文次郎の左目の赤みがいつまでも引かないことに仙蔵が気付いたのは、土井半助消息不明の一件が収束してから数日後、自室で書き物をする文次郎を何の気なしに眺めていたときのことだった。
竹林での交戦時に繰り出された天鬼の本気の目潰しは、文次郎の視力こそ奪わなかったが、眼球にそれなりの傷を残していったらしい。土井奪還に一刻を争うなか応急処置で洗眼はおこなわれたものの、その後自然治癒に任せるにはややいきすぎた負傷であるようだった。
「目の治りが遅いな。大丈夫なのか?」
仙蔵の指摘を受けた文次郎は、こちらを見ないまま「たいしたことねえよ」と言った。
「ちょっとチクッとすることがあるぐらいだ。生活に支障はない」
「痛みがあるのか。保健委員は何と言ってる?」
「……」
「文次郎?」
不自然な無言の間。文次郎に向けていた気遣わしげな目を、仙蔵はすっと細めた。剣呑の色を隠しもせず、「おい、文次郎」と再度低く呼びかける。
「まさかお前、診てもらってない、なんてことはあるまいな?」
「……生活に支障はないから」
都合の悪い部分だけを切り落として復唱した文次郎に、仙蔵は眉を吊り上げ「このアホ!」と一喝した。
文次郎の医務室嫌いは今に始まったことではないが、替えのきかない目の異常をほったらかしているとなると仙蔵とて黙っているわけにはいかない。武闘派の人間というのはどうしてこう、「耐えられる苦痛であるなら治療の必要なし」という発想に至るのだろう。何かあれば適切に医務室を頼る仙蔵には理解できない。怪我や病が気合いで治るなら保健委員も医者も要らんわという話である。
そもそもなぜ、文次郎の目はほったらかしのまま見逃されていたのだろうか。先の戦いで文次郎は脇腹にも軽傷を負っており、そちらを診てもらうため何度か医務室には通っていたはずなのに。新野先生や伊作は、文次郎の目のほうの経過観察はしなかったのだろうか。
仙蔵は訝しんだが、思い返してみれば、文次郎は下級生が当番の日ばかりを狙って医務室に足を運んでいた。
「消毒して包帯を替えてもらうだけだ。自分でもできるが、こういうときこそ保健委員会を頼らねばな。下級生の実践練習にもなる」
やせ我慢をしがちな文次郎が珍しくそんなことを言って出ていくので、仙蔵も油断していた。よい心構えだと感心すらおぼえていた。だがおそらく文次郎の真の狙いは、保健委員として未熟な下級生に脇腹を集中的に診させ、目の傷には気付かせないようにすることだったと思われる。それでもきちんと医務室で治療を受けた記録は残るし、仙蔵からの小言も回避できると踏んだのだろう。まんまと文次郎の思うつぼにはまってしまった仙蔵は、胡座の脚を片方立てつつ、腹から深く息をついた。
「…すぐに医務室に行け。ちゃんと目も診てもらうんだ。今日は伊作がいる」
「はっ、嫌だね。それで医務室通いが長引いてみろ、おちおち鍛練もできねえだろうが」
鼻で笑って開き直る鍛練馬鹿のなんと憎たらしいことか。仙蔵の皮膚の薄いこめかみにいよいよ青筋が浮いたが、ぶち切れるには至らなかった。
ここでムキになってはいけない。一度屁理屈をこね出した文次郎を真正面から言い負かすのは案外難しいのである。ここは学園一クールな男として、ペースに飲まれず、文次郎が本来無視できないはずの事柄を思い出させてやるのが早い。
「これでお前の片目がダメになったとして、一番苦しむのは誰なのだろうな」
「ああ?」
竹林で対峙した、恐ろしく腕の立つ記憶喪失の軍師。今はもとの心優しい恩師に戻ったが、最悪の形でかつての教え子たちに手を上げてしまった事実は消えない。多忙の間を縫って、贖罪のように六年生の怪我の治りを気にかけてくれる彼に、これ以上の負い目を感じさせることがあってはならない。
「誰って──」
「わからんのか? 文次郎」
小馬鹿にしたような顔で仙蔵を見ていた文次郎は、やがてバツが悪そうに視線を落とし、口を噤んだ。
そういえば土井が調子を尋ねてくるとき、文次郎はいつもその場にいなかった。だから仙蔵が代わりに順調に回復している旨伝えていたのだが、この様子だと文次郎が土井をわざと避けていた線が濃厚だ。
文次郎は筆を置くと、腹の傷を庇いながらゆっくりと立ち上がった。唇を引き結び、仙蔵と頑なに視線を合わせずに、戸口に向かっていく。どこに行くとも何をするとも言われなかったが、仙蔵はいずれもあえて問うことはせず、黙って文次郎の背中を見送った。
