とっぷりと日の落ちた窓の外を見やり、執務机についた鯉登は固まった体を大きく伸ばした。
「あー……もう真っ暗じゃないか」
「今日はそろそろ切り上げましょうか」
伸びをした勢いで椅子にぐんにゃりともたれかかると、傍らで日誌をつけている月島が手を止めて声をかけてくる。深く息をついてごきごき首を鳴らしているところを見るに、鉄人軍曹たる彼もそれなりに疲れたようだ。
いつにも増して多忙な一日だった。時間を見つけては執務室にこもり、教練指導や軍務の合間に来てくれる月島とともに山積みの仕事を崩しているうちに、晩飯時をすっかり逃してしまった。
間食はとっていたからすごく空腹というわけではなかったが、このまま何も飲み食いせずに床につくにはやや心許ないといった、微妙な腹具合だ。軽く食べようにも集会所の酒保はもう閉まっているし、夜食を買えるような店にも心当たりがない。
「月島ぁ。握り飯とか持ってないか?」
「持ってませんが。茶でよければこのあと淹れますよ」
「うーん」
さすがに茶だけでは明日の朝まで保ちそうにない。中途半端な空き方をした腹を持て余して鯉登が唸っていると、ややあって日誌を仕上げた月島が「では、外食という形になりますが──」と新たな提案をしてきた。
「帰りにビヤホールに寄られてみては?」
「ビヤホール?」
聞けば、月島はこれまでにも何度か足を運んだことがあるという。多少手が届きやすくなったとはいえ、まだまだビールは高級品だ。月島は贅沢をしない印象があったので鯉登が意外に思っていると、それが伝わったのか、月島は「他の下士と、給料日に」とやや面映そうに付け足した。
「あそこなら簡単なつまみも出たはずですし、ビールでいい具合に腹も満たされるかと」
「よさそうではないか。近いのか?」
「はい。金物屋の道向かいなので迷わないとは思いますが……一応地図を書きましょうか」
「ん? いや」
鯉登が口を挟む間もなく、月島は日誌の白紙の頁を開き、さっきまで使っていた万年筆でさらさらと簡単な地図を書いていく。兵営からビヤホールまではほぼ一本道で、子どものおつかいでも迷う心配のなさそうな道のりである。
執務机の筆立てから洋ばさみを取り、出来上がった地図を切り取って綺麗に畳むと、月島はそれを鯉登に両手で差し出した。
「はい、どうぞ」
「あ、ウン。あいがと……」
「では、私はこれで失礼します。お疲れ様でした」
「キエエェ! 待たんか月島ぁ!」
案の定迷いなく下士官室に戻ろうとした月島を、鯉登は即座に引き留めた。露骨に眉をしかめらも「なんですか?」と歩みを止めた月島の進路に立ちふさがり、ダンダンと足を踏み鳴らす。
「上官を独り寂しく呑ませるつもりか! お前も付き合え!」
「無理です。遅くなるでしょう」
「知れているだろ。午前様になるわけでもあるまい」
「少尉殿は[[rb:営外 > そと]]にお住まいだからいいかもしれませんけど、私はここの門限があるんですよ。今から飲みに行く余裕はありません」
「……なるほど」
逃げられないよう執務室の戸の前に移動しつつ、鯉登は顎を持ち上げて月島を見下ろす。もっとすげなく断られると思っていたが、意外と交渉の余地はありそうだ。
「つまり、門限を気にしなくていいのなら付き合ってくれるのだな?」
「外泊もしませんよ。手続きが面倒ですから」
「まあ聞け。今週の週番将校の高橋だが、あれは私の同期でな」
月島の上がり眉が片方ぴくりと動く。
「何度か貸しがある」
「だから私の門限を融通させるぐらい安いだろうと?」
「そういうことだ」
「鯉登少尉殿……」
月島が少し首を傾けて鯉登を見上げた。
「素晴らしい交友関係を築いていらっしゃる」
「そうだろう」
「部下として誇らしいですよ」
「あまり褒めるな」
腕組みをして一笑してやると、月島は観念したようにため息をつき、「外套を取ってきます」と鯉登を軽々押し退けた。
