書架の整理にあたる月島の背中を、鯉登は執務机から見ている。
月島は踏み台代わりの木箱の上に乗っていて、そこでさらに背伸びをして高所の本を取っては、空の最下段に積んでいく。小柄でがっちりした体はひとつひとつの動作が大きいが、片足だけを床に降ろした不安定な体勢になっても重心がぶれない。
きびきびとした足取りに合わせて、軍靴の靴底に打ち込まれた鋲が硬質な音を立てる。そこに衣擦れと時折かすかな息遣いこそ交じるが、月島は例によって──いや、いつにも増して寡黙だ。絶対に構ってやらないしこちらにも構うなという圧をひしひしと感じる。
(負くっもんか)
鯉登は唇をへの字にし、机上で両の拳を握りしめた。
いつもこの将校室で朗々と指揮をとる鶴見中尉は、今日は午前中から営外に出かけていて、昼を回っても戻ってこなかった。近頃、そういう日が増えている。多忙で当然と理解はしているが、仕事の合間にそっと首席を盗み見ても敬愛する美丈夫の姿がないというのは、鯉登にとって張り合いのないものだ。
鶴見不在の折、普段に輪をかけて気難しくなる鯉登を激励するのが、補佐役の月島軍曹である。
いかつい見かけによらずよく気のつく月島は、はじめのうちこそ「あなたを頼りにされているから、鶴見中尉殿は長時間ここを空けていられるのです」とか「進捗がよければきっと鶴見中尉殿も褒めてくださいますよ」とかと優しく言葉巧みに鯉登を鼓舞していたが、毎度その調子でやるのが面倒くさくなったらしい。今は鯉登が心ここにあらずと見るや、パンパンと手を叩いて「鯉登少尉殿っ。集中、集中!」とやたら通る声で発破をかけてくる。そして鯉登のそばで休みなく自分の仕事をしながら、ときおりじろりと「早くやりなさい」と言わんばかりの厳しい視線を寄越してくる。
今日も月島に「集中集中!」と手を叩かれ、「早くやりなさい」の視線を三度ほど向けられたところで、鯉登は渋々やる気を出した。先日月島に教わりながらやったことのある書類仕事だったので、今回は自力で取り組み、できあがった書類を片手でずいと月島に差し出した。
「できた」
「はい」
両手で受け取った月島は、ざっと内容を確認すると、少し目を見張った。
「おひとりでここまで仕上げられましたか。さすがですね」
「二回目なんだから当然だろう。さあ月島、今日も鶴見中尉のことを教えろ!」
月島の心からの称賛を受け止めるのもそこそこに、鯉登は両手を机について前傾姿勢になる。
月島に評価されるのもやぶさかでないが、鯉登の本命はその先だ。
仕事をこなしたうえで月島に鶴見のことを尋ねると、鯉登の知らないいろいろな情報を教えてくれるのだ。絵に描いたようなアメとムチだが、これが鯉登には抜群に効いている。
鶴見がどこの店のどんな菓子を美味いと言っていたかとか、出向先での他愛もない言動だとか。月島が鯉登に応えて共有してくれる鶴見の情報は、どれも良い。ささやかな内容ではあるのだが、有益なものから鯉登が思わず「うふふ」と微笑んでしまうようなものまで、絶妙なツボが押さえられている。
森羅万象すべてに興味がありませんみたいな顔をしているくせに、月島という男は驚くほどつぶさに鶴見を見ている。鶴見とともに幾度も死線をくぐり、今も右腕を務めているだけある。妬ましくないといえば嘘になるが、側近という距離感でしか知り得ない情報をアメとして与えてくれるのはありがたかった。
「私にお答えできることなら」
「あの方の苦手なものが知りたい」
鯉登は真剣な顔で言った。決して興味本位ではなく、この先間違っても鶴見に無礼を働くことのないようにするための、いわば予習目的だ。
「鶴見中尉殿は完璧な方であらせられるからな、苦手なものなどないかもしれんが、もしあるのならば」
