレンティーノは不完全燃焼ながらとりあえずハッピーエンドで幕を下ろせるだろう。
よく眠って今日を迎えたジョルノは、いつも通り本部に出勤し、執務室のデスクの端にチョコの入った上質な紙袋をスタンバイさせた。
それからひと仕事終えてくる予定のミスタを待つ間、ジョルノは一度として考えなかった。弾かれるように飛び出していった小動物たちの行く先を。ミスタに喜んでほしいという気持ちだけは強くこもっているあの元・チョコレートたちが、自分のもとを離れたあと最終的にどこを目指していくのかを。
「オレ、ここの中庭で待ち構えられてたみてーなんだ。このゴツゴツちゃんたちに」
自らのもとに集うべくして集った五つの球体を全て手元の箱に収めながら、ミスタが言う。ミスタの隣でデスクに腰掛けたジョルノは、両手を腿に置いてうつむいている。
「任務終えて戻ってきたらいっせいにウサギやらリスやらが集まってくるんだもん、ビックリしたぜ。血のニオイに寄ってくるやつかなって」
「ピラニアじゃあないんだから」
「だよなぁ〜。ウケケッ、おめーの作ったチョコから生まれた、かわいいかわいい小動物ちゃんだもんなぁ〜!」
「……」
タネ明かしをされたミスタはご機嫌だが、何から何まで丸裸にされたジョルノとしてはたまったものではなかった。
チョコを溶かすところから失敗したことや苦し紛れの策が裏目に出たことがバレたのはもちろん堪えたが、それ以上にジョルノを打ちのめしたのは、すべての始まりとなった「手作りのお菓子っていいよな」という発言をミスタ自身がすっかり忘れていたことだった。最初から一人ずもうだったわけだ。やりようのない羞恥と怒りに体が震えそうになる。
「ま、こうしておめーがもとに戻してくれたことだし。このゴツゴツちゃんたちもオレが食っていいんだよな」
そろそろ一発どついてやるかと目を据わらせていたジョルノは、ミスタのその一言で「えっ?」と握っていたこぶしを緩めた。
ミスタの手元の箱の中、色とりどりのドライフルーツがけチョコに、ジョルノの作った土くれ──ミスタが言うところのゴツゴツちゃんが当然のように紛れている。華やかなチョコに囲まれているといくらか美味そうに見えなくもないが、それは間違いなく錯覚だ。
返事を待たずに球体をつまみ上げたミスタの手を、ジョルノは慌てて隣からつかんで止めた。
「ミスタッ! 食べないほうがいいッ!」
「いや食えるだろ。チョコ溶かして固めただけなんだろ?」
「そうだけど……なんかボソボソしてたし、油みたいなのが浮いて固まってたし……絶対マズいに決まってる」
「食ってみなきゃあわかんねーよそんなの」
「腹を壊すかもしれないですよ……」
「そうかなあ〜?」
必死なジョルノに、ミスタは間延びした相槌を打つ。口調とは裏腹に、艶のないチョコをつまむ人差し指と親指はペンチか何かのように固く閉じていて、意地でもジョルノに奪わせないつもりのようだ。
手出しできずにふっと荒く息をついたジョルノの頭を、ミスタは箱から離した片手でひとつ撫でた。硝煙のにおいのする指先がジョルノの輪郭をするりと滑り、親指が唇をなぞる。
「もしこれ食って具合が悪くなったりしたら、王子様がなんとかしてくれるんだろ?」
小麦色の肌の男が、白い歯を覗かせて笑う。ジョルノは大きく目を見張り、ミスタの腕をつかんでいた手をゆっくりと自分の腿の上に戻した。
見守るジョルノの目前で、くすんだ桃色の唇が開く。姿を変えられてなおミスタのもとにたどり着いてしまった、重たくがさついた歪なチョコが、元の姿でミスタの口内に消えていく。
がっしりした顎が動くのに合わせて、がりっ、ごりっと硬くこもった音がする。ミスタの眉間にかすかにしわが寄る。ジョルノはぴんと背筋を伸ばし、じっとミスタを見つめる。
無言で咀嚼を続け、喉仏を上下させて口の中のものを飲み込んだミスタが、こちらを見た。
なんとかしてやらなくては。
苦い笑みを浮かべたミスタが何か言うより早く、ジョルノは身を乗り出して、甘ったるさの残るミスタの唇に噛み付くようにキスをした。