控えめなノックの音に、本を読んでいた飯田は顔を上げてドアを見た。続けて確認した時計の針は、午後十時十分を差している。
遅い来客だが、飯田は動じることなく椅子から立ち上がる。たとえアポがなくても、深夜に自分の部屋を訪れる人物について、飯田には大いに心当たりがあった。
「どちら様だ?」
ドアの前で板一枚隔てた向こう側の人物に問いかければ、すぐに「俺」と返事があった。それで十分だった。
鍵を回してドアを開けると、轟が立っていた。飯田が黙って背中でドアを押さえると、前を通ってするりと部屋の中に入ってくる。廊下に人気はない。それでも飯田は廊下から轟の背中を隠すように体の位置をずらしつつ、静かに、しかし素早く内側からドアを閉めて鍵をかけた。この間実に五秒。
「急に来てわりいな。寝てたか?」
「いや、本を読んでいたから問題ないよ。どうかしたのか?」
勝手知ったる様子でベッドに腰かけた轟に問いながら、飯田は対面の勉強椅子に座る。今日は大浴場での入浴を早めに終えているので、飯田も轟もラフな部屋着姿だった。轟の着ているTシャツに既視感を覚えたのは、つい最近彼がこの服を脱ぎ捨てるのを間近で見たからだ。大浴場の脱衣所や学校の更衣室などではなく、今いる飯田のベッドの上で。確か時間も今と同じくらいだったが、あの日は翌日が休みだった。
「……明日も学校だぞ」
その後の展開を思い出しそうになる記憶中枢に待ったをかけた飯田は、まだ何も言っていない目の前の轟にもついでに釘を刺した。
飯田が言外に込めた意味に気付いたかどうかは測りかねるが、轟はいつもの抑揚のない声音で「わかってる」と言った。その顔色はごく平常で、確かに邪なことを考えてここを訪れたふうではない。僕こそ邪推だったか、と飯田はそっと恥じた。
「おまえに渡してえもんがあって来た」
「渡したいもの? 何……あ、君の部屋に忘れ物でもしていたかな!?」
「そうじゃねえ」
どうも今日は早合点がすぎていけない。むむっと口をつぐんだ飯田を尻目に、轟はハーフパンツのポケットに手を突っ込み、中から出したものを差し出した。小さなセロハンの包みが白い照明を水面のようにたたえている。受け取ってから、飯田は包みを目の高さに持ち上げてまじまじと見た。中には焼き菓子が入っているようだ。
「これは……マドレーヌか?」
「ああ。砂藤が作って、さっき何人かで食べたんだ。うまかったからおまえにもやろうと思ってとっといた」
「へえ、砂藤くんが! すごいな彼は」
砂藤の作ったシフォンケーキに舌鼓を打ったことは記憶に新しい。菓子作りはからっきしの飯田は手放しに砂藤を絶賛したのち、シュッと出した片手を手刀のように動かしながら「ありがとう、轟くん!」と快活に礼を言った。それからマドレーヌに視線を戻し、しばし思案した。
規則正しい生活をよしとする飯田は、夜間に菓子を食べることはめったにない。だが目の前のマドレーヌはとてもうまそうだし、手作りなら早く食べたほうがいい気もする。何より、これは轟が飯田のためにと持ち帰ってきてくれたものだ。うまかったと言う彼に、今ここで共感したかった。自分が轟の立場なら、そうされるのが嬉しい。
「今、食べてもいいかな?」
「ああ」
確認をとると、轟はなぜ俺に許可を乞うんだという顔をしつつも、あっさりと頷いた。飯田はセロハンの袋をていねいに開け、マドレーヌを取り出す。甘いバターの香りが漂った。油の染みた紙カップの縁から数ミリ膨らんだ生地は、きれいなきつね色をしている。紙カップを剥がして一口大にちぎり、口に運ぶと、バターに混じって少しの洋酒と、爽やかな柑橘の風味を感じた。断面を見るに、橙色の細切れが混ぜ込んであるようだ。素朴ながらディテールへのこだわりを感じる出来映えに、彼はパティシエとしても大成しそうだと飯田は心の中で今一度砂藤を賞賛した。
「うむ、うまい! 中のこれは砂糖漬けか何かかな」
「それは……何て言ってたかな、みかんの皮……ああ、オレンジピール? らしい」
「おお、オレンジなのか! 皮はこんな味がするんだな」
果実の部分からできているオレンジジュースは日常的に飲んでいるが、皮には馴染みがなかった。兄はよくトーストにママレードを塗って朝食に食べていたが、あれもこんな味がしたのだろうか。昔から兄に憧れていた自分ももちろん真似をして食べたことがあるはずなのに、そのときのことは記憶にない。甘さに混じるこの苦さは、幼少の頃の自分には受け付けなかったのかもしれない。二口目はそれこそ少し苦い気持ちで食べた。
ちぎる必要のなくなった三口目を食べようとしたとき、向かいからじっとこちらを見る二色の瞳と視線が合った。凝視されていた気恥ずかしさを振り切るように、飯田は最後の一口を轟に差し出した。
「轟くんも」
「俺はさっき食ったぞ」
「それは知っているけど。しかし、君の前で俺ばかり食べるのも」
