肌を滑らせたT字の刃物が、文次郎の誘導を無視してずるりと横に滑った。
「あ、いてっ」
一瞬の鋭い痛みは、すぐにぴりぴりとした何ともいえない刺激に変わる。そっと肌から剃刀を離してみると、案の定顎の骨の上が数ミリ切れて血が滲んでいた。そして悪いことに、愛用の剃刀は昨日新調したばかりで切れ味は抜群であり、剃り残しゼロが謳い文句の五枚刃がこぞって悪さをしたものだから、数ミリの傷は見事なストライプとなっている。これはとても目立つ。くっそ、と悪態をつきながら、文次郎は常備してある血止めを傷口に塗った。格好が悪いが、家を出る頃にはこれで血は止まっているだろう。
残りの髭を心持ち慎重に剃り、文次郎は朝支度を続行する。傷口を避けて肌を整えた後、青い透明のスプレーボトルに入った寝癖直しで髪を濡らした。幸い、今日はそんなに寝乱れていない。スイッチを入れたドライヤーは、マイナスイオンがナノだかミクロだかになって風と一緒に出てくる代物で、同居人の仙蔵が買ったものだ。髪をなびかせる女性芸能人のプリントされた箱を見て文次郎は鼻で笑ったものだが、ある日気まぐれに使ってみるとこれがなかなかよかった。それ以来文次郎もマイナスイオンドライヤーの虜だ。しっとりと包み込むような、それでいて力強い風が出てくる。これまで使っていた「ターボ風量」とでかでかと書かれたラベルが貼られた軽いドライヤーには、もう戻れない。
あらかた乾いたところで、若者に人気らしい霧で出てくるワックスを髪全体に振りかけた。もみ込みながら整えていく。どうもまた前髪が伸びてきたらしく、いい具合にセットできない。ううん、と唸りながら手持ちの整髪料を物色していたところに、「早くしろ」という仙蔵の声がリビングから飛んできた。目覚めで文次郎にわずかに遅れをとり、洗面台の順番待ちをしている仙蔵は、まだ歯を磨くくらいしか支度が出来ていない。
時間を食っている自覚はあったので、文次郎は前髪を妥協し、洗面所を後にした。仙蔵が廊下ですれ違いざまに文次郎を見上げ、薄く笑って「不器用だな」とだけ言った。うるせえと短くいなし、文次郎はリビングのドアを開ける。顎に白く浮き上がった平行線は、やはり目立つようだった。
リビングでワイシャツとネクタイを適当に見繕い、ズボンプレッサーからスラックスを取り出して身に着ける。腕時計を着けながらキッチンに入ると、何やらいい匂いがする。切られたばかりと思われる換気扇の辺りに、調理の熱気が残っていた。
「……朝からパスタ」
コンロに置いてあったフライパンのふたを取ってみて、文次郎は呟く。クリームベースのソースが絡んだ細麺のパスタが、ほわりと白い湯気を立てていた。
レトルトのソースは切らしていた覚えがあるので、仙蔵がいちから作ったのだろう。それを裏付けるように、賞味期限として二日前の日付が印刷された牛乳パックが、きれいに濯がれてシンクのふちに逆さに立ててある。冷蔵庫を見ると卵もなくなっていたので、いつも賞味期限ぎりぎりまで数個残してしまうこれも、仙蔵が使ってくれたらしい。
パスタはできたばかりらしく、火を入れ直す必要はなさそうだった。深皿を二枚出してパスタを取り分けながら、あいつは本当にパスタが好きだなぁと文次郎は苦笑した。昼飯にとイタリア料理店に付き合わされたことは数知れずだった。なんたらかんたらチーズのカルボナーラ、とかいう文次郎にしてみれば胸焼けしそうな代物を、仙蔵はいつも嬉々として注文して食べる。
(あんな身体して、こってりしたのが好きなんだからな)
目の前のパスタもクリームベースではあるのだが、ソースは真っ白ではなくオレンジ色をしている。フォークで少しとって舐めてみると、クリームに混じってトマトの味がした。
この味には覚えがある。いつも判で捺したように梅しそ明太子の和風パスタしか頼まない文次郎に、ある日仙蔵が「これならお前も食えるんじゃないか」と勧めてくれたものと似た味がした。店のものはもう少しトマトが勝ってさっぱりしていたが、そこは素人と玄人の違いだ。これはこれでうまそうだし、何より嬉しかった。シンクに浸けられたホールトマトの空き缶は、仙蔵の優しさだ。
パスタを盛った皿とフォークをテーブルに運んだ文次郎は、椅子に座りかけてふと動きを止めた。時計を見ると、現在の時刻は七時二十分。家を出るのはだいたい八時前後だ。
それなら大丈夫だろうと判断して、文次郎はコーヒーメーカーにフィルターをセットし、仙蔵の好きなキリマンジャロの粉末を入れた。タンクに水を注ぎ、フタをしてスイッチを入れる。程なくして、リビングに香ばしい匂いが漂い始めた。
「なんだ文次郎、先に食べていてよかったのに」
元がいい仙蔵の身支度は早い。文次郎のものよりいくらか洒落たビジネスウェアに身を包んだ彼は、ふと瞬いて、ラックの上のコーヒーメーカーに目をやった。赤いランプが、ちょうどぱちんと消えたところだった。
「コーヒーを淹れてくれたのか」
「ああ。たまにはインスタントじゃねえのが飲みたくてな」
換気扇の下でそう答えた文次郎は、吸っていたタバコを消し、マグカップを二つ出してテーブルに向かった。コーヒーメーカーからポット部分を外して、仙蔵が丁寧にコーヒーを注ぐ。
「キリマンジャロだな」
「そうなのか。適当に選んだからわからねぇが」
「へえ?」
おもしろそうに口角をつり上げる仙蔵と目を合わさず、文次郎は席につく。ふっと笑った仙蔵はそれ以上は何も言わず、コーヒーの少し残ったポットをテーブルに置いて、文次郎に続いた。
テレビをつければ、涼しそうなサマーニットを身につけたお天気キャスターが爽やかな笑顔を振りまいていた。今日は真夏日になるらしい。画面の左上、見やすいデジタル表示の時計が示す時間は、『7:32』だ。
「…っし、食うか」
「ああ」
いただきます、と手を合わせれば、少し豪華な朝食の時間が始まる。文次郎はフォークに、仙蔵はマグカップに、それぞれ真っ先に手を伸ばした。
二倍速秒針
「うまい」
互いが互いを盗み見ながら、ぽつりと同時に同じことを呟いた。