鏡映しの黒猫

 ぴりぴりと痛む頬をさすりながら、ホルマジオはくたびれたソファーに乱暴に腰掛けた。
 背もたれに体を預けて仰いだぼろい天井を、ぬっと出てきた見慣れた顔が遮る。束ねた髪の毛先に輪郭をくすぐられ、ホルマジオは鬱陶しそうに首を横に向ける。上からホルマジオの顔を覗き込んでいたその男は、ふんと愉快そうに笑って背もたれの上に頬杖をついた。壁にかかった鏡の中から、上体だけを乗り出して。
「なんだよ、またやられたのか。いつもフラれて切ねえなぁ」
「うるせー」
 ホルマジオは舌を打つ。頬から離して確認してみた手のひらには、わずかに血が付着している。ほかでもない、ホルマジオ自身の血だった。容赦なく引っかかれた右頬には、赤い三本線がくっきりと残っているに違いなかった。
「思いっきりやりやがった。とびきり高ぇ缶詰くれてやったってのによ〜、ちょっと構ってやろうとしたらこれだぜ。あのメス猫がよ〜」
「マジに猫なんだから笑えるぜ。エサんときだけアテにされて、都合のいい男だな、おまえ」
 ホルマジオは背もたれに片腕を乗せ、背後を振り向いた。目が合ったイルーゾォは意地悪くにやにやと笑っていて、自分に追い打ちをかけるべく、次の言葉を探しているようだ。
 イルーゾォの背後、鏡に映り込んだソファーに、ホルマジオの姿はない。どうせイルーゾォは、少しでも分が悪くなれば、安全が確約された鏡の世界に今日もさっさとずらかるつもりなのだろう。
 自分はおそらく、気は長いほうだとホルマジオは自負している。そういうフリが必要なときはともかく、つまらないことで簡単に激昂したりはしない。もちろん、イルーゾォの挑発や軽口に本気でキレたことだって一度もなかった。
 イルーゾォはいつだって、ホルマジオと真正面からは向き合わない。鏡の中とか、居合わせた他のメンバーとか、とにかく必ず近くに逃げ場を確保している。思わせぶりにちょっかいは出してくるくせに。
 お前だって同じだ、とホルマジオは思う。
 お前だって、猫と同じだ。いい思いをしたくて寄ってくるくせ、こちらが好きに動くことは許そうとしないあのメス猫と。
「そおだな〜、いやまったく、イヤんなっちまうぜ」
 気だるさを隠さずそう言えば、イルーゾォはますます愉快そうに笑みを深くした。
「なんだ珍しい、弱気じゃねーか。おまえらしくねーんじゃあねーの?」
「弱気にもなるっつーの。毎回こんな痛い目見てよぉ。……慰めてくれるメス猫でもいたら救われんだけどなぁ〜」
 ホルマジオはイルーゾォを見たまま手を伸ばし、背もたれの上に無防備に重ねられていた腕をつかんだ。
 イルーゾォは目を見開き、ひいっと情けない声を上げる。意地の悪いにやにや笑いは、そっくり全部ホルマジオのほうに移った。
「なあ、なんとかならねーか、イルーゾォ。いっつも好きな子につれなくされてばっかりなんだ、オレぁよぉ〜。たまには慰めてくれよ」
「あ、ああ……? ばっ、おまえ、そんな、そんなの、オレが知るかよ!」
 途端にしどろもどろになったイルーゾォは、ぶんと勢いよく腕を振ってホルマジオの手を払ったかと思うと、あっという間に鏡の中に逃げ込んでしまった。左右反転した世界の中、イルーゾォはソファーの向こうに身を隠してしまう。ホルマジオは反射的に首を回してソファーの足元を確認したが、こちらの世界のどこにも、当然イルーゾォの姿はなかった。そして鏡の中に行ってしまったイルーゾォのほうからも、もうホルマジオの姿は見えないはずだ。マン・イン・ザ・ミラーはそういう能力だった。
 イルーゾォが息を潜めているだろう虚構のソファーに向けて、ホルマジオはそっと手を伸ばしてみる。案の定、硬いガラスの感覚に弾かれた。予想はしていたが、自分の侵入は許可されていない。
 つれない。わかりやすいくせに、本当につれない。もうこちらの手は届かないのだから、せめて見えるところに出てきてくれたっていいのに。
 贔屓のメス猫に引っかかれた頬の傷が、また思い出したようにぴりぴりと痛む。ホルマジオは鏡を睨んだまま右頬を押さえ、弾かれた指先を握り込みながら、「しょーがねーなあ」と極めて低く呟くのだった。