お好きなように剥けばいい

「なくなったんだな、傷跡」
 令和の世の往来で偶然再会した鯉登閣下は、顔を見るなり固まった俺の名を高らかに呼び、思いっきり抱きすくめ、どれほど会いたかったか、会えない日々がどれほど味気なかったかを矢継ぎ早に語りながらちょっと泣いたあと、俺の首筋を見てそう言った。
「傷跡……ああ、はい」
 俺はぐしぐし鼻をすする男前を道の端に誘導し、ティッシュを差し出しながら頷いた。
 俺だってずっと会いたかった。思い出さない日などなかった。だがいざ再会してみるとあの情熱的で騒がしい感情表現に久々に圧倒されてしまい、相対的に薄めのリアクションにとどまったのだった。
「もうないですよ、全部」
 全部。閣下が気にする傷跡がもうひとつあるのは知っていたから、あえてそういう言い方をした。
 そっちの傷跡があったのは、外じゃ指差すのもためらわれる場所だ。だから「全部」から察してもらうしかなかったのだが、閣下は正しく意図を汲んでくれた。服に隠れたそこにさっと視線をやってから、目を細めて「そうか」と言った。
 でも、なんにもなくなった首筋に触れながら「うん…うん、よかった」と噛みしめるようにつぶやく閣下を見て、やはりこのひとにとってはここの傷跡の有無が一番重要だったのだと悟った。自分の不注意が俺にあの傷を刻んでしまったのだと、ずいぶん負い目に思っていたようだったから。長いこと──少なくとも、前世の俺がくたばるそのときまで。
 だから俺もこのときはじめて、あの傷跡が今世に持ち越されなくてよかったと思った。仮に何らかの形で残っていたとしても俺は別に困らなかったが、このひとが俺に傷のないことを喜んでくれるのなら、それに越したことはない。
 閣下の頬に目立っていた刀傷も、綺麗に消えていた。大きな傷は生まれ変わったときにあざになって残る、なんていう話も聞いたことがあるが、閣下と俺にはその説は当てはまらなかったらしい。それでいて、明治から昭和をともに生きた記憶は二人揃ってしっかり残っているんだから、なんともありがたく都合のいい話があったもんだ。
 それから場所を変えて、互いの首から下にも傷がないことを肉眼で確かめ合った。
 ……というのはまあ建前で、もちろんやることやったわけだが、俺のピークはここで来た。
 閣下を受け入れるときの苦しさとか気持ちよさに、いっぺん冥土を挟んだブランクがまるで感じられなくて。このひとにまた会えた喜びがそれで一気に押し寄せてきて。
 気付いたらぽろっと涙がこぼれていた。謝りながら拭っても拭ってもどうにも止まらず焦っていたら、真っ赤な顔で青筋を立てた閣下にどろどろに甘やかされもっと泣かされた。情けないことこのうえなかったが、正直、よかった。……すごく。
 鍛えてはいるが平和ボケして久しい体に、傷とは違う跡が人知れず付けられては数日かけて消えていく。それを数回繰り返した頃、俺と閣下──鯉登さんはまた、住まいをともにした。
 年の差は今世でも変わらず、鯉登さんは大手の若手社員で、俺は中小の中間管理職。職場も違うし上官と部下という関係ではなくなったが、現代に適応している以外中身はほとんど変わっていないから、二人でいるときのやりとりの感じとかスタンスはだいたい前世の延長といえる。熟年どころの話じゃない。
 ただ、同性が手を取り合って生きやすくなったこの時代では、主従関係のなくなった俺たちは誰に咎められることもなく、名実ともに恋人同士だった。そこになんの建前もないことをふと実感しては、俺はなんだか怖いような気持ちになる。再会できただけでも奇跡なのに、何から何まで恵まれすぎている。
 前世の俺がそれほどの徳を積めたとは到底思えない。きっと俺は地獄での長い長い時間を、模範囚よろしくよっぽど品行方正に過ごしたのだろう。たぶん。

 

「月島ぁ。リンゴ食べたい」
 俺が洗った食器を横で拭きながら、鯉登さんが言った。
 今日夕飯の買い出しに行ったとき、真っ赤なリンゴが青果コーナーの目立つところに並んでいた。リンゴって年中売ってるからよく知らなかったが、今が旬らしい。
「ほんとに蜜入ってるんですかね?」
『蜜たっぷり!』と書かれたポップを見て何の気なしに俺が言ったら、鯉登さんは「確かめてみよう」と言うがいなやリンゴをひとつ取り、俺の持つ買い物カゴに入れた。値段なんて一切見てなかった。今世においてもこのひとは健やか育ちのお坊っちゃんなのだ。
 カゴに入れられたものを俺がすぐに売り場に戻すことも多々あるが、リンゴはそこまで高くもなかったから夕食の材料と一緒に買った。帰ってすぐに野菜室に入れたから、今はほどよく冷えてるはずだ。
「じゃあこのあと剥きましょうか」
