ドサッ。
「あっ」
消灯時間を過ぎた病室、仰向けに寝転がって翳した左手を眺めていた轟は、突然静寂を破った物音と声にふと我に返った。
カーテンを仕切った隣のベッドからは、ステインとの死闘で疲労困憊である緑谷の寝息が規則正しく聞こえてくる。今さっきの声は緑谷のものではなかったし、物音も足元のほうで上がったようだった。耳を澄ますと、緑谷の寝息に混じって「明日にするか……」という独り言と小さなため息が聞こえた。足元、つまり向かいのベッドで寝ているはずの飯田の声だった。
轟は緑谷を起こさぬようそっとベッドから降りると、自分のスペースを出て飯田のベッドを囲うカーテンの前に立った。飯田、と短く呼び掛けると、すぐに抑えた声音で「……轟くん?」と返答があった。
「すまない、起こしてしまったか」
「もともと起きてた。どうした? 何の音だ?」
「いや、気にしないでくれ。ちょっとものを落としてしまっただけで」
「気になる。入るぞ」
カーテンに隙間を作って、轟は飯田のスペースに入った。月明かりの照らすベッドの上、足を投げ出して座った飯田が少し驚いたように轟を見た。
ステインに真っ向から殺意を向けられ、ずたずたにされた両腕。神経を傷付けられた左腕は、後遺症が残るという。移植手術を受ければ完治する見込みもあるらしいが、飯田は断った。プロになるまではその不自由さを自分の戒めにするのだという。本当に律儀な奴だ、と飯田と医者のやりとりを間近で見ていた轟は思ったものだった。
右腕は左腕ほど深刻な状態ではないものの、こちらもひどく負傷したことには違いない。そういうわけで飯田は左右の腕を三角巾で吊られた不自由極まりない有様だったはずなのだが、今三角巾の中にあるのは左腕だけだった。右腕はシーツの上に下ろされている。轟の目の前で二度刃物を突き立てられた右腕。目を逸らすように、轟は床に視線を落とした。
「で、何を落としたんだ?」
「……蒸しタオル、なんだが」
「蒸しタオル」
「排気筒を手入れしておきたくてな。消灯前に頼んで持ってきてもらっていたんだ。だが、それから少しうとうとしてしまってだな……今になって拭こうとしたら、袋ごと落としてしまった」
「どのへんだ?」
「見当たらないから、おそらくベッドの下に入り込んで……っていやいや! いいんだ轟くん! 明日看護師さんに拾ってもらうか、うぐっ!?」
いつもの調子で手を素早く動かそうとしたのか、痛みに悶える飯田の呻きを聞きながら、屈んだ轟はベッドの下を覗き込む。すると、口を結んだビニール袋に収まったままのタオルがすぐに見つかった。ベッドの上からろくに動けない飯田からは死角になる位置だった。仮に見つけられたとしても、今の飯田にはこれを拾えないだろう。
轟も左腕を負傷しているので、無傷の右手をベッドの下に突っ込んでタオルを拾い上げた。袋のおかげで汚れてはいないが、すっかり冷えてしまっている。
タオルを持って視線を上げると、ベッドに座る飯田のふくらはぎが眼前にあった。鍛えられた筋肉に規則正しく並んだ、六つの排気筒。これを唸らせ白煙を噴かし、韋駄天のごとき俊足で駆ける飯田を轟は何度も見てきた。膝から下がまさしくエンジンそのもので、酷使すればふくらはぎが燃えるように熱くなることはつい先日知った。ヒーロースーツ越しだったとはいえ、轟の発した氷で凍てつかせても凍傷ひとつ残らないほどだった。今はさすがに燃えるほどではないが、オーバーワークのせいか熱っぽく腫れたようになっている。
そこで轟は初めて、屈んだまま飯田のふくらはぎに手を置いていたことに気付いた。顔を上げれば、戸惑うようにばちばち瞬く四角いまなこと目が合った。間近で見ると迫力がある。思わず「お」と面食らった轟に、飯田が慌てたように声をかけた。
「轟くん、大丈夫か?」
「悪ぃ、なんでもねえ」
ゆっくりと立ち上がり、轟は手にした元蒸しタオルを掲げてみせた。
「あったぞ、これ」
「む、やはり下だったか……! ありがとう。ごめん、君も怪我をしてるのに」
「どうってことねえよ、俺のは。ていうか、これもう冷めてるぞ。拭くなら新しいのもらったらどうだ」
ナースコール押してやるから、とベッド脇に目をやった轟を、飯田は右手をわずか持ち上げて制した。
「……いいんだ。せっかく君が拾ってくれたんだから、それで拭く」
