いちばん甘い

 もうじき子の刻である。夜が更けていくのを障子の向こうに聞きながら、床に就いた私は静かに目を閉じている。
 隣の布団には文次郎がいる。布団を敷くだけ敷いて夜の自主トレに出かけていくことも多い文次郎だが、今日は満足に動けないだろうからやめておくとのことである。夕食にと乱太郎たちが分けてくれた雑炊は、文次郎の腹をやや過剰に満たしたようだ。
 そうなる気はしていた。なんせあの雑炊、最終的にはかなりの量になっていたから。
「水を入れすぎじゃないか?」と私が言ったのを受けて冷や飯を鍋に足してくれた文次郎は、その後きり丸の「もっと具を残しといたらよかったかなぁ」で自分の夕食用に準備していた野菜や肉を足し、果てはしんべヱの「おいしい! ぼく、まだまだ食べられちゃう!」で、釜に少し残っていた飯まですっかり献上してしまったのだ。
 作りすぎたと言って持ってきてくれたのに、さらに増やしてどうするんだという話である。だが、文次郎が照れ隠しの仏頂面で鍋に何か追加するたび、「な、甘いだろう文次郎は」と私が目配せするたび、乱きりしんは顔を見合わせなんとも嬉しそうに笑むのだった。
 食後、空っぽの鍋を手に仲良く帰っていった三人を見送ってから、我々も後片付けをして自室に戻った。
 それから宿題を済ませ、風呂に入り、寝支度をして、今に至る。

 枕元の灯りを吹き消してからだいぶ時間が経っているが、隣からは未だ寝息は聞こえてこない。落ち着きなく寝返りを打つ衣擦れと、短く太いため息が間近で聞こえるばかり。気配がうるさいとはこのことだ。
 私はここで気付かないふりをするような薄情な男じゃない。目を開けて、体ごと文次郎のほうを向いた。文次郎はわざとらしく背中を向けている。
「なにを不貞腐れているんだ?」
「不貞腐れてないっ」
「おや、そうか? ならいいんだが」
 深追いせずにそれだけ言って、肘枕をついて様子を見る。私は常々、「押してダメなら引いてみろ」という言葉は対文次郎のためにあると思っている。
 文次郎はしばしの沈黙のあと、案の定ごろんとこちらに向き直った。じとっとした目で私を睨んでくるその顔は、どう見たって不貞腐れている。なんてわかりやすい奴なんだ。
 暗がりで半眼になっていても眼力のある目元に、前髪がかかりそうになっている。手を伸ばして払ってやると、文次郎は機嫌の悪い猫のようにぐううと唸り、鬱陶しそうにひとつ首を振った。
「不貞腐れてはないけど、言いたいことならある」
「ほう。言ってみろ」
 文次郎は眉間にシワを寄せて視線を落とした。
「……あれ。やめろって」
「あれ、とは?」
「俺が他人に甘いって、言いふらすなって言ってんだよ…」
 ぼそぼそとくぐもった声で苦情を入れられる。私が乱太郎たちに思い出話をしていたあの時間、こいつはよほどきまりが悪かったらしい。
 そう言われても、私は話したいのである。
 文次郎が、ひ弱だった私をしょっちゅう助けてくれていたことを。
 お前は火薬使いになれ、接近戦はおれに任せておけと、心の折れかけていた私に希望の光をもたらしてくれたことを。
 乱きりしんだけといわず、隙あらばいろんな者に話して聞かせてやりたいのである。
 というか、これまでにもすでに何度か、いろんな者に話している。それをそばにいる文次郎に直接聞かれたり、話したことがあとでバレたりするたびに、こうしてちくちく責められている。
 今日、しんべヱが文次郎のことを「立花先輩のお兄ちゃんみたい」と喩えたのは、私にとってちょっとした革命だった。おかげでこれからはもっと端的かつ臨場感をもって、文次郎の話ができるようになったというものだ。
「いや、話すが? これからも」
「なんでだよやめろ! 周りに示しがつかんだろうが!」
「普段あれだけギンギン厳しくやっているんだから、ちょっとぐらい甘いところが知れたって問題あるまい」
「問題ある! 甘いってことは隙があるってことだろ。俺はナメられるわけにはいかねえんだっ」
 深夜にはふさわしくない声量になってきたので、制止の意図を込めて肉の薄い頬をひと撫でした。文次郎はぴたりと口を閉じたが、これで黙るのは不本意なようで、ややあって「そうでないと」と少し抑えた声で続きを発した。
「そうでないと、忍者も会計委員長も務まらんだろう」
 一流忍者だか地獄の会計委員長だか知らないが、理想のためなら煙たがられてなんぼとでも言いたげである。
 呆れてものも言えんな、これは。
 文次郎の奴、少しは考えないのだろうか。
 会計委員会の後輩たちはひいひい言いながらもなぜお前に必死についてきてくれるのかとか、留三郎はなぜ何かと因縁をつけてお前に絡んでくるのかとか、きり丸はなぜいつもお前にバイトの手伝いを頼んでくるのかとか、先生方や食堂のおばちゃんはなぜ──ああもうキリがない、以下略。
 厳格な孤高の人間をいくら目指したところで、潮江文次郎という男はどうあっても人を惹きつける。文次郎と関わった者はだいたい初めは「怖い」「暑苦しい」「厳しすぎる」と口々に言うが、そのうちみな示し合わせたかのように、「優しい」「頼もしい」「面倒見がいい」と意見を翻す。(留三郎の発する憎まれ口に至っては、本人は絶対に認めないだろうがほぼすべて褒め言葉のようなものである)
 それで文次郎がナメられるようになるかというと、もちろんそんなことはない。
 むしろ、その逆だ。目上の者には可愛がられ、同級生には親しまれ、下級生には尊敬されるし慕われる。当然の好循環なのに、輪の中心の文次郎だけが何もわかっていない。とにかく馬鹿みたいに頭が固いから、人徳をもって己の目的を果たすという発想がないのである。
 自身の優しさも頼もしさも面倒見のよさも、文次郎はまとめて「甘さ」と見なす。文次郎は、甘い自分を良しとしない。だが甘いところを隠すのはとても下手だから、ある程度文次郎と関われば誰だって、気難しいこの男の内側に容易に気付けてしまう。