金塊争奪戦の終結後、鯉登は海のほとりから隣に引き寄せた月島とともに、でこぼこの二人三脚で諸々の後始末に尽力してきた。ともに行動することの叶わない期間もあったが、そのようなときでも月島は冷静かつきめ細やかな配慮でもって、針のむしろの鯉登を支え続けてくれた。
鶴見の右腕であったとき同様、月島は何につけても有能な男なのだが、これまた鶴見の右腕であったとき同様、自己犠牲にためらいがなさすぎて危なっかしいところがある。あの環境下で捨て鉢になっているものとばかり思っていたが、今も変わらないところを見るにどうも元々の性分によるところが大きいらしい。
献身性と包容力と血の気の多さを絶妙な配分で併せ持つ年上の部下と、互いに振り回し振り回されるのを繰り返すたび、一筋縄でいかない月島基という男への特別な想いは強まっていった。その感情を一言で言い表すことは難しいが、とりあえずいま鯉登が声を大にして言えるのは、「何かを飲み食いするなら月島と一緒がいい」ということである。満足感が違うのだ。
これまでに月島とビールを飲んだことは、あるにはある。ただあれは札幌のビール工場での一件であり、文字通り「ともに溺れた」が正しい。これを機に「ともに飲んだ」に格上げできるのであれば、鯉登としては僥倖だった。
衛兵所で夜勤にあたっていた紅白たすきの高橋少尉を顔に物言わせて無効化し、月島と連れ立って兵営外に出る。せっかくだからと月島手製の地図を広げて歩けば、少し低いところから「要らんでしょう。私が一緒にいるんですから」と可愛いのか無粋なのか判断に迷う言葉をかけられる。
「あ……財布忘れたかも」
歩きながら外套のポケットを探った月島が、この期に及んで白々しくひとりごちた。なかなか往生際が悪い。「こんなにしょっちゅう連れ出されては困ります」だの「持ち合わせがないんですが」だのと渋い顔で訴えてきていた頃に比べると、まだ潔くなったものだが。
「腑抜けとるな月島。仕方ないから今日も私がおごってやる。心配するな」
月島は軍帽のつばを下げつつ「……あとで貸しだとか言わんでくださいよ」と憎まれ口を叩いた。およそこれから上司におごられる部下の態度ではなかったが、鯉登の口元はどう頑張っても緩むのだった。
大日本帝国軍が日露戦争に向けて備えていた頃、東京にあるものに準じて建てられたというビヤホールは、平日の夜にも関わらず繁盛していた。大きなランプに黄色く照らされた店内は酔っ払いの笑い声やジョッキの触れ合う音で溢れていて、長くいれば夜ということを忘れてしまいそうだ。客席から上がるタバコの煙が混じり合ってもやのように漂っていて、高い天井が霞んで見える。
「ん、美味いぞこれ!」
咀嚼していたものを飲み込んで、鯉登は感嘆の声を上げた。
鯉登と月島が向かい合っている小さめの丸テーブルの上には、水滴のついたビアジョッキと小皿がそれぞれ二つずつ乗っている。小皿にはつまみとして海老の佃煮が盛られており、これが鯉登はいたく気に入った。
「月島も食べろ」
「はい」
行儀よく膝に手を置いていた月島は、鯉登に促されて手元の箸を取った。好きな頃合いで食えばいいのにと鯉登は思うし、本人にそう言ったこともあるのだが、月島いわく「兵卒時分から身に染み付いていますので」とのことだ。
鯉登がじっと見守る中、月島が佃煮に箸を伸ばす。小柄ながらいかついこの男が揃った箸先でちまちま食べ物をつまむ様は、いつものことながら妙な味わい深さがある。
「美味いだろ?」
もぐもぐやっている月島に同意を求めてから、そもそもこの店を勧めてくれたのは彼だったことを鯉登は思い出したが、いかなるときも優秀な右腕たる月島はそのへんには突っ込まずに「美味いです」と頷いてくれた。
「ただ、この味はどちらかというと飯が欲しくなりませんか?」
佃煮を堪能していた鯉登が思い出したようにビールを飲んでいると、今度は月島のほうから同意を求めてきた。鯉登はジョッキを置き、再び佃煮を口に運ぶ。海老の香ばしさに醤油と砂糖の甘辛さがよく絡み、生姜の香りが鼻に抜けていく。
