馴染みの小さな本屋に久しぶりに足を運んだら、見慣れない店員がいた。
店主の白髪のじいさんしかいない店のはずだったが、今レジカウンターの中にいるのは黒髪の男だ。バイトでも雇ったのだろうか。
座った椅子の背にもたれかかり、ブーツを履いた足をカウンターの上にどっかり投げ出して、売り物なのか私物なのかわからない本を無表情に読んでいる。私が開け放たれた店のドアをくぐって店内に入ると、店員はこちらをちらりとも見ないまま、短く「らっしゃい」とだけ言った。接客態度がまるでなっていない。気にはなるが、とりあえず目当ての本を探すことにする。
今日は最近話題の小説を探しにこの店に来たのだが、狭い店をぐるっと回ってみても一向に見つからない。平積みじゃあなくて本棚に並んでいるのだろうかと思いながら二周目に入ろうとしたところ、ぱたんと本の閉じる音が背後で聞こえた。
「なんか探してんの?」
振り向くと、閉じた本を両手で挟むようにして持ったまま、店員がこちらを見上げていた。
真正面から見てみると、本屋の店員にしては男はやや血の気が多そうである。しかし、印象的なのはその目だった。髪同様瞳も黒いのだが、その黒さが尋常じゃあない。白目に囲まれて眼窩の中に存在していなければ、ぽっかり空いた深い穴と見間違いそうなくらいに黒く、宿る光もない。派手な風貌の中でその両目だけが異質といえるが、不思議と浮いてはいなかった。
しばし無言で店員の目を見ていたら、彼は不審そうに眉根を寄せた。瞳に宿るはずだった分を補って有り余る、生気に満ちた表情。なんだか圧倒されて固まっていると、店員はますます不可解そうに眉間のしわを深くして、私の顔を見つめてきた。
「……どっかで会ったことあったか? おっさん」
「あ、いや……ちょっと来ないうちに、働き手が増えたんだなと思ってね」
「ああ、増えたも何も、今はオレが店主だぜ」
「君が!?」
思いもしない返答に、思わず力いっぱい聞き返してしまう。こんな若くて、およそ本には精通していなそうな今どきの青年が、店主だって? 本屋の?
「前はじいさんが店主をやってたと思うんだけれど。彼はどこか悪かったのかい?」
疑問をそのまま口にするほど無礼ではない。とりあえず取っ掛かりとして前の店主の話題を出してみると、青年は──現店主はひょうひょうとした声で「いんや? ピンピンしてるよ」と即答した。
「ただ年も年だし、体が動くうちに隠居することにしたらしい。確かによぉ、あんまりヨボヨボになっちまったら、余生もロクに楽しめねーもんな。賢明な判断だと思うねオレは」
無愛想なのかと思いきや、若い店主は案外よくしゃべる。くるくる変わる表情といい、明るい男のようだ。まだ若いし、こう言ってはなんだが、こんな小さな本屋に引きこもって生計を立てるのには向いてないのではと思えてしまう。
「それで、君が継いだと」
「うん、そう」
「ということは君は……?」
「あのじいさんの息子だけど」
「息子……」
じいさんは確か七十歳はゆうに越していた。目の前の男は二十歳そこそこといったところだろうか。ずいぶん遅い子どもだ。そもそも、彼に子どもがいたという話も聞いたことがなかった。またしてもまじまじと顔を見てしまう私に、店主は小さく首を傾げてみせ、ニヤリとしながら「似てねえだろ?」と言った。笑うとますます似ていない。
「……そんで、あんた探しモンは? なんせ小せえ本屋だからよぉ〜、専門書とかあんまマイナーなやつは置いてねーけど」
「ああ、そうそう。小説を探してるんだ。最近話題になっているものだから、置いてくれているとは思うんだが……」
カウンターから足を下ろして立ち上がろうとした彼にそう言うと、私が本の情報を書いてきたメモ用紙を取り出す前に、彼は「それって」と言って、傍らに置こうとしていた本の表紙を私に見せた。まさしく、私が探していた小説の単行本だった。
「これのこと?」
「そう、それだ! 気になっていてね、どこに置いてるか教えてくれるかい?」
「まだ店頭には置いてない。全部ここにあるんだ」
そう言いながら、彼はカウンターの内側にあったダンボール箱を開ける。中には探していた本がぎっしりと詰まっていた。
「そんなところに。一冊買おう」
「あいよ」
カウンターの上をきちんと小さなほうきで払ってから、店主は真新しい本を箱から出してくる。代金をトレイに置きながら、私は箱に残った大量の本を見た。
「それじゃあ売れないだろう、せっかくの新刊なのに」
「いやあ、発注して届いたはいいんだけどよぉ〜、一冊失敬して読み始めてみたらあんまりおもしろくなくてさ。おもしろくないのわかってんのに、すすんで売り出す気にはならねーっつーか」
「……おもしろくないのかい? この本」
「あ、わりい、言っちゃった。えっと……要る?」
カバーをかけた本と私を交互に見て、彼は小さく首をすくめる。商売下手にもほどがある。私は苦笑して、彼から本を受け取った。クラフト紙でできた簡素なブックカバーには、無駄な折り筋やたるみひとつない。見かけによらず、器用な男であるらしい。
「きみの感想はさておき、とりあえず店には並べたほうがいいんじゃあないかな。商売なんだから」
「ご助言どーも。でもまあ、この店がつぶれることはねーからよ。大丈夫だよ、おっさん」
「そうかい? ……パトロンでもついたとか?」
「お、鋭いね〜。そんなとこ」
いまいち真意の読み取れない顔でやはりひょうひょうと私に応えつつ、店主はカウンターに足を乗せ、初めの体勢に戻った。読みかけの本に伸ばされた指先や爪は、よく見ればくすんだように少し黒ずんでいる。機械油か何かだろうか。活発そうな男だから、バイクでもいじるのかもしれない。
私が店を出るとき、店主は来たときと同じく無表情に手元の本を読みながら、平坦な声音で「まいどー」と言った。彼の手にある、私が買ったのと同じ本は、もうずいぶん残りのページが少なかった。おもしろくなかったと言いつつ、読み切るつもりではあるらしい。妙につかみどころがなく、お世辞にも接客態度はよくないが、なんだか憎めない青年だと思った。
「──とはいえ、あんまり閑古鳥鳴かせたら、さすがに怒られちまうかなあ……アイツに」
店の前で聞こえた彼のひとり言に、私は思わず小さく笑った。なるべく先代に怒られないよう、頑張るんだよ、若者よ。