今後のために教えてくれ、と続けようとした口は、月島がすっと突き出した右手によって制された。
「申し訳ありませんが」
四角い手のひらをぽかんと見つめた鯉登に、月島と申し訳ないとはまったく思っていなさそうな声音で続けた。
「それはお答えできません」
「なんだと?」
「たとえ鯉登少尉殿のご要望でも、上官の弱点を明かすようなことはできません」
まっすぐ目を見て言い切られ、鯉登は言葉に詰まった。
これは月島の主張に分がある。適切な線引きだ。鯉登がここで下手に「いいから教えろ」と強気に出れば、それこそ鶴見への無礼になりかねない。
だが、かといってハイそうですかとあっさり退くのも惜しかった。知りたいと思う動機はきわめて健全であるのだし、もう少しだけ食い下がりたい。
「ま、待て月島! 言っておくが、鶴見中尉殿の弱みを握りたいとかそういう不敬なことは私は一切思っとらんぞ!」
「少尉殿」
「避けたほうがいい話題とか贈り物なんかをあらかじめ知っておきたいだけだ! 誓って他言はせん!」
「鯉登少尉殿っ」
月島が軍帽の下で目つきを険しくし、自分の唇の前に人差し指を立てた。鯉登ははっと口元を押さえる。
「……落ち着いてください。わかってますから」
「そんじゃあ──」
「でもダメです。私からは教えられません」
「キエェェ!」
鯉登は頭を抱えてぐんにゃりと椅子の背もたれに崩れたが、月島は動じない。
「どうしても知りたいのなら、ご自分で鶴見中尉殿にお聞きください」
「できるかそんなこと!」
「私も場を用意するくらいならしますから」
「それじゃ足りん! そこまでするなら、私が言うことを鶴見中尉殿に逐一お伝えするところまでやれ!」
「つうや……口利きしろと?」
月島の目元がひくりと引きつり、頬に向けて延びるシワが片方だけ深くなった。乏しい表情のみでここまで雄弁に「面倒くさい」と言える人間を鯉登は他に知らない。
「あー……そもそも、鶴見中尉殿に苦手なものなんてないかもしれませんよ。だって完璧な方であらせられるでしょう?」
「なら最初からそう言えばよかったではないか。めんどくさがるな月島。近いうちにやってもらうからな」
言葉尻をとってきた月島に鯉登が反論すると、月島はぐっと唇を結んで黙った。軍帽を直しながら露骨に視線を逸らされる。
「……残りの仕事をしましょう」
「私の仕事はもう終わったが?」
「私はまだなので。ちょっと失礼します」
鯉登をいなし、唐突に一言ことわったかと思うと、月島はくるりと踵を返して将校室から出ていってしまった。
「あっこら、どこに行くんだ月島!」
会話を打ち切られた鯉登は気色ばんだが、あとを追おうと立ち上がったところで月島が戻ってきたので、直立不動で再度「月島ぁ!」と叫ぶにとどまった。
月島はひとかかえほどの大きさの木箱を抱えている。目を引くものがあると言及せずにはいられない鯉登は、あごで箱を指して問うた。
「なんだその箱は」
「踏み台です。少し書架を整理しておきたいので」
月島は慣れた所作で抱えた木箱を引っくり返して書架の前に置くと、短い脚を持ち上げて弾みをつけて上に乗った。その流れで作業に移ることにしたらしく、鯉登に背を向けて最上段の本から取り出し始める。動きにまるで隙がない。壁を感じる。
「月島、さっきの話──」
「……」
「おい、月島ぁ!」
「……」
露骨に聞こえないふりをされている。鯉登はまなじりを吊り上げ、強く息を吸う。
「つ」
「大声を出さない」
「──きしま。さっきの話、絶対忘れるなよ」
小声でダメ押ししてから、鯉登は着席した。それからずっと、黙々と作業を進める月島の背中を睨んでいる。
軍靴の底を鳴らして登ったり降りたりしている小さな男から目を離さないまま、鯉登は握っていた拳を少し緩めた。
