お前の髪が好きだと、仙蔵に言われたことがある。
言い間違いじゃない。仙蔵に、俺が、そう言われた。
三年生の頃だった。当時俺は髪を伸ばしていて、髷を結っても肩につくくらいには長さがあった。
実技の授業の一環で、隠密行動の演習があった。先生の決めた二人一組で行動し、裏山を出発して学園まで帰ってくるという単純なものだ。
ただし隠密行動だから、林道は通ってはいけない。木々を飛び移ったり茂みに潜んだりしながら進む必要があるわけだが、あちこちに鈴とか鳴子が仕掛けてあって、それらを鳴らしちまうごとに減点されていく採点方式だった。
その演習で、俺は仙蔵とは別の級友とペアになった。家業の関係で退学していった奴で、今はもう学園にはいない。
とはいえ、そいつも三年の終わりまではい組にいて、忍びのたまごとして一所懸命に経験を積んでいたから、俺たちの中でとくべつ能力が劣っているということは断じてなかった。
大きく減点を食らったのは俺のせいだった。罠の有無を確かめ合いながら慎重に進んでいたのに、木の上から地面に降り立とうとしたとき、後ろ髪が枝に引っ掛かった。飛び降りると同時に髪が数本ぶちぶち持っていかれて、驚いた俺は思わず「いてっ!」と大声を上げてしまったのだ。
足元に見えていた鳴子は鳴らさずに済んだが、それよりもっとでかい声を発してしまったんだから減点はやむなしだった。
学園に戻るなり先生に散々な成績を突きつけられ、俺はそりゃもう落ち込んだ。そつなく行動できていたペアの奴が、「そういうこともあるって」とこっそり励ましてくれたのが余計に堪えた。
項垂れたまま長屋に帰り着き、自室の戸を引いたら、先に戻っていた仙蔵が「お疲れ」と言った。仙蔵の髪は当時から俺よりずっと長く、特に手入れもしてないようなのに、いつでもさらさらと引っかかりなく仙蔵の薄い肩や背に流れていた。
「おまえが実技で残されるのは珍しいな。あいつがやらかしたか?」
ペアの奴のことを言った仙蔵に、俺は正直に違うと言った。かくかくしかじか、あらましを話すと、仙蔵は「それは災難だったな」と弓なりの眉をちょっと下げた。
「まあ、ひとまず風呂にでも行ってきたらどうだ? 今ならきっときれいな湯だぞ」
「おまえは?」
「わたしは今日先生に言われたことをまとめてから行くよ。やり始めてしまったから、キリのいいところまで終わらせたい」
仙蔵は俺のようなヘマをしなかったから早くに部屋に戻れていたはずで、先生から注意された点もほとんどなかったに違いない。
箪笥からさっと着替えと手拭いを取って、俺は部屋を出た。仙蔵の顔は見られなかったが、蚊の鳴くような声でなんとか「ありがとう」とは言えた。
たまたま人が途切れるタイミングだったようで、脱衣所にも大浴場にも、俺以外の生徒はいなかった。全身洗い清め、湯船の中でじっとしていると、嫌でも演習のことを思い出した。誰もいないのをいいことに、俺はちょっと泣いた。ちょうど、実技でも教科でもつまずくことが増えていた頃で、これがスランプってやつなのかなと、俺は一丁前に思い悩んでいたのだ。
思いついた対策はすぐにでも実行に移したかった。だから俺は風呂を出ると、部屋に戻る前に井戸端に寄った。
洗いざらしの髪は、夕暮れどきの風に吹かれて冷えていた。左肩のあたりでひとまとめにして、一息に苦無を入れた。
ざんばら髪の俺を見て数秒呆けた仙蔵は、弾かれたように立ち上がって、戸口に立った俺に駆け寄ってきた。
「おい。なんだこれ、切ったのか? 自分で?」
「うん」
「どうして」
掠れた声で、責めるような調子で問われて、俺は少し怯んだ。風呂に行く前、さりげない優しさを見せてくれた仙蔵とは別人のようだった。「どうして」って、今日の流れから考えてそれがわからないお前じゃないだろうと思った。
「だってもう、あんな失敗したくねえから」
「…だからって」
真っ白に強張った仙蔵の顔が、みるみる歪んで赤くなっていった。癇癪を起こして泣く前の兆候だとわかったが、泣く理由はわからなかった。