「キェーイ! うさぎの形にしてくれ!」
「うさ…ぎ……?」
 俺ができるのは、丸いままのリンゴを回しながらくるくる皮を剥いていくあのやり方だ。前世でせがまれて身につけた技術をまた披露してみせようと思ったのに、あなたときたらまたそうやって俺に新たな無茶振りをしてくるんですね。まあやりますけど。
「剥き方の動画とかないですか?」
「ちょっと調べてみる」
 ポケットからスマホを出して検索し始めた鯉登さんを尻目に、さっき洗ったばかりのフルーツナイフを手元に持ってくる。ちょうどいい大きさだから出番こそ多いが、このナイフでちゃんと果物を切るのはもしかしたら今日が初めてかもしれない。
「いっぱい出てきた。これとかどうだ?」
 冷蔵庫からリンゴを出したところで、鯉登さんが寄ってきた。鯉登さんは俺に何かを見せるときいつも目線に合わせてスマホを下げてくれるが、それでもちょっと高いことがある。伸び上がるようにして画面を覗き込んだ。
「……ああ、いいですね。わかりやすい」
「できそうか?」
「はい。むしろ丸ごと剥くより楽かも」
 まな板の上によく洗ったリンゴを置いて、縦半分に切る。店頭のポップに偽りなく、黄色く透き通った蜜が綺麗に入っていて、鯉登さんと顔を見合わせニヤッとした。
 二等分したリンゴをまた半分にして、蜜まで取ってしまわないように気をつけながら種のあたりを切り取ったら、さらに半分に切り分ける。そうすると、皮がついたままのくし切りリンゴが八つできる。
 あとはうさぎの耳の形になるよう皮にやや深めに切り込みを入れて、余分なところを剥いたら完成だ。簡単にできると思ったが、最初のひとつは失敗した。片耳が削げた。まな板の端っこによけたのを、鯉登さんはなぜか撮っている。
「こいつは二階堂と名付けよう」
「片耳は残ってるからあいつより軽傷ですよ」
「ふっ、お前なかなかひどいな」
「あなたこそ」
 軽口を叩きながら二つ目に挑戦するが、ちゃんと耳が立つように皮を剥くのが意外と難しい。剥くのが薄すぎるとまた二階堂になりそうだし、厚すぎると食べるところが減ってしまう。大きめのリンゴだから、左右の耳の厚さを均等にするなら、動画みたいに一発で剥かないほうがいい気もする。コツがあるのか…?
「月島! こっちの動画、耳をきれいに立てる方法って書いてある!」
「ッ」
 刃の角度を変えながら考えていたら、弾んだ声を上げた鯉登さんがふいに肩に手を置いてきた。集中していたからビクッとしてしまい、ナイフの刃に添えた右手に力が入った。切りかけていた皮の下、刃先が一気に進む嫌な感触があって、リンゴを支えていた左手の親指に鋭い痛みが走った。
「いっ、てぇ…」
 あー…やっちまった。
「切ったのか!?」
「はい…」
 とりあえずリンゴとナイフを置いて、左親指を確認してみる。爪の横のあたり、指先に近いところに、白く短い切れ込みが入っている。赤ペンで引っ掻いたみたいにうっすら血が滲んできたが、爪のおかげで刃が止まったみたいで、思ったほど深い傷にはなっていない。
『それではリンゴを持って、一緒にチャレンジしてみましょう!』
 明るい音楽に乗せてちょっと芝居がかった女性の声がする。鯉登さんがスマホの画面を一度タップして、動画を止めた。
「大丈夫か!?」
「たいしたことないです」
 心配そうな鯉登さんに、左手を持ち上げてみせる。鯉登さんは素早く俺の手を取り、そんなに見なくてもというぐらい間近で親指を凝視してくる。
「爪もちょっと欠けてる……」
「あ…ほんとですね。あとで削っておきます」
 言ってるうちに、滲み出した血が膨らんで小さな玉になった。手を引いてみたが鯉登さんが離してくれる気配がないので、仕方なくそのまま口で迎えに行く。軽く傷口を吸うとかすかにサビ臭くしょっぱい鉄の味がして、舌の当たったところがちりっと痛んだ。案外風呂とか水仕事でしみるかもしれない。
「一枚取ってくれますか?」
 鯉登さんのそばにあるキッチンペーパーを目で指して言うと、こっちを見ていた鯉登さんははっと瞬いて、冷蔵庫の側面にくっつけてあるキッチンペーパーのロールを引っ張った。片手じゃミシン目がうまく切れなかったらしく、俺の左手からするりともう片方の手も離れていく。切り取ったキッチンペーパーを何度か畳んで、今度は両手でこわごわ俺の親指を包んできた。子どもみたいなつたない甲斐甲斐しさに思わず笑みがこぼれそうになって、下唇の裏を噛む。親指ごと傷を隠したデコボコの紙に、いびつに血が染みていく。
「すまん。おいが急に声をかけたから」
「ええ。刃物持ってるときに急に触るのもやめてください。危ないから」
「ウン…本当にすまない、月島」