汗ばんでしまった手のひらをハンカチで拭きながらわざと大きくため息をついてみるが、月島は反応しない。意地でも取り合わないつもりのようだ。
たった一言、鶴見への伝言役を引き受けると言ってくれさえすればそれでいいのに。揚げ足をとったのを鯉登に引っくり返されたのがよほど悔しかったらしい。月島は冷静で生真面目な男だが、意外と血の気が多く、負けん気の強いところがある。
そして、負けん気の強さなら鯉登も負けていない。家族や使用人からたっぷり愛され甘やかされて育った末っ子なもので、相手をしてほしい人間にありとあらゆる手段で圧をかけるのにも長けている。期待している反応がくるまで待つ根気だってある。
頑固な月島はきっと手ごわい。長丁場になりそうだ。ハンカチをポケットにしまった鯉登は、とりあえず姿勢を変えることにした。頬杖をついて脚を組む。その拍子に、膝が机の裏に強めに当たった。ガンッと鈍い音がして、机に置いていた万年筆が転がる。
「大丈夫ですか」
鯉登が「いてっ」と膝を押さえるより早く、月島が声をかけてきた。体ごとこちらを向いている。
「ぶつけたんですか?」
「うん…」
「痛みますか?」
「いや、大したことない」
膝から下をぶらぶらさせてみせながら鯉登が言うと、月島は床に降ろしかけていた片足を台の上に戻した。
「一応、あとで見せてくださいね」
あざになるかもしれませんから。
そう言うと、月島は再び前に向き直り、何事もなかったかのように作業を再開した。
(月島……)
膝をさすりながら、鯉登は唇を噛んだ。
ついさっきまで背中と気配であれだけ対話を拒絶していたくせに、鯉登に何かあったとみるやすぐ声をかけてくる切り替えの早さといったらなかった。
とっさに鯉登に構ってしまったことへの気まずさのようなものも一切感じられず、ごくごく自然に身を案じてきたものだから、鯉登も幼子みたいに「うん」なんて無垢な返事をしてしまった。
(月島ぁ……!)
さっきは対等に言い合いをして、なんならほとんど言い負かしてやったのに。
大人げない月島が無理やり会話を打ち切ってきたから、こっちも仕事が終わってもいつまでも立ち去ってやらず、半ば根比べのつもりでその背中を睨み続けていたのに。
勝負を突然放棄されたようなものだった。月島に甘く優しく接されるのは悪くないが、今ばかりは悔しかった。どうして月島にも聞こえるくらい派手に膝なんてぶつけてしまったのかと、やり場のない怒りが自分にまで向く始末である。このままでは終われない。
「月島」
「はい」
普通に呼んだつもりが、気合がこもって改まった声になった。月島はきちんと手を止めて返事をし、こちらを振り向く。台に乗っているせいで、普段は隠れがちな軍帽の下の表情がよく見える。森羅万象すべてに興味がありませんみたいな、非常に馴染みのある顔である。さっき鯉登が膝をぶつけたのをきっかけに、月島はすっかり通常運転に戻ったようだ。鯉登を差し置いて。
「鯉登少尉殿? どうかされましたか?」
月島が問うてくる。「いつもの月島」と言うほかないその態度に、鯉登の苛立ちが募る。鯉登の中で現在もそれなりの火力で燃え続けているワガママボンボンの魂が、いっそう大きく燃え上がらんとしている。
こちらの不慮の事態をダシに平常心を取り戻した月島を、もう一度自分の手で揺らがしてやりたい。ついでに、鶴見の情報に代わる今日の仕事の報酬も、月島からもぎ取りたい。同時にやってしまおう、多分それで気は晴れる。鯉登は口を開いた。
「お前の好きなものを教えろ」
「私の? なぜですか」
「何の情報も得られんまま今日が終わるのは嫌だから、月島についての情報で妥協する」
「意味がわかりませんが」
「いいから教えろ月島!」
