黒におやすみ - 1/3

 今年で二十年の区切りを迎えるミスタのこれまでの人生において、熱が出るほどの風邪を引いたのは今回が二度目である。
 最初は確か、九歳の初夏だった。放課後同級生からのサッカーの誘いを「今日はいいや」と断ったミスタは、帰り道に道草を食って沢に立ち寄り、手頃な岩に座ってのんびり川の流れを眺めていた。自然を感じられる場所にひとり身を置き、何をするでもない時間を過ごすことが、友達とサッカーをするのと同じくらい好きな子どもだった。
 次第に日が暮れ始め、そろそろ帰るかと立ち上がろうとした拍子に、ミスタは足を滑らせて川に落ちた。
 足のつく深さで、流れも穏やかだったため溺れることはなかったが、頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れになってしまった。学校帰りでタオルなどは持ち合わせておらず、ポケットの中のくしゃくしゃのハンカチも服ごと濡れてまるで使い物にならなかった。ミスタは仕方なく岩場で服を絞って、何度もくしゃみをしながら帰路についた。
 自宅の玄関でぽたぽた水滴を落としながら事情を説明したミスタに、母親は「周りに人もいなかったんでしょ。溺れたら助かってなかったかも。さすがラッキーボーイだよ、グイード」と朗らかに言った。
 ふかふかのタオルでやや荒っぽく水気を拭われながら、ミスタは「うん」と返事をした。もちろん川に落ちてしまった瞬間はヤバいと思ったし、夏とはいえびしょ濡れで沢から家まで徒歩で帰るのはなかなかつらいものがあったが、こうして無事に帰ってこられただけで丸もうけというものだ。
 やっぱりオレってツイてるのかも。
 かねてよりそうなのではないかと思っていた事柄がまたひとつ確信に近付き、ミスタは上機嫌だった。心なしかその日の夕飯はひときわ美味かった。そしてその翌日、幼いラッキーボーイは人生初の熱風邪にうなされることになったのだった。

 それから約十年の長い空白期間を経て、ミスタはこのたびまた熱風邪を患ってしまった。原因はまたしても、水場に落ちたことだった。
 今回は呑気に水面を眺めていたわけではなく、仕事中の事故だ。ゴンドリエーレに扮した敵組織の男とゴンドラ上でやりあったのだが、ピストルズによって急所に銃弾を蹴り込まれた相手が、最後の力を振り絞ってミスタに正面からタックルを見舞ってきたのだ。急に重心の偏ったゴンドラは大きく揺れ、ミスタは敵に巻き込まれる形で、ヴェネツィアの運河に転落した。
 まだ銃弾を持っていたピストルズがすぐに動いて、ダメ押しで二発、敵に蹴り込んだ。完璧な縦列で飛んだ弾は、敵のこめかみにひとつだけ穴をあけて立て続けにめりこんだ。「でかしたぜ」とミスタは口角をつり上げ、今度こそ事切れた敵を踏み台にしてゴンドラ上に戻った。
 地元の人間でも使わないような寂れた小運河に誘い込まれていたのが幸いして、一般市民にショッキングな光景を目撃させてしまう事態は避けられた。加えてピストルズがサイレンサーつきの銃の役割を果たしてくれたので、かつてのマリーナ・グランデでの一件のように、銃声を聞きつけられて騒ぎが生じることもなかった。
 水面に浮かんだ死体をオールで強めにつつき、もうぴくりとも動かないことを確認すると、ミスタは特に死体を沈めるでもなく、一人乗りになったゴンドラでオールを漕いでその場をあとにした。
 今回は拳銃を使っていない。だから敵にめり込んだ銃弾に線条痕は残っていないし、逆にその事実から万一ミスタが特定されたところで、ギャング同士の殺った殺られたにすすんで深入りする者は警官含めまずいない。ことなかれ主義の地元警察にはつくづく頭が下がる。
