作法委員会の活動を終えた仙蔵が廊下を歩いていると、縁側に腰かけて俯いている文次郎の姿が目に入った。
日の暮れかけたこの時間帯に、文次郎がそろばんとのにらめっこや鍛練以外のことをしているのは珍しい。薄暗くなりつつあるので、遠目からでは何をしているのかよく見えないが、どうやら落ち込んでいるというわけではないらしかった。あぐらをかいて背を丸め、何かに没頭している。
仙蔵が近付いていくと、文次郎はすぐに気付き、顔も上げぬまま「仙蔵か」と短く言った。聞こえてくる足音だけでそれが誰なのかを当てることができる、という文次郎の鋭敏な感覚は、何かしながらでもきちんと機能するらしい。
仙蔵は「ああ」と答え、文次郎のそばに立った。文次郎は座ったまま、仙蔵を見上げてくる。何か違和感があるなと仙蔵は思ったが、すぐにその正体を突き止めることはできなかった。
「委員会はどうしたんだ」
「ああ、今日はもう終わった。団蔵の帳簿の計算が一発で合ったんだ」
「ほう、珍しいな」
「最近下級生も頑張ってくれているからな。そんなに遅くまでかからねえんだ」
確かに、機嫌よく話す文次郎の目の下の隈は、いつもよりも薄く見える。違和感を覚えさせるのはこれかと仙蔵は思うも、どうもそれだけではない気がする。
疲れていないのは何よりだがからかい甲斐はないな、と若干の物足りなさを感じながら、仙蔵は文次郎の隣に腰を下ろした。
「……で、こんなところに座り込んで何をしているんだ?」
「ああ、髪を切ろうかと」
見れば文次郎の組んだ足の上には懐紙が広げられており、切られた髪が散らばっている。
右手に握られているのは紛れもなく苦無で、仙蔵は思わず眉をひそめた。実習で使う血なまぐさい苦無を散髪に使おうという発想が、仙蔵には理解できない。出先ならともかく、今いるのは、その気になれば鋏なんてすぐに調達できる忍術学園だというのに。文次郎の粗野なところは今に始まったことではないので、深くは突っ込まなかったが。
「最近伸びてきたんでな。結ってても気になるんだ」
そう言って文次郎が髪に隠れた首筋に手をやったのを見て、ようやく仙蔵は違和感の正体を突き止めた。
文次郎が、制服姿で髪を下ろしているからだ。
同室の仙蔵にとって髷をほどいた文次郎は珍しくもなんともないが、その文次郎が寝間着ではなく制服を着ているとなると話は別だ。文次郎は毎朝髪を結ってから制服に着替えるし、風呂に向かう時も髪は結ったままで、洗う時になって初めてほどく。
そのため、制服姿かつ髪を下ろした文次郎というのは、五年以上同室の仙蔵でもほとんど見たことはなかった。
悪くない。
仙蔵はほんのわずか口角を緩めた。
「……お前、その思いきりの悪い切り方はどうにかならんのか」
言葉少なに髪を切っていく文次郎を仙蔵はしばらく眺めていたのだが、やがて怪訝な顔をして、じれったさもあらわに言った。うっとうしいのならばっさりと切ってしまえばいいのに、この男は爪の短い指先でちょっぴり毛先をつまんでは、苦無の先でちょんちょんと、少しずつ少しずつ切っていくのだ。
小平太は言わずもがなだが、留三郎も伊作も、そして長次や仙蔵でさえも、髪の切り方は潔い。伸びた毛先をつかんで、一気に鋏を入れる。
ちなみに、その後どこもいじらずに散髪を終わらせる者と、さらに細かく鋏を入れて整える者とには分かれる。
さらに言うなら、前髪を切っている時に限って誰かにぶつかられたりする伊作などは、最近は四年生に編入してきた同い年の元髪結いに頼んだりもしているようだが。
とにかく、髪を切るのに苦無なんぞ持ち出しておきながら、他の六年生の誰よりも慎重に髪を切る文次郎は、仙蔵には滑稽に見えて仕方なかった。
「そんな切り方じゃあ、いつまで経っても終わらんぞ」
「うるせえな。一気に切って、結えねえくらい短くなっちまったらどうすんだよ」
実は失敗を人一倍恐れている文次郎である。急いでやって失敗するくらいなら、ゆっくりでも確実な手段を選ぶ男だ。だから文次郎の帳簿の計算などは、正確な代わりにわりと進行は遅かったりする。
「いっそ、結わずに済むくらい短くしてしまえばいいんじゃないか?」
「今さら髷がなくなるのも寂しいじゃねぇか」
そういうことらしい。
自身の髪にさして執着はないが、髪質に恵まれている仙蔵には、その気持ちはわからないでもない。だから「確かにそうか」と、彼にしては珍しく文次郎に同意を示した。
肩につく文次郎の髪は毛先が不揃いで、少しの風にも軽やかに揺れる。硬くてあちこちに跳ねるその髪が、汗に湿って指に絡みつく感触を仙蔵はよく知っている。首筋にかかる髪を除け、そこに口付ける時のにおいや温度とともに、色濃く記憶に焼き付いている。