「どうして」はこっちのセリフだよと思った直後、両肩を強くつかまれた。後ろ手に閉めたばかりの障子に、背中がぶつかった。思わずついた手が障子紙のところにかかってしまって、指先が紙を突き抜けた。
それで俺も一気に頭に血が上った。反射で頭突きしそうになったのをぐっと抑えて、仙蔵の制服の胸倉をつかんだ。
「何しやがる!」
怒鳴った俺を仙蔵はすごい形相で睨み返していたが、やがて我に返ったように、俺の肩をつかむ手を緩めた。赤く潤んだ目を伏せて、「ごめん」と消え入りそうな声で詫びてくるもんだから、俺も居た堪れなくなって仙蔵の胸倉を離した。
「おまえが…」
そこで、仙蔵はきゅっと唇を結んでうつむいた。肩に流れる長い髪をそっと背に払ってから、また俺を見た。傷付いたような顔をしていた。
「……おまえが、髪を伸ばしてるのが好きだったんだ、わたしは」
「え……?」
「邪魔にならない扱い方なんて、わたしがいくらでも教えてやったのに」
細っこい指が短くなった髪を梳くのを、今度は俺が呆然と見る番だった。
伸ばした髪の手入れをしない点では俺も仙蔵も同じだったが、そもそもの髪質が違うから、その美しさは雲泥の差だった。
誰にも、本人にも言ったことはなかったが、俺だって仙蔵の髪が好きだった。
でも、べつにそこに意外性はないだろう。仮に誰かにこのことを打ち明けたとしても、十人いれば十人が「わかるよ」と同意してくれたはずだ。仙蔵の髪は綺麗だから。
仙蔵の褒めた俺の髪には、なんていうか、取り立てて好かれる要素があるようには思えなかった。切ったことを泣いて咎められるほどの魅力が、まとめて捨ててきたあの髪のいったいどこにあったというのか。俺には見当もつかなかった。
「取り乱してすまなかった、文次郎。髪なんてまた伸びるのにな」
「いや、もう伸ばさねえけど……」
「は? おまえっ…!」
涙に濡れた仙蔵のまなじりが再び吊り上がり、梳いていた俺の髪をぎゅっと引っ張った。頭皮に伝わる引き攣れるような感覚に昼間の失態が蘇ってきて、俺もまた鼻の奥が嫌な感じに痛み出した。
「いたっ、おい、引っ張んなって」
「うるさい! このわからず屋!」
「いてえってば! やめろよっ!」
それからは結局二人泣きわめきながらの大喧嘩になっちまって、騒ぎを聞きつけたい組の面々だけでなく、ろ組の長次と小平太まで野次馬に来るようなちょっとした騒ぎになった。
最終的に駆けつけた厚着先生に雷を落とされて喧嘩両成敗となり、ざんばらだった俺の髪は、仙蔵たっての申し出で、その日のうちに綺麗に切り揃えられたのだった。
今思えば、仙蔵をはじめ、髪が長くても演習をわけなくこなせた生徒はたくさんいたわけで。
自分の身のこなしを省みることもなく、真っ先に髪を切ることを解決策にしたかつての俺は、潔いといったら聞こえはいいが、なんとも短絡的だったもんだ。
あの日から六年生になった今日に至るまで、俺は自分で散髪をしていない。髷の先が首に届く頃合いで、いつも仙蔵が切っちまう。
「髪が伸びてきたな、文次郎」
仙蔵がそう言って鋏と櫛を出してくるたび、俺はあの日を思い出す。
むっと不機嫌に押し黙った仙蔵が、泣き腫らした目のまま、時間をかけてざんばら髪を整えてくれたあの夜を。
「『仙蔵みたいに伸ばしてみようかな』って、言ったくせに」
拗ねたような声でこぼされた、癇癪の本当の理由を。
「……なんだ、伸ばした理由も忘れてたのか。薄情者め」
「もういいさ。約束なんて大それたものでもなかったしな」
「そもそもなあ、覚えてないにしても、切ってしまう前にまずわたしに一言言ったらどうなんだ」
「こんな雑に切られてしまうくらいなら、わたしが最初からきれいに切ってやりたかったよ」──
つらつら文句を並べてきた、鋏の音に混じるくぐもった声を。
それで、思う。
あの日の俺が、仙蔵に相談のひとつもせず、迷いなく髪を切ってしまえる馬鹿でよかったと。
「どうだ、もう少し短くしておくか?」
「…おう、頼む」
「なんだ文次郎、何をニヤニヤしてる?」
「なんでもねえよ」
「坊主にしてやろうか」
「やめんか!」
仙蔵には悪いが、いつもきまって、そう思ってしまうんだ。