十五歳からはじめる食育

 綺麗に揃った黒い箸の先端が、小鉢の中の里芋を難なくつまみ上げる。甘辛い煮汁の絡んだそれは、しずくの一つも落とすことなく、次の瞬間には文次郎の口の中に運ばれて見えなくなった。
「……それでよぉ」
 しっかり咀嚼し、くっきり出た喉仏を上下させてから、文次郎は話の続きを始める。もっとも、話の内容を私はよく把握していないのだが。ひとつのことに集中すると、それ以外のことにはなかなか意識が向けられなくなるものだ。例えば今のように、文次郎の食事風景を観察するのに全神経を総動員させていたりしたら。
 話している間奴の箸は動きそうにないので、私は適当に相槌を打ちながら自分の食事に箸をつける。当たり前だがおばちゃんの料理の腕は今日も見事なもので、鯵の開きの絶妙な塩加減に舌鼓を打った。
 下級生に出すものでも骨を外しておかないのは、おばちゃんなりの教育なのだとご本人から伺ったことがある。ありとあらゆる食べ物の、正しい食べ方を身につけてほしいから、と。正しい食べ方と無駄のない食べ方というのは、等式で結ばれる。この先いつでもまともな食事にありつける保障はないのだから、不自由なく食べられる今のうちに無駄なくしっかりと食べ物をいただく練習をしなさいと、そうおっしゃっていた。
 昼時の今、食堂は賑わっているが、この中に正しく飯を食える者は果たして何人いるだろうか。先ほど私の近くの席に座って食事をとっていた一年生などは、鯵の骨を不器用に折りながら身をほじくり出して食べていた。きっと彼の中にはまだ、無駄なくしっかりと食べ物をいただく、という概念はないのだろう。作法委員長として、彼に骨の外し方を教えてやるべきだったかと、今になって少し後悔した。だが仕方がなかったのだ。前述の通り、私は文次郎の食事風景を観察するのに忙しかったから。
 文次郎の言葉が途切れ、箸置きに置かれていた箸がまた肉刺だらけの右手に収まった。私は入れ違いのように箸を置き、口休めを装って茶を啜る。文次郎の手にした箸が、鯵の身を数度押さえ、ぴいっと気持ちよく骨を剥いでいった。骨の周りについた身を外すことも忘れていない。
 正しい食べ方、無駄のない食べ方は、そのまま美しい食べ方にもつながるのだ。思わず感嘆の吐息を漏らすと、とうとう文次郎に怪訝な視線を向けられた。
「お前……何だよ? さっきから人が食うとこじろじろ見て」
「いや……お前は意外と、いい飯の食い方をするなと思ってな」
 語弊のない返し方をしたと思う。しかし文次郎はいよいよ眉根を寄せ、「は?」と間抜けた声を発した。なんだ、無意識なのか?お前のその、お前とは不釣り合いなまでの食事中の行儀の良さは。
「……食いっぷりの話か?」
「違う。お前、仮にも作法委員長の私がそんなことを褒めると思うか?」
「んだよ」
 拗ねたように呟き、文次郎は鯵をほぐして口に運ぶ。続いて茶碗を手にした左手の、親指を除く四本の指が、底で自然に揃えられていた。
「お前、食事のときだけなら、作法委員に混じっても恥ずかしくないぞ」
 遠回しに、それでいてわかりやすく褒めてやると、文次郎はようやく、私が自分の何を評価したのかに気付いたようだった。一瞬まんざらでもなさそうな顔をしたくせに、すぐに「それじゃ俺が普段はガサツな奴みてぇじゃねぇか」などとのたまうものだから笑ってしまう。それではまるで、普段ガサツではないようではないか。
「食事の仕方が美しいのはいいことだぞ」
「そうかよ」
「どこで身に付けたんだ?」
「どこでも何も、」
 文次郎も箸を置き、湯呑みに口を付ける。その間に辺りを見回してみると、時間が経ったせいか少し生徒が減ったように見えた。
「何もしてねぇよ。意識したことがねぇ」
「嘘をつけ」
「嘘じゃねぇよ!」
 作法の意識もなしに、あの行儀のよさを出せるわけがない。きんぴら人参を食べながら文次郎を睨んでいると、奴は疲れた顔でため息をついた後、こんな呪文のような言葉を口にした。
「われ今幸いにこの清き食を受くつつしんで、食の来由をたずねて、味の濃淡を問わず、その功徳を念じて、品の多少をえらばじいただきます」
 聞き覚えのある言葉だった。というか、ほぼ毎日聞いている。文次郎がいつも食事をとる前に、手を合わせて必ず唱える一文だ。
「……気をつけてることは何もねぇが、食えることのありがたさとか食い物への感謝とか、そういうのは忘れたことがねぇ」
 だから自然と行儀もよくなったんじゃねぇか。ぶっきらぼうにそう続けた文次郎は、ごまかすようにまた箸をとって、再び鯵を食べ始めた。骨の剥がれた鯵の身は、文次郎が箸先を当てるだけでいとも簡単にほろりとほぐれていく。文次郎に食べてもらうのを、今か今かと待っているようにさえ見えた。
「うまいか、文次郎」
 文次郎が口の中のものを飲み込んだのを見計らって、私は奴に問う。答えなど一通りしか有り得ない、愚問。それにも関わらず、文次郎は少し照れたように視線を逸らしながら、律儀に「うめぇ」と答えてくれた。
「お前のそういうところも、好きだ」
 努めて温度を込めずに口にした言葉に、文次郎が「え」と間抜けな声を上げ、逸らしていた視線をこちらに向けてきた。
 二度は言ってやらず、私は再びきんぴら人参に箸を伸ばす。ぷくりと肉厚な胡麻が絡んだ人参は、目の覚めるような鮮やかな朱色をしている。口に運んでみると、先ほど食べたときよりずっと力強く、その味を感じることができた気がした。
 顔を上げてみると、赤面した文次郎が黙々と里芋を食べていた。窺うようにちらりと私を見た奴の右手、箸の先からぽたりと煮汁が落ちる。おや珍しい、涙箸だぞ、文次郎。