仙蔵は文次郎のうなじの辺りを見ながら、ぼそりと切り出した。
「……後ろ、切ってやろうか」
「え、」
自分からは見えないところを切るのに難儀していたのだろう。一瞬期待に満ちた瞳で仙蔵を見た文次郎だったが、すぐにはっとした表情になり、視線を逸らしてつれなく手を振った。
「……いや、いい。お前に任せたら丸坊主にされそうだ」
「失礼な奴だな。私がそんなに不器用に見えるか」
「器用さの問題じゃねぇよ。性格のことを言ってるんだ」
そういうふうに勝手に警戒するからからかいたくなるんじゃないかと思いつつ、仙蔵は黙って手を突き出す。文次郎は仙蔵の顔と手を交互に見ていたが、やがてとても不本意そうな顔をしながら、しぶしぶ苦無を仙蔵に手渡した。つくづく文次郎は無言の間に弱い。
ずしりと重い苦無を手に、仙蔵は文次郎の背後に回る。観念したようにあぐらをかき直した文次郎から懐紙を受け取り、正座をした自分の腿の上に広げた。
「短くしすぎるなよ」
「ああ」
「首も切るなよ」
「どうしようかな」
「てめぇ」
肩越しに睨み付けてくる文次郎の視線を軽くいなして、後ろ髪に手ぐしを通す。黒々とした髪の間から、うなじがのぞいている。毛先の跳ねる首筋は、日々の鍛練によってよく日焼けしていた。がっしりとした、男そのものといった首筋である。多くの後輩が密かに憧れているというのも頷ける。それでも、何度も文次郎と肌を合わせている仙蔵にしてみれば、この首筋はただ扇情的だ。
人差し指と中指で毛先を挟んで苦無を滑らせ、まずはざっと全体の長さを揃えた。柔らかい音を立てて、懐紙の上に切られた髪が落ちていく。
仙蔵がまともに散髪をしていることに安心したらしく、文次郎の背に強張りはなかった。しかし細かいところを整えようと刃先を小刻みに動かしていくと、文次郎はぶるりと肩をすくめた。
「っふ、くすぐってぇっ」
「動くと首が切れるぞ」
「わかってる。……っ!」
途端に仙蔵はおもしろがって、髪を整えながら時折わざと苦無の先端を文次郎の首筋に掠めた。その度にぴくりと反応し、文次郎は息を詰める。
「っ、おい、仙蔵っ」
「なんだ」
「まだかよ」
「もう終わる」
膝の上に置いた手を震わせて、文次郎は仙蔵の気まぐれないたずらにひたすら耐えている。俯いてぎゅっと目を閉じている文次郎に気を良くして、仙蔵は薄く笑んだ。
やがて手を止め、苦無を置く。文次郎が俯いていたせいで思ったよりも短くなってしまったが、髷を結うのに支障はなさそうだ。
終わったぞと告げて肩についた髪を軽く払えば、散々苦無の先にもてあそばれた文次郎が、ああ、と低く答えた。
髪の隙間から見える耳はうっすらと赤い。ふぅと息をつきながら切られた髪に触れる文次郎のゆったりとした動きに、仙蔵は密かに煽られる。
文次郎が首が弱いことを知りながら、仙蔵が苦無でつついていたのは言うまでもない。しかし故意にやられていたとは気付いていないらしい文次郎は、特に仙蔵を責めることもなく、ゆっくりと体ごとこちらに向き直った。
「どうだ?」
「短ぇな」
「髷は結えるさ」
「……まぁそうだな。ありがとよ」
手で髪をまとめ、文次郎は髷を作ってみながら言った。
首筋がすっかり見えている。苦無の先を掠めた部分がところどころ爪で引っ掻いたように白い筋となっていて、仙蔵のささやかな悪戯心を静かに満たした。
――まあ生憎、これだけで鎮まるようなかわいい征服欲は持ち合わせていないのだが。
一瞬合った文次郎の瞳は、わずかではあるが明らかに潤んでいた。ごまかすように床に視線を落とし、苦無を拾い上げる文次郎の手を、仙蔵は素早くつかんだ。
驚いてこちらを見る文次郎の目の下、いつもよりも薄い隈をゆっくりと指でなぞる。 最近きちんと寝ているのなら、今日くらいは寝かせなくてもいいだろう。
「文次郎」
「な、んだよ」
「風呂に入ろう」
口角をつり上げて囁いた仙蔵を、文次郎は一瞬ぽかんとした顔で見つめた。 やがて、つかまれたままの手と仙蔵の目の色から、風呂に入った後の自分の行く末を悟ったらしい。眉間にしわを寄せた文次郎の顔が、みるみるうちに赤く染まっていった。
「……ああ」
それでもすまして頷く文次郎が、仙蔵にとってはとてもけなげで生意気で、小憎たらしくて仕方がない。だからこそ、めちゃくちゃに甘やかしてやりたくなるのだ。
落ちた髪を懐紙で包み、文次郎はさっさと部屋に戻っていく。ゆっくりとその後ろを歩きながら、今夜自分の下でぐしゃぐしゃに乱れてしまうだろう黒い髪を眺め、仙蔵は笑った。