「そうだな。確かに、ビールよりは飯んほうが進むかもしれん」
「ですよね。大根よりはいいですが」
「大根?」
「ちょっと前はこの佃煮ではなくて、大根を薄く切っただけのやつが出てたんですよ」
「絶対ビールに合わんではないか」
「全く合ってなかったです」
「だろうな。大根てなあ……」
大根と言われて鯉登の脳裏に浮かぶのは、優しかった兄の面影だ。色白の肌を幼い鯉登が桜島大根だとからかうたび、兄は「あはは、ゆたな? 音之進」とおおらかに笑い、温かい手で頭を撫でてくれたものだ。
鯉登は一度目を瞑り、開く。兄が生きていれば、ちょうど目の前の男と同じくらいの歳だった。
「たくあんならまだアテとしていけたかもしれん」
「たくあんだとそれこそ飯でしょう」
「お前飯のことばっかりじゃないか」
「開いてる定食屋を探したほうがよかったんじゃないか?」と鯉登が言うと、月島はフフ、と低く笑った。記憶の中の兄ほどではないが、月島も色白だ。酒を飲むと、首から上が早い段階でうっすら赤くなる。
「暑くなってきた。失礼します」
鯉登に一言ことわって、月島は軍服の詰襟の留め具を外した。その手が続いて伸ばされた先でジョッキが空になっていたので、通りがかったウエイトレスにおかわりを注文してやる。
「ああ、すみません。ありがとうございます」
礼を言ってくる月島の首元、周りよりやや濃い血色で浮かび上がった傷跡に視線を吸い寄せられながら、鯉登は「よか」と短く応えた。ほとんど泡の消えた自分のジョッキをあおる。苦味と炭酸が気付け薬のように口内と喉を刺激しながら、胃に落ちていく。
詰襟からときおり覗く傷跡は、月島の体中にある古傷の中でおそらく一番新しい。樺太で不覚をとった鯉登をかばったことによって刻まれたもので、大出血を伴う大きな傷だった。
いびつに盛り上がって突っ張った皮膚が目に映るたび、鯉登の胸は今でもちくりと痛む。
罪悪感。自責の念。
真っ当で純粋な痛みだけを抱え続けていられたらよかったのに、いつからそこに不純な疼きが混じり始めたのだったか。
空けたジョッキを鯉登がテーブルに置くのと同時に、ウエイトレスが月島のビールを運んできた。状況を確認した月島はそれを自分ではなく鯉登の前に置かせ、空いた二つのジョッキを下げようとするウエイトレスに再度自分のぶんのビールを注文した。
淀みのない流れに身を任せることにして、鯉登は譲られたビールに口をつけた。鼻の下を細かい泡がくすぐる感触に眉をしかめながら、重たいジョッキを大きく傾けて下層の液体を喉に流し込む。ビールは嫌いではないが、ちびちび飲める焼酎などに比べると少し飲み方が難しい。
ほどなくしてまた運ばれてきたビールは、今度こそ月島のものだ。上手い飲み方を心得ているらしく、月島が飲むと泡と液体の部分はほぼ平等に減っていく。口元や低い鼻についた白い泡を、喧嘩のあとの出血でも拭っているかのように手の甲で無造作に拭う。飯が欲しいと思っているのだろうが、なんだかんだで佃煮もよく食べている。
「鯉登少尉殿。傷跡が赤くなっています」
しばらく飲み食いに専念していた月島にふいに指摘され、赤みの引かない首筋をじっと眺めていた鯉登は内心ぎくりとした。月島がこちらを見たまま指先で自分の右頬をつついてみせたので、鏡写しの鯉登はつられるように左頬を押さえる。月島は鯉登の頬の傷のことを言ったのだ。
「血行がよくなってるんですかね。もう痛むことはないですか?」
月島が向かいから身を乗り出したぶんだけ、鯉登の煩悩の種である首筋の傷跡も間近に迫ってくる。爆風を近距離で受けたことで重度の火傷となっていた傷は、近くで見ると周りの皮膚との差がより顕著にわかる。それが酒気で赤くなっていて余計に痛々しいのに、見ていると不健全な気持ちも膨れ上がってきてしまう。
自分のせいでついたこの傷跡が、この先月島に一生付きまとうと思うとたまらない、とか。
