髪を切ってほしいという仙蔵の頼みを、文次郎は断った。
忍術学園で組と部屋を同じくして、四年目の盛夏のことである。課題や試験を個別に命じられることが増え、同室と終日顔を合わせないことも珍しくなくなってきた頃だった。
「明日から数日実習に出てくる」
その日、呼び出されていた指導室から戻るなり、仙蔵は文次郎にそう告げた。障子越しに染み込んでくる赤い西日や蝉の声に似つかわしくない、いつもの涼やかな声音だった。
「女中に化けて城に潜入しろというんだ。あまり気が乗らん」
「ふうん」
「女装は別に苦でもないがな。この暑いのに女の格好で炊事場だの浴室だのに忍び込めなんて、たまったもんじゃないと思わんか?」
「それも鍛練だろ」
やや大仰に畳み掛けてくる仙蔵に、文机に肘をついた文次郎はつれない相槌を打っていた。会計委員会で分担して持ち帰ってきた帳簿を広げ、鉄製そろばんの重い珠に指を添え、さあやるぞと気合を入れたところに仙蔵が帰ってきたのだ。
「出た出た、鍛練馬鹿め。化粧を溶かさないようにするのも鍛練だというのか」
「うるせえな。溶けるほど塗らなきゃいいだろうが。どーせお前は薄化粧でも様になるんだから」
女装の授業では補習ばかりの文次郎が僻みを込めて言ったのを、仙蔵は褒め言葉として受け取ることにしたらしい。「それはどうも」と含みのある笑みを見せてから、文次郎の隣に腰を下ろした。真っ直ぐで艶やかな黒髪が、屈む動作に合わせてしゃらんと軽やかな音を立て、赤紫の制服の肩を滑り落ちた。
「化粧崩れは汗止めで対策するとして…髪を少し短くしていこうと思うんだ。結うにしても今のままじゃ暑苦しいからな」
入学時から数えるほどしか鋏を入れていない仙蔵の髪は、高い位置で髷を結っていても腰に届くほど長さがあった。机の端にかかった毛先を無遠慮かつ丁寧に手でよけた文次郎に、仙蔵は続けた。
「そういうわけで文次郎。今から私の髪を切ってくれ」
「断る」
文次郎は即答した。「髪を短くしようと思う」のくだりを聞いた時点で、すでにこの展開は読めていた。四年も一緒に過ごしていれば、仙蔵がこちらに何かやらせようとしてくるとき特有の気配には嫌でも敏感になるものだった。
「なぜだ」
「なぜって、見てわかるだろ」
不満そうな仙蔵から文机に向き直りながら、端のほうに積み上げた帳簿をばんと手で叩いてみせた。
「俺はなあ、今忙しいんだ」
「全然忙しそうに見えないが」
「これからってときにお前が帰ってきたからだよ! 明日までにこれ全部計算を合わせないと委員長に怒られるんだ。だからお前の髪なんて切っとるバヤイではないっ」
「こんなの大した手間じゃなかろうに」
仙蔵の言う「こんなの」はもちろん散髪のことを指しているのだが、文次郎に言わせればそちらも十分大した手間だった。鋏で大まかに長さを整えるだけで済むならいいのだが、見目麗しい立花仙蔵の御髪となるとそうはいかない。素人がその毛先を揃えるのにどれだけの時間と労力を要するのか、文次郎は身に沁みてよく知っていた。
「今回は日が悪かったと思ってあきらめろ。それか自分で切れ」
「自分じゃ上手くできんからお前に頼んでいるのに」
仙蔵はなおもぶつぶつ言っていたが、そろばんに向かった文次郎が胡座から正座に座り直したのを見て、ようやくあきらめがついたようだった。
「…仕方ない、玉結びで乗り切ることにする。ただ束ねるだけよりは暑苦しさもマシだろうからな」
しおらしいことを言いながら、立ち上がるついでにわざと毛先を右手めがけて落としてきた。こそばゆい。文次郎は横目でじろりと仙蔵を睨み、「ご破算で願いましては」と五珠を弾くついでにその髪を払った。フンと鼻を鳴らして艶髪を背に流した仙蔵は、部屋の奥で座り直し、箪笥や化粧箱を物色し始めた。
「……早いのか、明日は」