月島の頬のシワが片方だけ深くなった。「はあ〜」とわかりやすいため息までつかれた。不敬もいいところだが、感情を波立たせてやれたのは明らかだったので鯉登は気分がよくなった。目的のひとつはこれで達成できたといっていい。
「……好きなものでいいんですか」
「うむ」
「白米です」
「はくまい」
新鮮味のない返答がきた。あれを好きでない者のほうが少ないんじゃないかと鯉登は思ったが、飯びつから茶碗に山盛り飯をよそってかっこむ月島の姿はあまりにも想像に容易く、様になっていた。きっと、美味いと思っているのか疑わしいような見事な真顔で食らうのだろう。
「あの」
月島が胡乱げな声を発した。
「苦手なものじゃなくてよかったんですか?」
「ん?」
「聞くならそちらではなかったのかなと。流れ的に」
「あ」
言われてみれば、と鯉登は思う。鶴見の苦手なものを教えてもらえなかった意趣返しとするのなら、月島にも苦手なものを聞いてやるほうが筋は通っていたかもしれない。
「どうせなら、お前の好きなもののほうが知りたかった。おもしろそうだし」
正直にそう言うと、月島は面食らったように目を見開いて、すぐに視線を落とした。
「他には好きなものはないのか、月島」
「……白米に合うものですかね」
「無限にあるじゃないかそんなもの」
「そうですね」
「……苦手なものは?」
「ありませんよ、なにも」
「なんだ、ないのか!」
「ええ」
鯉登の問いに淡々と答えながら、月島は踏み台から降りた。下段に積んでいた本を種類別に分けている。これから本棚に戻していくのだろう。
軍帽のてっぺんしか見えなくなってしまったので、鯉登も執務机から離れて月島のそばに屈んだ。床に片膝をついた月島は、うつむいたままだ。
「おもしろくないでしょう、私なんて」
いっそ軽やかなくらいの平坦な声で、月島は言った。あまりにもさらりと言うものだから、鯉登は同じ調子で「ああ」と相槌を打ちそうになって、ちぐはぐさに気付いて、すんでのところで踏みとどまった。
かろうじて見える月島の口元は、かすかに笑んでいる。妙な感じだ。
(私なんて、か)
そういう言葉をこういう顔で、こんな調子で発する人間は、これまで鯉登の周りにはいなかった。だからどういう反応が正解なのか、鯉登にはわからない。
ただ、漠然と「違う」と思った。平常心の月島を揺らがしてやりたいとは思ったが、これは違う。
だって、さっき月島にため息をつかれたときのような高揚が、今は感じられない。どちらかというと、嫌だった。なんだか月島が、まるで自分が無価値なんだと当たり前に思っているようで。
「月島」
「鯉登少尉殿」
何を言うべきかわからないがとりあえず名前を呼んでみた鯉登に、月島もまた名前を呼んで返してきた。
低く落ち着いた声はすぐそばで聞こえたし、灰色がかった深緑の目は、瞳孔がわかるほど近いところからまっすぐにこちらを見ている。だけど月島はその声とまなざしでもって、鯉登を至近距離から静かに牽制している。書架の前で背中を向けていたときよりずっと巧みに、薄雲でもまとうかのように。
「さっきぶつけたところ、見せてください」
二の句が継げなくなった鯉登の左膝を指して、月島が言った。やはり話のそらし方だけはやや強引で、唐突だ。そこは本人でも取り繕いきれないところなのかもしれない。そういうほころびも含めて、月島基をもっと知りたいと思った。
「腫れてはいませんか?」
「うん」
今後は鶴見中尉殿のことだけじゃなく、ときどきはお前のことも聞き出してやる。覚悟しておけ。
そう決意こそ固めたが、鯉登はまだ薄雲を晴らす術をもたない。だから今は、幼子みたいに無垢な返事をして、月島に見守られながら軍袴の裾をまくり上げるのだった。