バーニャやスチェンカで数度目にしただけの服に隠れた古傷も、ひとつ残らず検めてみたい、とか。
(悪趣味じゃあ、おいは……)
鯉登は重いため息をついた。濁った感情をいなすつもりだったのだが、月島には違う意味で伝わってしまったようで、こちらに向けられた目がかすかに眇められた。
「痛むんですか?」
「いや、痛まん。大丈夫だ」
「そうですか」
鉄仮面と見せかけて、月島はわりと感情が顔に出る。自分と対するときはなおさらそうだと感じるのが、自惚れでなければいいと思う。
「月島。お前のこれは? もう痛くないか?」
気付けば鯉登は左手を浮かせ、目の前にある月島の首筋に触れていた。
乾いて肌理を失った傷跡の表皮は、軽く指を乗せただけで薄紙のように細かいシワが寄る。どこかつくりものめいた質感だ。
月島は鯉登の手を伏し目に見て、いつもの落ち着いた声音で「痛くないですよ」と答えた。
「もう治ってからずいぶん経ってますし」
「そうか」
会話が途切れる。月島は小さな鼻先をぴくりとさせて、少し体をひねった。軽く触れていただけの鯉登の指先は、月島の首筋からあっさり離れる。宙に手を浮かせたまま、鯉登は固まっていた。
「前にも言いましたが、気にしてませんので。この傷のことは」
「ウン」
「箔もついたというものです」
「ウン」
「だからそんな顔をしないでください」
「……ウン」
傷跡を押さえながら言う月島に、鯉登は少しずつ視線を落としながら頷く。月島が想像もしていないだろう邪な感情も抱いているだけに、純粋に気を遣ってくれているらしい彼の目を真っ直ぐに見られない。
やがて月島は詰襟を締め直すと、大きく喉を反らしてジョッキをあおった。一口がやたら大きいせいか、こめかみに青筋が浮いている。
鯉登もそれに倣った。月島の体温と、速まっていく一方だった脈拍の余韻が、冷たいジョッキを置いてなお指先に鮮烈に残っていた。
「鯉登少尉殿。そのへんでやめておきましょう」
ジョッキに伸ばされた浅黒い手が二、三度空を切ったのを見て、月島は向かいから鯉登に制止をかけた。
中身の残ったジョッキが倒される前に、持ち手をつかんで鯉登から引き離す。年若い上司は気だるげに頬杖をついて、テーブルに残った結露の跡をくるくる指先でいじっている。きつい印象の切れ長の目が、落ちてきたまぶたで閉じかかっている。
(飲ませすぎてしまったか)
酒豪の薩摩隼人だからとさほど気にかけていなかったが、思えば鯉登が日頃好むのはちびちび飲める焼酎だった。アルコール度数でいえば焼酎よりずっと低いとはいえ、飲み慣れないビールでは適切な酒量が測れなかったようだ。宴会で出る日本酒ならそれなりの量をさして乱れず飲める月島も、初めてビールを飲んだときはやはりしこたまに酔った記憶がある。
そろそろお開きにしなければ。月島はテーブルの下で、軍袴のポケットにそっと手を入れた。使い慣れた財布が指先に触れる。手探りで紙幣を抜き出したところで、向かいの鯉登が「ん?」とひとつ瞬いたので、月島は素知らぬ顔で手の中に金を隠しつつ、いったん姿勢を正した。
「どうしました?」
「なぁん月島、それおいんビールじゃろ。なんでわいんところにあっど。かえせ」
「返しません。明日も仕事でしょう。午前に新兵の教練があるんですから、これ以上飲んで二日酔いになられては困ります」
「まだのこってる」
「ダメです。終わり。もう飲まない」
ジョッキを鯉登の手の届かない自分の陣地に収め、月島はウエイトレスを呼ぶ。水を注文し、「勘定を」と囁いてさっと紙幣を渡してから、正面に向き直った。
「ほんのこて厳しかねえ、わいは」
鯉登は頬杖をついたまま、非難めいた言葉とは不釣り合いな甘い眼差しでこちらを見つめてくる。父親譲りの褐色の肌でも、頬から目のあたりにかけて上気しているのがよくわかる。指の隙間から見える大きな向こう傷の跡が、ひときわ赤く目立っている。