「……別に、俺に気ぃ遣うことないぞ」
「遣っていないさ。今ナースコールで看護師さんを呼んだら、緑谷くんが起きてしまうかもしれないし」
「それもそうか。おまえがいいならいいけど」
「ああ、大丈夫」
轟が傷付いた両腕に向けた視線すら遮るように、飯田は言った。少し強い声音だった。本人も自覚したのか、唇が一度真一文字に引き結ばれる。鼻から大きく息を吸って、唇が再び開いたとき、そこからぽつりと「僕は」と掠れた音が発せられたのを轟は確かに聞いた。
「……俺は未熟だ。今回君や緑谷くん……ヒーロー殺しを見ていてよくわかった。君が言ってくれた通り、これからはなりたいものを見失わずにいたい。もっと強くなりたい」
眼鏡の下、飯田の瞳が真っ直ぐに轟を見上げる。轟はほんのわずか口の端を緩めた。
(もうだいぶ強えよ、おまえは)
兄を再起不能にした敵の言葉を、飯田は最後には糧として受け止めた。轟や緑谷のおかげでそうできたと彼は言うが、自身の弱さを認めて前を向くだけのメンタルが彼に元々備わっていたからこそだと轟は思う。
それに、度胸のほうの強さはほぼ申し分ない。私情にとらわれ暴走していたとはいえ、ピンポイントで向けられた殺意に飯田が怯むことは一度たりともなかったのだから。
「……でも、そうなりたいと願うだけでは強くなれない。だから今すぐにでもトレーニングをしたい! だが俺はこのざまで……だからせめて! 不自由でもいい! 自分の手で! エンジンのメンテナンスをだな……」
ううん、と緑谷が唸る声がした。慌てて口元を押さえようとしてまた悶絶している飯田に、踵を向けてやりかけて──轟はその場に留まった。
「頑張れよってほっときてえとこだけど……メンテナンスっつうことなら」
飯田の体の脇に無造作に置いていたタオル入り袋を取り、口の結び目をほどきながらベッドの横に屈む。拾い上げたときと同じ目線になり、目と鼻の先に飯田のふくらはぎがくる。計十二個の排気筒を引っ提げた高性能エンジン。自身も両親も個性が見た目に反映していない轟にとっては物珍しくもあるが、それでも脚には変わりない。放っておけば冷えていく鉄とは違って、何かと手間をかけてやる必要があるのだ、人間の体というものは。
轟はよく覚えていた。自分に煮え湯を被せた母の手が、そうするより前に傷付いた自分にしてくれていたことを。
「冷却が必要だろ、飯田」
使い慣れた右手に冷気をまとわせた。凍らせず、かつ一定の冷たさは続くように。もう息をするように調整できる。母が家からいなくなってからは、ずっと自分で自分の身に施してきた。
呆けたように轟を見ていた飯田は、やがて唇を噛んだ。嬉しさと不甲斐なさがぐちゃぐちゃに混じり合って、後者が優勢になったような顔だった。
「轟く、ん」
ぎり、と飯田の奥歯が鳴るのが聞こえる。
「僕はっ、強く──」
「わかってる。だから、拭くのは自分でやれよ。やりにくくても、一番うまくできるのはお前だろ」
轟は袋に二枚入っていた濡れタオルを取り出し、一枚を飯田に差し出した。
「拭いてない方は、俺が冷やしといてやるって話だよ」
顔を背けて大きく鼻をすすった飯田は、それでも小さく「……うん」と頷いて、右手で不器用にタオルを受け取った。病院着の裾をまくるのに苦戦する彼を尻目に、轟は冷やした右手をもう一枚のタオルで包む。そして、しばらくしてから露出した飯田の左のふくらはぎに、氷嚢代わりの右手をそっと置いた。
じわりと熱い。ステインとの戦いで凍結させた際は感じ入る余裕もなかったが、それは確かに、自分の手を通して伝わってくる飯田の熱だった。四肢にあてがわれたひんやり冷たい母の手と、自分にあてがった自分の手が順に思い浮かんで、すぐ消えた。息が震えた。胸が焼けつくようだった。
そうだ、とここで轟は思い出した。
熱さに関しては、まだ自分の熱すらうまくコントロールできないのだった、と。
飯田はというと、どうやら眼鏡を外していたらしく、しきりにしゃくり上げながらようやく右足を拭き始めていた。やりにくそうだが、さすが手つきがこなれている。やっぱだいぶ強えよおまえ、と、轟は穏やかに呟いた。
(もっと強くなりてえくせに、よく泣くもんだよな)
二言目を言葉にすれば、こちらを見た飯田にもさすがに何か言われそうだ。
だからそれはもてあます熱に混ぜて、胸のうちにしまっておいた。