思いもしなかった。
恋人と愛を育み、並んで眠るための大きなベッドが、苛立った言葉の飛び交うリングと化す日が来ようとは。
白い枕カバーの上に流れる自分の金髪を眺めつつ、寝転んだままのジョルノは起きて早々深いため息をついた。
朝日を柔らかく受け止めるベッドの上に、ミスタはいない。寝転んでいるのはジョルノひとりきりだ。それ自体は日常的な光景と言えるのだが、問題はジョルノが昨日の夜からベッドの上にひとりきりであることだった。
「もういい、おめーの隣で寝んのもシャクだ。オレあっちのソファーで寝るから!」
昨夜。眉をしかめ、この上なく正直に心情を吐き捨てて、ミスタは荒っぽい動作でベッドから下りた。
シャワーを済ませて寝室に入り、揃ってベッドに潜り込んだときまでは、いつもとなんら変わらない平和な時間が流れていたことは間違いない。それなのに、一体どうしてあんなことに。
自分が変に意地を張ったことに、ミスタが怒ったんだったか。それとも、ミスタの勝手な言動に自分が怒ったんだったか。
ためらいなく寝室を出ていってしまった背中があまりに鮮烈に脳裏に焼き付いていて、ジョルノは喧嘩の発端すら思い出せなかった。
「……どうしよう」
ろくに眠れなかったせいでひりつく瞳をまぶしさに細めつつ、ジョルノは小さくひとりごちる。
一方的にいじめられていたことこそあれど、ジョルノは過去に誰かと口喧嘩をしたことは一度もなかった。まず、口喧嘩をできるほど対等で、心を許せる相手がいなかった。
生まれて初めて、その枠にぴったり収まってくれたのがミスタだ。ジョルノにとってミスタは頼れる部下であり、気のおけない仲間であり、かけがえのない恋人。そして、自分の感情に大した興味も持たずなんとなくここまで生きてこられてしまったジョルノに、感情につけるべき名を折に触れて教えてくれる男だった。たとえそれが負の感情であったとしても、ミスタは決してそれを名無しのままで放っておかずにいてくれる。その感情をどんな言葉で相手に伝え、どういうふうに対処すればいいのかを、やや雑ながらシンプルにジョルノに示してくれるのが常だった。
そのミスタがジョルノにとっての初めての口喧嘩の相手になったのは、ある意味当然のことといえる。親しくなって、一緒に暮らし、多く会話をしていれば、それだけ感情の齟齬が生じる機会も増えるものだ。
しかし、これまで喧嘩をしたことがないジョルノには、その理屈がわからない。
だから今、とても焦っている。ミスタと仲違いしたまま夜が明けてしまったことに。
早急に仲直りというやつをするべきなのだろうが、具体的にどういう手順を踏めばいいのか見当もつかない。こういうとき道を示してくれるのがミスタなのに、よりによってその彼と喧嘩をしてしまった。昨日ミスタが後ろ手で閉めたきりそのままになっている寝室のドアを眺めて、ジョルノはまたひとつため息をついた。
ベッドから下りて寝室の入り口に近付き、そっとドアに耳を押し当ててみる。リビングのほうから、食器の触れ合う音がかすかに聞こえてくる。ミスタも起きているようだ。
ジョルノの行動は二択に絞られた。ベッドに戻り、息を潜めてミスタの出方を窺うか。それとも、とりあえずリビングに出て、ミスタと顔を合わすか。
閉じたドアの前に立つジョルノの脳裏に、昨夜のミスタの背中がまた蘇る。振り返らずドアの向こうに消えたあの後ろ姿。
ここで自分が何も行動を起こさずにいたら、ミスタは同じように玄関のドアからも出ていってしまうのではないか。なんの後腐れもなさそうなひょうひょうとした足取りで、ジョルノの隣にぽっかりと枠だけを残して、いなくなってしまうのではないか。
ジョルノはドアノブに手をかけた。内側から押せば、合板のドアは容易く開く。起こすべき行動を決めるのに、リビングに続く廊下は短すぎる。深呼吸をする余裕すらなく、息を詰めて、リビングのドアを開けた。
まずジョルノを出迎えたのはコーヒーの香りだった。ミスタはキッチンカウンターの向こうにいて、身を屈め、オレンジ色のライトの灯ったオーブントースターの中を覗き込んでいる。ジョルノがカウンターに近付くと、彼はぱっと振り向いた。
「ああ、起きたのか。おはよ。もうひとつコルネット焼くわ。コーヒーも飲むだろ?」
ジョルノは瞬いた。向けられた表情も、かけられた言葉も、普段とまるで変わりない。肩透かしを食ったような心地で、ジョルノは所在なさげにカウンターの前に佇んだまま、「ああ、はい……」と歯切れの悪い返答をした。
ミスタは紙袋から取り出したコルネットを手際よくオーブントースターの中に入れ、食器棚から二つのマグカップを出してくる。カウンターから身を乗り出して、それをジョルノに手渡した。
「オレはコルネットが焦げねーように見てるから。おまえ、コーヒー注いどいて」
オレブラックな、と自分のカップを指差してからさっさとオーブントースターに向き直る所作もいつも通りで、昨日怒って寝室を出ていったのが嘘のように思えてくるくらいだ。
しかし、ほどなくしてジョルノは気付いた。くるくるとキッチンの中で朝食の支度をするミスタの動きに、ほんの少しばかり無駄が多いことに。意味もなく何度も冷蔵庫を開けたり、シンク下の収納の中身を整え出したり。よく見ていなければわからない程度の、些細なぎこちなさ。一度気付いてしまえば、ジョルノの胸を締め付けるには十分すぎる違和感だった。
「……ミスタ」
カウンターにマグカップを置き、ジョルノはキッチンに回り込んだ。ミスタがこちらを見る。黒い瞳がぱちぱちと瞬く。彼が驚いたときによく見せる仕草だ。やっぱりミスタも、どこか緊張してジョルノに接している。
悟られまいと振る舞う彼に甘えて、何でもない顔でこの場をやり過ごしてはいけない気がした。いま心の中に渦巻く感情の名は、ミスタのおかげですでに知っている。ミスタに伝え、対処すべき感情であるということも。
「……不安なんです。言い合いなんて、したことがなかったから。相手がきみだし、もし取り返しのつかないことになったら、悔やんでも悔やみきれない」
「へっ?」
ミスタが短く声を発する。
「──だから、その……教えてもらえます? 仲直りの仕方」
チン、とオーブントースターが小気味よい音を上げた。じりじりと回るタイマー音の余韻が止んで、代わりにふ、とミスタの口元から短い吐息の音が聞こえた。
「……どんな顔して教えりゃいいんだよ、そんなの」
やりづれーなあ。
面倒くさそうに言われてしまい、ジョルノはわずかに首をすくめた。今日に限らず、ミスタにとっての面倒くさい奴である自覚は大いにある。
一度視線を落とし、窺うように再び持ち上げたとき、かち合ったミスタの目は優しかった。それで、ジョルノはようやく気付いた。もしかしたらもう、仲直りはできているのかもしれないと。