自分の首に手をやり、硬い詰襟の存在を指先で確かめながら、月島はムンと唇を引き結んだ。
自分の体に刻まれ残る傷など数えなくなって久しい月島が、唯一特別視しているのが首筋の傷跡だ。
洗面や入浴時に鏡の前に立てば、なんとなく傷全体を映してみて「うむ」と思うし、内務班の兵卒たちなどに以前はなかったこの傷跡のことをきかれれば、ニヤッとしながら「名誉の傷だ」とだけ答えたりする。鯉登を身を呈して守ったことで負ったこの傷を、月島はわりと気に入っている。
ちなみに、大切な人を救った証といえる傷は下腹部にもあるのだが、そちらは平常心で直視できるようになるまで長い時間を要した。
月島としてはまったく隠すつもりもない名誉の傷跡を、唯一ばつの悪そうな顔で見るのが鯉登だった。
「気にしていませんから謝らないでください」と早い段階で月島が言ったので、言葉にして詫びてくることこそなかったが、代わりに鯉登は申し訳なさ・不甲斐なさ・心配・自責…といった多大なる感情を、言葉にできないぶんすべて眼差しに乗せて見つめてくるようになった。
本人は身長差を生かしてさりげなく見ているつもりのようだったが、いかんせん眼力が強すぎるうえ真正面からでも遠慮なく見てくるので、月島はいつも首筋に穴が開くような心地がしていた。
雄弁すぎるその眼差しに、負い目以外の感情が混じっていることに、少し前から月島は気付いている。見るのが傷跡だけにとどまらなくなっていることにも。
長きに渡るむさ苦しい兵営生活で、劣情を向けられた経験もいくらかある古参軍曹の月島である。誰よりも身近な青年将校のギラついた気配を察するなんて、造作もないことだった。
向けられているのが性欲だけなら、他の者にもそうしてきたように、毅然とした態度と場合によっては実力行使で突っぱねればよかった。
ところが鯉登の場合、月島に向けてくる頻度として一番高いのは、こちらが恥ずかしくなるくらいの愛おしげな眼差しなのである。遠い昔、荒みきった月島の心をいつも日だまりのように暖めてくれたあの眼差しに、それはよく似ている。
まっすぐに好意を向けられると、受けた以上の熱量で相手にも返したくなる。どうやら自分は手放しに慕ってはいけない相手にもその性を発揮させてしまうらしい、というのが月島の最近自覚したことであり、対鯉登における目下の悩みでもあった。
必要以上の接触を避けようとしても、鯉登は月島の都合など意に介さず、無邪気にそばに留め置こうとする。月島も毎回毎回流され受け入れてしまうものだから、いったん拒むくだりがもはや茶番と化している。
今日だってそうだ。鯉登に飲みに誘われれば渋りながらもついていってしまうし、いざ飲み始めれば楽しくて雑談に花を咲かせてしまう。首筋への視線に気付いたときはさすがにまずいと思い、とっさに鯉登の頬の傷跡に話題をそらしたが、その際思わず身を乗り出して自ら物理的に鯉登と距離を詰める体たらくであった。おかげで事態はいっそう深刻化した。
『月島。お前のこれは? もう痛くないか?』
揃えられた指先の感触と、熱のこもった眼差しを思い出す。もはや拒む間もなく、静かに名前を呼ぶのとじっと見つめるのとやさしく触れるのを同時にやられた。
ろくに言葉も返せず、身をよじって逃げるのがやっとだった。気遣わしげな瞳の奥に抑え込まれた獰猛さすらけなげだと思った。自分もとっくに取り返しがつかないところまできていたのだと、あれで嫌でも思い知らされてしまった。
(まずい……)
あの獰猛さが鯉登の理性を押し退けておもてに出たとき、突っぱねられない自分がありありと想像できる。
(俺は…何をやってるんだ、本当に……)
流されるまま、自分を制御できずにとった行動の数々を思い起こし、月島は内心頭を抱えた。
「月島ぁ、頭が痛かと? 飲みすぎたか?」
内心だけで済んでいなかったので、酔っ払いの鯉登に心配されてしまった。