飯田はそこでふと言葉を切った。マドレーヌを全部一人で食べて「ごちそうさま、ありがとう」と伝えたとしても轟は全く気にしなかっただろうし、そもそも飯田のために持ってきてくれたのだからむしろそれが正解だったのだろう。だが、何かが引っ掛かった。俺ばかり食べるのも悪いから? 申し訳ないから? いやいや、そういう他人行儀な話ではない。マドレーヌのかけらを持ったままぐるぐると考えている飯田を、轟は急かすでもなく変わらずじっと見つめている。
「……俺ばかり食べるのも、さみしいじゃないか」
さみしい。
訴えるような言葉がするりと出てきて、飯田は自分で驚いた。違う、と訂正を入れるには妙にしっくりきてしまったその言葉に応えるように、向かいの轟が身を乗り出す。両手はベッドと膝の上にそれぞれ無造作に投げ出されたままだ。薄い唇は剥かれた紙カップだけを器用に避け、飯田の指を掠めてマドレーヌをさらっていった。氷と炎をその身に併せ持つ彼の唇には、きっと炎のほうの力が秘められている。少し前に身に刻んだことをまた思い知らされた。じりじりと焦がされたように疼く人差し指を、飯田は息を詰めて握り込んだ。
「……うん、うめえな」
「あ、ああ、そうだろう!?」
「ふっ……『そうだろう!?』って……俺がそう思ったからこうしておまえに持ってきたんだろ」
整った顔をわずか崩して笑った轟に、飯田はほっとした心地で笑みを返した。
危なかった、と思った。おかしそうに笑ってくれた轟に安堵した。だから飯田は、笑みの残った顔のまま「飯田おまえ、口についてるぞ、マドレーヌ」と手招きした轟に導かれるように、「本当か?」と自然と身を乗り出してしまったのだ。
「──わっ!?」
手招きをしていた轟の右手が流れるように飯田の手首をつかみ、勢いよく引いた。椅子から尻を浮かしかけていた飯田はバランスを崩し、轟を巻き込んでうつ伏せにベッドに倒れた。単なるいたずらだと解釈するには、飯田は轟に染められすぎている。獲物を手中に収めたとわかるや否や笑みの形を変えた轟のその目の色に、かっと耳が熱くなった。
「重いな」
「す、すまな……じゃなくて! おい、轟くん! 明日も学校だと言っただろう!」
「わかってる」
「わかってるならどいてよ!」
「おまえが乗ってるから無理だ」
「屁理屈を……!」
左手首をつかまれたままかろうじて上体だけを起こした飯田は、空いた手を千手観音のごとく振り回して抗議の言葉を並べた。平和に菓子を食べていただけだったのに、一体何がどうしてこうなった。感情の触れ幅が決して大きいわけではない轟のことが、飯田は未だよくわからない。
ただでさえバリエーションに乏しい飯田の罵倒は、脇腹をするりと撫でた轟の手によって強制的に打ち切られた。下から突き上げるように腰を押し当てられ、ん、と鼻にかかった声を漏らしてしまう自分が恨めしい。今までこういう状況に持ち込まれたとき、「嫌なら逃げろよ」と目の前の男に何度言われてきただろう。飯田は逃げられたためしがない。本当に逃がそうとしてくれたのは最初だけだったし、そこで逃げなかったとき以来、飯田が逃げようとしたためしもなかった。轟と気持ちが通じた日から両足にかかった愛という見えない枷が、飯田はときに恐ろしい。
「俺は最初から、する気で来た」
「なっ!」
「だいたい、あんなこそこそ出迎えられたら悪いことしたくなるに決まってる」
「う……!」
轟のTシャツの裾がめくれている。この服におぼえた既視感からはたらいた自分の勘は、やはり邪推などではなかったのだ。轟だってそこまで意識して入浴後の着替えにこの服を選んだのではないだろうが、「策士」という二文字を思い浮かべずにはいられない。顔色がいつも通りだからと、どうして油断したのだろう。邪な感情を無表情の下に隠すという彼の特技を、どうして忘れてしまっていたのか。
「それに……飯田」
「なっ、ぁ、なんだ……!」
いつの間にか拘束は両腕に及んでいた。ぐっと下から引っ張られて、飯田は為す術なく轟に覆い被さった。見慣れたチェック柄のシーツを背景にした轟の顔が不意にぼやける。
「……俺だって、何もしないで帰るのは、さみしい」
ずれた眼鏡の向こうで、轟はからかいの色のない、拗ねたような声でそう言った。
「ぐ」と喉元でつぶれた音を発し、眉間にしわを寄せ、食い破らんばかりに下唇を噛み締めて。それでも首から上の熱さをやり過ごせないと悟って、飯田はようやく体の力を抜いた。シーツについていた肘を崩し、轟の肩口に顔をうずめる。石鹸の香りに、轟のにおいが混じっている。 条件反射のように一度震えた体をなだめようと、飯田は大きく息をついた。結局効果はなかったが。
「……ずるいよ、きみは」
形ばかりの非難の余韻も消えないうちに、唇が塞がれた。思い出したように漂った甘く苦い柑橘の香りは、ほどなくして二人分の汗のにおいにかき消されていった。