「わかればよろしい。…ほら、もう血も止まりましたよ」
 キッチンペーパーをそっと外して、傷口がまた開かない程度に軽く手を洗った。絆創膏でも貼って残りのリンゴを剥いてしまおうと思ったが、そういえばうちには絆創膏がない。紙で切ったりしたときに貼ってた記憶があったが、あれは職場の救急箱に入ってたやつだった。常備薬なんかもないし、今度いろいろ買っておかないと。常備してる衛生用品がゴムだけってのはさすがにダメだ。
 血のついたリンゴなんて食いたくないし食わせたくない。血小板がもうひと頑張りしてくれるまで、念のためもう数分待つことにした。
 鯉登さんはまだどこかしょんぼりしている。まな板の端っこの二階堂うさぎを右手でつまんで口元に持っていくと、眉を下げたまま食いついてきた。一口でいくには大きかったらしく、種を取ったときにくびれたちょうど真ん中のあたりで噛み切られる。しゃくしゃくいい音を立てて咀嚼する鯉登さんを見ながら、手元に残ったほうの半身は自分の口に放り込んだ。
「…おいしいな。よく熟れてる」
 ちょっと目元をほころばせて言った鯉登さんに、俺は口を押さえて頷きだけで返す。16分の1サイズでも普通に顎が外れそうだ。これをなんなく咀嚼して飲み込めた鯉登さんは、多分口の中がデカい。知る機会は何度となくあったのに、これまで気付かなかった。
「今世では、お前に絶対怪我をさせないと決めていたのに」
 過去に思いを馳せたときに鯉登さんがそんなことを言ったから、俺は口を開けられないまま「ん?」と言った。なんとかリンゴを噛み砕いて飲み込む。
「……怪我ならもうしまくってますよ、俺。ケンカばっかりしてましたし、今もよく腕とか引っ掛けたりするし」
「お前が勝手にこしらえてくる怪我は知らん。大事にならんよう気をつけてくれたらそれでいい」
「はあ」
「……私のせいで、お前が怪我をするのはつらいという話だ」
 そう言った鯉登さんの視線の先を追って、ああ、と思った。
 鯉登さんが見ていたのは、俺の目でも左親指でもなかった。今は何もないのを確認したはずの、首筋だ。
 前世の俺の首筋には、白く引き攣れた大きな傷跡があった。ちょうど今ぐらいの年齢のときに、先遣隊として任務に出向いた樺太で、手投げ弾の爆風から鯉登少尉をかばってできた傷だった。
 退役後もずっと首筋に残り続け、詰襟の軍服を着なくなって余計に目立つようになったそれに、このひとはグッと何かをこらえるような顔をしては、折に触れて構った。あんまり撫でたり口付けたりするもんだから、本来感覚が鈍るはずの傷跡の中でそこだけやたら敏感になってしまった。
 布団の上でいよいよ大往生、というとき、目も見えず耳も聞こえなくなった世界で、そばで看取ってくれた鯉登閣下のぬくもりを最期まで俺に伝えてくれたのも、握られた手とあの傷跡だったほどだ。
「鯉登閣下」
 さりげなく首筋に手をやりつつ呼びかけると、鯉登さんはぎくりと体を強張らせて瞬いた。
「そんな壊れ物みたいな扱い、俺には身に余ります」
「月島──」
「俺だって去年の大掃除で電球替えてたとき、踏み台から落っこちて鯉登さんに庇わせてしまったじゃないですか。年末の忙しいときに、俺のせいであなたは手首をひねってしまって……」
 言いながらそれを今回の対抗エピソードとして出すのはどうなのかと思ったが、もう引っ込められないから「ね? お互い様ですよ」と強行突破を試みた。鯉登さんは「それに関してはお前のやらかしのほうが上じゃないか?」と言った。おっしゃるとおりである。
「い、いや月島、今はいいんだその話は。おいがお前に怪我をさせたくないというのは、お前が思ってるような罪悪感だけでは多分なくて……自己嫌悪、というか」
「自己嫌悪?」
 罪悪感も自己嫌悪も、俺には馴染みが深かった。絶え間なく内側から刺され続けて殺されそうになりながらも、絶対に目を逸らさずにいた感情だったから。
 あなたがあんなものに囚われる必要などない。俺なんぞに傷をつけたぐらいで。
「……鯉登さん、」
「違うぞ!」
「まだ何も言ってませんが」
「何か卑屈なことを言おうとしただろ。もうお前の顔見たらわかるんだからな。そうじゃない、違う」
「……ああ、そうですか」
 以心伝心というやつなんだろうが、こうも的確に見透かされるとちょっと不貞腐れたくもなる。
「じゃあどういうことなんですか?」
「おいのせいでできた傷がおまえにあるということに、その……」
「はい」
「興奮してしまうことが、あったから」
「……えっ?」
 鯉登さんは口を結んでうつむいたが、身長差の関係で俺からはむしろよく見えてしまう。かわいそうなくらい赤くなった顔と、しおらしさに反してぎらつき出した目が。
 興奮。興奮?