 陸に上がり、できるだけ人目を避けながら、ミスタはレンタルして駐めておいたバイクのもとへ足早に向かった。シートに跨り、濡れた帽子を絞ってボトムスの腰に突っ込んだ。
 エンジンをかけて走り出し、スピードを上げていくにつれ、風を受けたずぶ濡れの服はどんどん冷えた。スポーツウェアのような速乾の生地ではなく、柔らかなカシミヤのセーターとタイトなゼブラ皮のパンツだ。体にぴったり張り付いたそれらに体温を奪われて、夏が近いというのに寒くて震えがくるくらいだった。
 何度もくしゃみが出てきたあたりで、よくないデジャヴを感じた。ハンドルから片手ずつ離して腕をまくり、しきりに髪をかき上げて水気を飛ばしながら、ミスタはホテルまでの道を急いだ。
 部屋に着いてからすぐに濡れた服を脱ぎ、熱めのシャワーを浴びて一息ついたのだが、どうもその時点ですでに手遅れだったらしい。寝不足でもないのに目がしょぼしょぼして、電話でジョルノに任務完了の報告を行っている間も、背中から首筋にかけて這い上がってくるような悪寒があった。
「……あんた、本当に無事なんですか?」
 物音を立てずにベッドに潜り込み、横向きに縮こまった幹部としてあるまじき体勢で報告を続けていたら、何かを察知したらしいジョルノに低い声で突っ込まれてしまった。経験上、こうなると隠し通すのはほぼ不可能だ。ミスタは観念して、電話を耳に当てたままごろりと仰向けになった。
「聞いてます? 怪我をしてるんじゃあないですか?」
「いや、怪我はしてねー。まったくの無傷なんだけどよぉ〜、ちょっと、風邪引いちまったかも」
「風邪?」
 予想外だったらしく、ジョルノはやや上擦った声で聞き返してきた。
「うん、あのヤロー根性が悪くってさ、死に際にオレを運河に落としやがって……あ、ちゃんと殺したからな」
「わかってる。それで、濡れたまま過ごしてたんですか?」
「うん。バイク乗ってたらいくらか乾いたんだけど、寒くてよ」
「…………」
「いやっだって! びしょ濡れでブティックには入れねーだろ? んなことしてフーゴにバレてみろ、『ジョジョのメンツが潰れるようなことしてんじゃあねーぞッこのドグサレが!』ってまた怒られちまうじゃあねーか!」
 物真似まで織り込んだミスタの必死の言い訳が功を奏したか、ジョルノは「……確かに彼ならそう言うかな」と意識して腑に落とした様子でつぶやいた。
「ぼくは全然構わないんだけど」
 語尾に混じった苦笑を聞き取り、ミスタはほっと胸をなでおろした。フーゴからの叱責を免れても、ジョルノに怒られてしまったのでは本末転倒だ。ミスタはできるだけ気分よく仕事がしたい。
「まあ、あったかくしてしばらく寝てりゃあマシになるだろ。予定通り明日チェックアウトして戻るから」
「わかりました。今夜はよく休んでください。お疲れ様でした、ミスタ」
「おう」
 通話を終え、携帯電話を枕の横に放ると、ミスタはそのまましばらく眠った。
 日が暮れた頃に腹を空かせたピストルズに起こされ、ルームサービスを呼んで軽食を摂らせた。ミスタ自身は食欲がなく、炭酸水をあおって、再び布団をかぶった。

 そこから寝たのか寝ていないのかよくわからないうちに、気付けば朝になっていた。
 体調はすこぶる悪い。ミスタは時折うなりながら、しきりに寝返りを打つ。
 閉じた目の奥が、泣いたあとのように熱くて重たい。仰向けの状態から少し首をひねって頭を動かしてみると、耳の下から鎖骨のあたりにかけて、筋肉痛にも似た鈍い痛みが広がった。