 つまり実際のところ、「潮江文次郎は他人に甘い」などと、私がわざわざ言い広めるまでもないということだ。
 文次郎のやわらかな一面が、知らないうちに知れていく。私はそれがおもしろくない。
 だからせめて、先回りをしたい。誰かが「潮江文次郎は他人に甘い」と気付くとき、枕詞に「立花仙蔵の言っていたとおり」がつくように。
 土と埃の匂いのする茜色の思い出を、惜しげなく皆に見せてやるのだ。人目につかないところで私を甘やかしたあの日の文次郎の気遣いや思惑を、全部無下にしてでも。

「重症かもしれんな」
「なんだと」
「お前に言ったんじゃないさ」
 はあ? と怪訝な顔で辺りを見回す文次郎に、布団の境界線を越えて身を寄せた。一度瞬いた文次郎が再びこちらに視線を定めようとするのをかわして、懐にもぐり込む。眼前にある鎖骨に短く口付けると、小さく息を飲む音がした。
「…おい。お前また、有耶無耶にしようとしてるだろ」
「さすがに気付くようになったか」
「ん、いッ…やめろっバカタレ!」
 続けて噛んでやった首筋を庇いながら文次郎は怒るけれど、私を布団から追い出したりはしない。私は今も力では文次郎にまるで及ばないから、強めに肩でも押せばたやすく突き放せるだろうに、こいつはいつもそうしない。形ばかりの抵抗をしながら、やめろやめろと訴えるだけだ。
「なんでもかんでもぺらぺらしゃべりやがって!」
「すまないな。今まで言ってなかったが、嬉しかったことは人に共有したいんだ、私は」
 しっかり目を見てそう言ってやると、文次郎はぐっと唇を噛んで、唯一の抵抗手段だった口撃も止めてしまった。仕掛けておいてなんだが、お前本当に、私のこの手のやつに弱すぎだろう。
「……お前、ずるいぞ」
「何がずるいんだ」
「『お前が嫌がるのが楽しくてついな』とか言うとこじゃねえのか、今のは」
「そんな心にもないことは言えないな」
「どうだか」
 少し息を乱した文次郎がつれなく呟く。
「楽しんでるだろ、いつも」
 挙句の果てにそんなことを言う。なんの確証もないくせに。
 文次郎、お前という奴は、やっぱり何もわかっていないな。
 お前をからかって遊ぶのもそりゃあやぶさかじゃないが、私が今言わずに胸に秘めておいたのは、そんな浅い性癖なんかじゃない。みっともなくて大人げない、変に拗れた独占欲だ。お前に知れるのはさすがに居た堪れないから言わなかったんだ。
 というか、「嬉しかったから共有したい」と言ったのも、れっきとした本音だぞ。お前に言えるほうの、ちゃんとした本音だ。お前まさか、そっちを心にもないことだと思ってないか? お前を黙らせるためだけに口走った出まかせだと思っているんじゃあるまいな?
「文次郎、」
「なんだよ」
 枕に黒髪を散らした文次郎が、気だるげにこちらを仰ぐ。気付けば文次郎は仰向けに転がっていて、私はその上にぴったり乗っかっている。体重を逃がそうと枕のあたりに手をついた拍子に、肩を滑った髪が音もなく文次郎の頭の脇に落ちた。少し首を傾けてそれを見やった文次郎の流し目に、呼びかけておいてしばし言葉を忘れた。
「……感謝しているんだぞ、今も」
 ややあってそう伝えると、文次郎は大きな目を数度瞬かせ、やがて深いため息をついた。
「急に素直になるんじゃねえよ」
 障子越しのやわらかな月明かりが、文次郎の表情や顔色をつぶさに私に伝えてくる。
 この先、私の必死の先回りが間に合わず、文次郎の甘さがひとりでに知れていってしまったとしても。この顔や声は、ずっと私しか知り得ない。
 ふくらはぎに引っかかっている掛け布団を、足元に向けて蹴飛ばした。行儀が悪いが、構わない。こういう私を知るのもまた、文次郎だけだから。
「…するのか」
「もう腹も落ち着いただろう。無理な体勢は取らせんから安心しろ」
「バッ──」
 悪態を遮って、私は文次郎の唇を塞いだ。文次郎は拒まなかった。