半刻ほどして長屋に戻ってきた文次郎は、片目を黒い眼帯で塞がれていた。出るときにはつけていた頭巾が外されていて、制服の胸元に無造作に突っ込んである。
「おかえり」
「うん」
「いっそう男前になったな」
「うるせえ」
仙蔵をあしらいながら障子を閉じようとした手が、一度空振った。遠近感がつかみづらいようだ。部屋に入ってくる足取りは普段と変わりないが、文次郎を見上げた仙蔵が向かって右側に移動してみると、すぐに「死角に入るな、見えん」と期待通りの反応が返ってきた。
「しっかり伊作に怒られてきたか?」
「あー怒られた怒られた。伏木蔵にもとばっちり食わせちまった。『患者の自己申告にとらわれず全身をよく観察しなきゃダメだろう!』って。……悪いことをした」
「そうか。伏木蔵はへこんでなかったか?」
「縮み上がってたが、ありゃ堪えてねえだろう。処置が終わったあとにこう、俺の死角に入り込んで遊んでたからなあ」
「…そうか」
向かいに座りながら片目を細めてにやっと笑んだ文次郎に、ついさっき同じことをした立花仙蔵十五歳はつとめて平常心で返した。
「で、状態はどうだって?」
「黒目にけっこう大きい傷がついてるらしい。一日一回目薬をして、こうして触らねえようにしてればじきに治るそうだ」
眼帯は文次郎の左目をぴったりと覆っているが、紐にいくらか余裕をもたせてあるようで、鼻の付け根にかぶるあたりはわずかに浮いている。あまり密着させるのもよくないのだろうかと思いながら仙蔵が見ていると、文次郎は浮き上がっている部分に指をかけ、当て布を少し浮かせて左目を見せてくれた。
まぶたが腫れているせいで、もともとくっきりしている二重まぶたがさらに幅広になっている。涙と目薬に濡れたまつげが束になって固まっていて、目を患った野良猫を思わせた。白目は相変わらず充血して痛々しい。
「おい、しまっておけ。せっかく治療してもらったんだから」
「ん。…いてて、しみる」
頷いた文次郎はぎゅっと目を閉じ、元通り眼帯を戻した。目頭側のすき間から、目薬で薄く色づいた涙がぽろりと一筋こぼれ落ちた。鼻をすすりながら親指でそれを拭う姿がまるで泣いているようで、仙蔵は少しそわそわした。
「まあとりあえず、片目がダメになるってことはなさそうだからよ」
「そうだな、よかった。まったく、さっさと診てもらっておけばよかったんだ」
土井先生が様子を見に来られたら今度は逃げずに対応しろよ、と続けようとした仙蔵だったが、それが言葉になることはなかった。懐から取り出した頭巾を手持ち無沙汰に畳みながら、文次郎が床を見たまま思いがけないことを言ったのだ。
「……お前が、俺の目をそんなに好いてるとは知らなかったから」
「ん?」
「その…野暮なこと言わせて悪かったな」
「…うん?」
うつむいた文次郎を眺め、仙蔵は二、三度瞬く。
話が見えない。文次郎は何を言っている? いったい何を詫びてきているのか。目の傷を私にも隠していたことか?
直近のやりとりから遡って回想するうち、ひとつ引っかかったことがあった。その部分をさらに詳細に思い起こしてみて、仙蔵は「ああ」と声を上げた。
「文次郎。お前の片目がダメになって一番苦しむだろうと言ったのは、土井先生のことだぞ」
「えっ」
文次郎が弾かれたように顔を上げた。まんまるく見開かれた右目が、ぽかんと仙蔵を見ている。せっかく畳んだ頭巾がぐしゃっと握りしめられ、すでに隠れている左目だけといわず顔のほとんどを覆い隠してしまう。
小刻みに震え出した文次郎の肩に呼応するように、仙蔵の肩も震えた。口元が勝手に緩んでいく。
「文次郎、お前──」
「やめろっ!」
「私があんな…ふふっ、いじらしくお前を心配すると思ったのか?」
「やめろっつってんのに! くそっ、最悪だ…」
「あははは!」
首筋まで赤くしてかぶりを振る文次郎に腹を抱えて笑いながら、仙蔵は渋々医務室に向かったときの文次郎の横顔を想った。こちらを見てにやりと意地悪く細められた右目を想った。わざわざ眼帯を持ち上げて見せてくれた、赤く潤んだ左目を想った。どうしようもなく胸が苦しくなって、笑いの合間にくぐもった嗚咽のような声が漏れた。
「養生しろよ、文次郎」
ひとしきり笑ったあと、目尻に滲んだ涙を払い、仙蔵は言った。
「せいぜい、私を苦しませてくれるなよ」
汗だくの赤面を未だ上げない、いとしい隻眼の男の狭い狭い視界に、ちゃんと入ってやりながら。