 前世でことあるごとに触れては口付けてきたとき。再会した日に傷がなくなってよかったと言ってくれたとき。このひとは、どんな顔をしていたっけ。
 揃った指先のあたたかさや唇のやわらかさ、伸ばして綺麗に整えられていた髭の感触まで蘇ってきた気がして、思わずまた首筋に手をやる。鯉登さんは赤い顔のまま目を見開き、「キエェッ!! すまん、月島ぁ!!」と猿叫交じりに詫びてきた。
「傷付けてしまって本当に心苦しかったんだ! なんにあの傷、わっぜいやらしか目でん見てしもて……」
「は、はあ」
「今世ではわいんあん傷はのうなっちょったで安心したどん、ちょっと残念にも思うてしもた。最低じゃろおいは……」
「いえそんな」
「じゃっで今度こそわいを傷つくっもんかち思うちょったんに、またやってしもた。今も気を抜いたやムラムラきてしまおごたっ。うう…月島ぁ……おまえ、傷をペロッてやるな……」
「お、落ち着いて。いったん落ち着きましょう」
 予想外の性癖を暴露されたうえ言いがかりをつけられて衝撃の極みだが、激しい感情表現に圧倒されてリアクションが薄くなる。デジャヴを感じる。この感じだときっとまた、俺のほうのピークは遅れてくる。それも一番恥ずかしいときに。
「いいんですよ、鯉登さん」
 だったらまだ冷静な今のうちに、伝えたいことを伝えておこう。
「俺、ちょっと安心しました」
「あ、安心?」
 鯉登さんがぽかんと俺を見る。
 だって、あんなに頼もしく俺を導いて、いつだってまっすぐに愛してくれたあなたが、実はずっと俺に歪んだ悦みたいなものを抱えていたというんでしょう。それを後ろめたく思っているところも含めて、大変よろしいじゃないですか。
 あなたが綺麗すぎなくてよかったとほっとする俺も、あなたに負けないくらいひどいと思うんですが、どうですか。
「あなたにも、健康的でないところがあったんだなあと」
「うっ…気のせいかトゲを感じるぞ月島ぁ……」
「気のせいですね。……お」
 左親指の血が乾いている。そっと傷の周りを押してみても、新たな血は出てこないし痛みもない。
「もう大丈夫そうです。残りも剥いちゃいますね」
「いや、いい。今日は私がやる。お前はそこで見てろ」
 フルーツナイフを取りかけた俺を制して、鯉登さんが割り込んでくる。器用なひとだから、やろうと思えばだいたいのことができるのは知っている。せっかくだからお言葉に甘えることにした。
 置きっぱなしの鯉登さんのスマホをタップして、止めていた動画を再生する。俺が切り分けたリンゴを並べ直しながら、鯉登さんは画面の中でできていくうさぎリンゴを真剣に見ている。
 チャンネル登録と高評価をお願いされるくだりに入ったあたりで、鯉登さんは「うん、わかった。もうできる」と言ってナイフとリンゴを手にとった。俺は動画を閉じてから、邪魔にならないよう鯉登さんから一歩離れた。部屋着でリンゴを剥いていても、このひとはやたら絵になる。
「月島」
 リンゴの皮に切れ目を入れながら、鯉登さんがこっちを見ないまま声をかけてきた。
「その傷、風呂とかでまた開くかもしれないから。あとで絆創膏買いに行こうな。あのペタッとしたやつ」
「普通のじゃなくて? どんなのですか?」
「ほら、CMでよくやってるだろ。白く膨らむやつ。かさぶたを作らず早く治すっていう」
「ああ…高いやつじゃないですか。要りませんよそんなの」
「買う。おいが買う」
「要りません」
 埒が明かないと思ったのか、鯉登さんは何も言い返さなくなった。まな板にぴんと耳の立ったうさぎが並んでいくのを見ながら、俺は心の中でもう一度要りません、と繰り返した。べつに、早く治らなくてよかったから。