上体をほとんど這わせるようにしてこちらを覗き込んできているものだから、テーブルに残った結露が[[rb:桑茶色 > カーキ]]の将校服の胸元に染みてしまっている。我に返った月島はいつの間にか額を覆っていた片手を下ろし、スッと背筋を伸ばした。
「いえ、問題ありません。少尉殿こそ大丈夫ですか? ションベン行っときますか?」
「いい、いい、平気じゃ。月島おまえなあ、食事すっところでションベンとかゆな」
「失礼しました」
水の入ったグラスが銀のトレイに載せられて二つ運ばれてきた。グラスを配膳したウエイトレスは、去り際にトレイで巧みに手元を隠しながら月島に釣銭を返した。月島は腿のあたりを掻くふりをしながら、受け取った釣銭を直にポケットに突っ込む。チャリンと音が鳴ってしまったが、鯉登はグラスの水を一気にあおっていて、気付いた様子はなかった。
「はあー、美味かー……水」
「私のもどうぞ。たくさん飲んでください」
「月島は要らんのか?」
「あまり酔っていませんので」
「損なやつめ」
酒が入っていてなお、鯉登は上品に笑う。水に濡れた口元をハンカチで押さえる様を見て、ああ本当にこの人は育ちが良いのだなと月島は思った。育ちだけではなくて、何もかもが自分とは違う。間違っても、自分なんぞと何かあってはいけない人だ。
月島が密かに気を引き締め直していると、向かいの鯉登が目元に笑みを残したまま「どげんした?」と首を傾げた。酔っていても変なところで目ざとい。
「わいはすぐ険しか顔をすっ」
「もとからこういう顔でしょう」
「まーた何か考え込んじょっとか?」
「いいえ」
空になった佃煮の小皿を重ねながら淡々と答えていると、近くで衣擦れの音が聞こえた。手元に影が落ちて、小皿の藍色がいっそう深い色になる。
視線を上げると、鯉登の整った顔がすぐそばにあった。愛おしげに細められた黒い瞳が、じっと月島を見ていた。
「お前も、さっさと酔っ払ってしまえば楽なのに」
「え?」
短く聞き返した声は、喉の奥で掠れてほとんど音にならなかった。反射的に首筋に手をやりつつ、月島は椅子の背もたれにぴったり背中をつけて座り直す。少しだけ鯉登と距離がとれたが、表情も顔色もわからなくなるにはあまりにも近い。
「もう一杯頼むか?」
「いえ……あなたはもうやめておいたほうがいい」
「月島は?」
「私はまあ、飲もうと思えば飲めますが。少尉殿、さっき会計を済ませてらっしゃったじゃないですか」
「おいが? まこち!?」
「ええしてましたよ。私ごちそうさまでしたって言いましたけど」
「全く覚えちょらんが……」
会計をしてくれたウエイトレスが素知らぬ顔でテーブルのそばを通過していく。こちらに目線を寄越すこともしない。大変よろしいことだ。
「出ましょう、少尉殿。お送りしますから」
テーブルに手をついて立ち上がりかけた月島を、鯉登は黙って引き留めた。
自分の手の上に重なった節の目立つ浅黒い手と、強すぎる眼力を放つ雄弁な瞳を、月島は目を見開いて順に見た。
「……月島。残ってるぞ、ビール」
「は」
「私から奪ったんだから、それはお前のものだろう」
鯉登の目が向けられた先には、月島が酔った鯉登を見かねて没収したビールがある。ジョッキに半分ほど残っているが、表面の泡はすでになくなってしまっており、琥珀色の液体の底のほうからときどき細かいあぶくがちらほら登ってくるばかりである。
「全部飲んでしまえ。待っていてやるから」
月島は浮かせていた尻を椅子の座面に戻した。結露に濡れたジョッキの持ち手を握る。
ゆっくりと飲めば、鯉登はそれだけ長い時間、真正面でじっと月島を待つのだろう。
この量を一気に飲めば、きっと自分も酔いが回って、今だけ楽になってしまうのだろうか。鯉登とともに。
「いただきます」
月島はジョッキを傾けた。炭酸がほとんど抜けてぬるくなったビールが、唇に触れる。
分厚いジョッキの底にぼやける直前、やさしく獰猛な目をした鯉登が赤い顔で微笑むのが見えた。