 今の今まで後頭部を乗せていた枕のへこみに、そっと手を差し入れてみる。枕カバー越しに甲をもっちりと受け止めた低反発素材には、普段より高い体温がすっかり移ってしまっている。手のひら側に触れた後頭部ももちろん熱くて、滲んだ汗で髪が湿っていた。
 現時点ですでに持て余している体温は、これからさらに上がりそうだ。布団をまくって足だけを出したり、蹴飛ばして足元に追いやったりしてみては、悪寒に負けて口元までもぞもぞ引っ張り上げるのをかれこれ小一時間は繰り返している。
 すっぽりと布団をかぶったまま、重い体を横に向けた。手首から先だけを布団から出すと、手のひらから熱が抜けていくようで少しだけ不快感が和らぐ。
 しかしこの体勢も、しばらくすればまたどこかしら具合が悪くなるのだろう。一分でも長く楽な状態が続くことを願いながら、ミスタは開いた口からひとつため息を漏らした。口元にわだかまっている布団の端が、即座に熱い呼気を跳ね返してくる。早くも先行き不安だ。
「あーーー、クソ……」
 結局さほど間をおかずに、ミスタは悪態をつきつつうつ伏せになった。枕に顔の下半分を埋め、バテたスフィンクスのような体勢で目を開ける。潤んでいるのにひりつく目をしばたかせながらヘッドボードの時計を見ると、ちょうど今デジタル表示が9:25に切り替わったところだった。チェックアウトの時間は10時。そろそろ起きて支度を始めたほうがいい頃合いだろう。あらかじめセットしておいたアラームも、あと5分すれば鳴るはずだ。
 ミスタは枕の脇に両手をつくと、熱いシーツから体を引き剥がすようにして身を起こした。座っただけでぐらりと視界が揺れ、思わず額に手を当ててうつむく。頭の芯が痛くて、重い。十年前の風邪よりさらにたちが悪いかもしれない。
「シャワー浴びたらマシになるかぁ……?」
 口ではそうひとりごちながらも、再びベッドに倒れ込んでいる自分がいる。主人の異常を察知したか、ヘッドボードの拳銃から出てきたピストルズが心配そうにミスタの頭の周辺に集う。
「ドーシタンダヨ、ミスタァー?」
「起キネーノカ?」
「ナンカ顔ガ真ッ赤ダゼェ〜」
 聞き慣れた高い声がやけに頭に響く。ちょっと静かにしてくれるかと言おうとした瞬間、セットしていたアラームが鳴り出した。ミスタは眉間にしわを寄せて、枕元のパネルに手を伸ばす。視界がぼやけて、ボタンの文字がよく見えない。
「ピストルズ──」
 ボタンを押そうと人差し指を立てたままの手が、ぱたりとシーツの上に落ちる。一番近くに寄ってきているのはNo.1だろうか。
「とめてくんねー? これ……」
 それだけ言い残して、ミスタは力尽きた。頼んだとおりすぐにアラーム音は止められたので、せめてそれだけでも褒めてやりたかったが、言葉を発するのも億劫だった。
「止メタゼェ、ミスタ!」
「攻撃サレテイルノカッ!? シッカリシロォ!」
 ピストルズが口々に呼びかけてきているが、もううるさくはない。水の底で聞いているかのようだ。ぴたぴたと頬に触れる小さな手はひんやりしている。
 ああ、こいつらの手って冷たいんだ。まだ朝飯食わせてない。今日は一日晴れかな。バイク海水で濡れたままほったらかしてるから錆びてるかも。チェックアウトしないと。熱い。ジョルノ──
 脈絡のない思考がとめどなく浮かんでは、消えない帯となって水面に落ちていく。重なり合ったそれらが、水底に沈んだミスタにかろうじて届いていた光や音を遮ってしまう。
「ウエェーン! ミスタァ〜〜〜……」
 No.5の泣き声を聞いたのを最後に、ミスタの意識は完全に影に覆われた。