計算の手を止めて、文次郎は背中で問うた。
「ああ、準備もあるから早朝に発つ」
「そうか」
「先に風呂に行くぞ」
「おう」
聞き慣れた静かな足音が背後を通り過ぎていく。仙蔵が部屋を出たのを見計らって振り向くと、白魚のような指が障子を閉めていくところだった。障子紙に輪郭をぼやかした赤紫の影が遠ざかっていく。
ひとつ息をついて、文次郎は帳簿の計算に戻った。右手の甲にわずかに残っていた仙蔵の髪の感触は、一心不乱にそろばんの珠を弾くうちすぐに消えた。
「喉仏でばれてしまったんだ」
白魚のような指を喉に添えた仙蔵が言うのを、文次郎は呆然と聞いていた。取り落とした筆が袴に落ちたことにも気付かなかった。
仙蔵は障子越しの夕日と蝉の声を背に受けながら長屋の戸口に立っていて、それを文机についた文次郎が見上げている。「迂闊だった」とと呟く仙蔵は、悔しげだがやはり涼やかな声をしていた。
「自分の体の変化に気付けていなかった。前に女装をしてから期間が空いていたから」
「……」
「…いや、言い訳だな。女装は得意だという慢心があったから失敗した。……情けない限りだ」
「……」
「後日補習とのことだ。非の打ち所なく完璧にやってやるさ」
床の一点を見つめ、心の整理をつけるように言葉を紡ぐ仙蔵に対し、文次郎はろくにものも言えなかった。
文武両道、容姿端麗、火薬を扱えば忍術学園一。何をやらせても完璧と名高い同室の友の泥臭い努力や執念を、これまで誰よりそばで見てきた。こういうときに仙蔵に掛けてきた言葉だってたくさんあるのに、それがひとつも出てこない。
そもそも、仙蔵の決意表明に応えてやるというという発想に至っていなかった。仙蔵が生きてこの場にいる以上、実習の合否など、今の文次郎にとってどうでもよいことだったので。
「髪、切られたのか」
文次郎が掠れ声でようやく発した問いに、仙蔵は苦笑で応えた。
腰まであった濡れ羽色の髪が、肩のあたりでばっさり断ち切られていた。毛先はひどく不揃いで、顔の右側と左側でまるで長さが違っていた。
「これは自分で切った。逃げるときに追手につかまれてしまってな」
仙蔵がこちらに来て、文次郎と肩や膝が触れ合うほど近いところに座った。墨の広がった文次郎の袴を一瞥し、身を乗り出して太もものあたりに落ちたままの筆を拾ってくれた。その拍子に黒髪がぱらぱらと音を立てて肩を滑ったけれど、文机についた文次郎の手の甲には掠りもしなかった。文次郎は礼を言うのも忘れ、髪の短くなった仙蔵をただ間近で見ていた。
「後れ毛は出るだろうが髷は結えそうだし、首とか背中が涼しくてなかなか悪くない」
「そうか」
輪郭に添えるように、文次郎は仙蔵の顔に向けて手を伸ばした。切られてなお艶やかな髪を、真正面からぎこちなく白く薄い耳にかけてやる。指の隙間をあっけなくすり抜けていくざんばら髪の感触に、絞り出すように「そうかよ」と繰り返した。膝の上で握り込んだこぶしが軋んだ音を立てた。
「仙蔵」
「なんだ」
「追手に髪をつかまれたのはどのへんだ。どこで髪を切った。敵地か」
頭の芯は冷えているのに、こめかみのあたりが痛いほどに脈打つのを感じた。文次郎のこぶしに自分の手を重ね、仙蔵は「わからん」と言った。
「逃げるのに必死だったものでな。火器も撒いてきたから、髪なんて消し炭も残ってないだろうよ」
少しおどけたような言い方で、しかし確かに釘を刺されたのがわかった。見知らぬ誰かに引っつかまれ、仙蔵の手で切り落とされたというあの長く美しい髪束には、どうあがいてももう触れる術はないということだった。
「…しかし快適になったのはいいが、切りっぱなしのままではさすがになあ」
後ろ髪に無造作に指を通しながら、仙蔵がぼやいた。こちらに何かをやらせようとしているとき特有の気配がした。こぶしになおも被せられている手は細っこいのに温かく、至近距離から見つめてくる鳶色の瞳はやさしかった。
「整えてくれるか、文次郎」
口元が歪むほどに奥歯を噛み締め、文次郎は頷いた。
「文次郎、明日から数日空けるぞ」
作法委員会の活動を終えて長屋に戻った仙蔵は、自室の障子を引きつつ中に向かって言った。
農家から分けてもらった米を挽いて首化粧用の白粉を作っていたところ、米袋の片隅に五色米が密やかに貼られているのに気付いた。合戦場での偵察の依頼で、正式な課題として学園の認可も下りているものだった。
文次郎は文机の前で正座をして、凄まじい速度でそろばんを弾いている。机の両端には各委員会の帳簿が砦のように積み上がっており、ところどころに会計委員会の後輩らが残した様々な筆跡のメモが挟まっている。一年は組の加藤団蔵が書いたのだろう野性的なメモだけは個別に重ねられていて、字に赤を入れてやったらしい文次郎の力強い朱墨の筆跡がみられた。
忙しそうな文次郎に、仙蔵は先の報告を繰り返すことはしなかった。戸を閉めた仙蔵が衝立で仕切られた奥に座り、鳥の子の在庫や状態を確認し始めたところで、そろばんの音が止んだ。
「任務か」
仙蔵が「ああ」と応える間に、衝立の向こうで短い髷が動き、正座を崩した文次郎が顔を覗かせた。
隈が消えなくなって久しい雌雄眼が、静かに仙蔵を見ている。小指の脇を墨に汚した右手が、すっとこちらに差し出された。
「あるよな、鋏」
髪を切らせてくれという文次郎の頼みを、仙蔵は受け入れた。
元々は仙蔵から頼んでいたのだが、四年のある夏の日、課題で下手を打ってざんばらになった仙蔵の髪を押し黙った文次郎が整えてくれたのを境に、文次郎のほうから言い出すようになった。
仙蔵がひとりで任務や実習に出向くとわかったときに、きまって切らせてくれと言う。最初のうちは遠慮がちだったくせに、回数を重ねるたびにどんどんふてぶてしくなってきて、今や有無を言わさず「あるよな、鋏」である。
単身で戦地に赴くことは増えてきているし、そのたびに散髪を許していてはそのうちおかっぱ頭になってしまいそうなものだが、仙蔵は文次郎の申し出を拒まない。大きな手に握られた鋏が、毎回せいぜい指の第一関節ほどの長さしか切らないことを知っている。仙蔵の髪に触れて切るという行いそのものに、文次郎は囚われているのだ。その理由も想像はつくから、仙蔵はやはり聞かなかった。
仙蔵の背後に座った文次郎は、谷になるよう折り目をつけた書き損じの紙をあぐらの中に置き、髷を解いた仙蔵の髪を手櫛でほぐしていく。
「ここのところ合同演習が続いていたからな。一人で行くのは久しぶりだ」
「そうだな」
「髪もけっこう伸びた気がする」
「…うん」
文次郎の手櫛が止まった。仙蔵は小さく息をつき、ごくわずかに首に力を込めた。
慈しむように梳いてきていたのと同じ手が、仙蔵の髪を背中のあたりでぐっとつかんだ。
荒っぽく引っ張ったりすることはなく、あくまでつかむだけ。しかし文次郎は元来とても感情的なたちであるうえ、抱いた負の感情のほとんどを動作に乗せて出力する。力も強い。仙蔵が断髪を余儀なくされたあの瞬間を思い出し、静かに背筋を冷やすくらいには。
しかしそれ以上に、潮江文次郎は心優しく繊細な男なのだ。だから今のところ、仙蔵は痛いともやめろとも言わず、文次郎のこの悪癖に耐えてやっている。
「文次郎」
苦しげにならないよう気をつけながら名を呼ぶと、背後の男はそれだけでぴくりと体を揺らし、髪をつかむ手を離した。どんな顔をしているのか見なくてもわかる。振り向かず、そっと首の緊張を解いた。
「お前の好きな長さで切るといい」
本心から言った仙蔵に、文次郎は応えなかった。ややあって、櫛で丁寧に梳かされた髪のずいぶん下のほうから、しゃき、とささやかで神経質な音がした。