「なあ、あの猫飼いてぇんだけど」
執務室の窓際で、ミスタが言った。
デスクについていたジョルノは、書類から顔を上げた。とうとう来たか、と思った。いつか絶対言うだろうなとは思っていたのだ。いったいいつの間に入り込んだのか、しなやかな体躯の黒猫が屋敷の敷地内に住み着いてしまったあの日から。
「ダメです」
窓に張り付くようにして中庭を眺める後頭部に向かってぴしゃりと言うと、ミスタは「何でだよ!」と不満も露わにこちらを振り向いた。
「おめーが言うから、病院連れてって去勢までしたのに?」
「それは、ここで繁殖されたら手に負えなくなるからです。野良にだって去勢は必要だ」
「……学校からパン持って帰って食わせてやってたの見たぜ? わざわざミルクに浸して!」
「別に、野良にエサやったっていいでしょう? あのパンはうまいから、食べきれなくて捨てるのが忍びなかっただけです」
「屁理屈ばっかこねんじゃあねー!」
苛立つミスタに反応したか、単身発現したNo.3が、うちの主人に何を言ったんだとばかりにこちらを睨みつけてくる。ジョルノはため息をついて立ち上がり、ミスタの隣に歩を進めた。げしげしと蹴ってくるNo.3を手のひらでいなしつつ、窓の外を見る。見慣れた黒猫が、今日も広い中庭のど真ん中で悠々と日向ぼっこをしていた。仰向けに寝転がり、太陽に向かって腹まで晒すくつろぎっぷりだ。その様子を見て、機嫌を損ねかけていたミスタの頬がわかりやすく緩んだ。
「あーあ、可愛いよなぁ。安心しきっちゃって、警戒心のカケラもねぇ」
「そうですね。確かに可愛い」
「だろ? だからさぁジョルノ、」
「ダメ。きみのことだから、飼うとなったら屋敷の中でも可愛がりたいとか、アパートに持って帰って抱っこして寝たいとか言うんでしょう」
「わ、わりいかよ」
「めちゃくちゃにされますよ、何もかも。壁も、書類も、きみのお気に入りのソファーも、服も、本も、銃もッ!」
語調に力を込めつつ畳みかけてやると、ミスタは目を真ん丸にして言葉を詰まらせ、腰に差した銃を守るようにさっと手で覆った。No.3は「ナンカヨクワカンネーケド、銃ガ壊レンノハ困ルゼェ〜!」と言い残し、ミスタの指の隙間から弾倉の中に戻っていった。
「それに、ぼくらだっていつもそばで面倒見てやれるわけじゃあない。任務で何日もここを空けることだってある。そんな人間に飼われるのは、あの猫にとって幸せかどうか──」
「あーっもうっ! わかった! わかりましたッ!」
至極真っ当と思える理屈で説得しようとしたジョルノを遮って、ミスタは不服そうに下唇を突き出し、鼻息荒く執務室を出ていってしまった。ジョルノはあとを追わない。小さく肩をすくめて、傍らの応接用ソファーに腰を下ろす。短気な拳銃使いが放り出していった本を眺めつつしばらく過ごしていると、やがて中庭から賑やかな声が聞こえてきた。ジョルノは本を閉じ、窓の外に視線を向ける。拗ねて出ていったばかりのミスタが、日向ぼっこ中の黒猫にちょっかいを出していた。日光を受けたふかふかとやわらかそうな腹や不思議な動き方をするしっぽには、ピストルズが全力でじゃれついている。ギャングのアジト内らしからぬ、微笑ましい光景だ。
ミスタが猫を抱き上げてこちらに向かってきたので、ジョルノは慌てて口元を引き締めた。コンコンと指でガラスを叩くミスタに応え、猫が飛び込んで来ないよう気をつけながら細く窓を開ける。
「なにか?」
「名前つけるのはいいだろ?」
硝煙やオイルでくすんだ指先で猫のあごの下をくすぐりながら、ミスタは「それもダメ?」とわずかに眉を下げてジョルノを見る。今度はジョルノが言葉を詰まらせる番だった。狙った標的は絶対に外さないパッショーネの凄腕拳銃使いは、ジョルノの弱点も例外なく狙い撃ってくる。
名前なんてバレないように勝手につければいいのに、変なところで律儀にお伺いを立ててくるから調子が狂ってしまう。わざとなのか無自覚なのか、未だジョルノに悟らせないところも含めて、たちが悪い。ミスタに倣うように澄んだペリドットの瞳でこちらを見てくる猫にも気圧され、ジョルノはため息をついた。
「……まあ、いいですよ。名前ぐらいだったら」
「やった!」
「その代わり、名前つけたからってその猫を室内には、」
「わかってる、今日は諦める」
さらりと発せられたミスタの言葉を頭の中で復唱したジョルノは、一拍遅れて口にも出して復唱した。
「今日は?」
「うん、今日は。猫に荒らされそうなモンは片付ければいいんだし、よく考えたら」
「片付けられないものは?」
「おいおい考える」
「はあ……」
「おめーだって、ほんとはコイツのことめいっぱい可愛がって、夜は抱っこして寝たいに決まってるからな」
「ちょっと、ミスタ──」
「よしよし、ガッティーナ。なんて名前にしてやろーなぁ? ネロ? ノッテ? それともノワールがいいかな?」
ジョルノの反論をかわすように、猫を抱いたミスタはくるりとこちらに背中を向けて、中庭の日当たり良好なスポットに戻っていってしまう。ジョルノは黙って窓を閉めた。猫と戯れるミスタの後ろ姿を、ガラス越しに眺める。
「わかってないなぁ、きみは」
人の感情の機微に聡く、心を読んだような物言いで相手を手玉に取ることも多いミスタだが、ときどき自信たっぷりに的外れなことをのたまうことがある。
好きに触れて可愛がり、抱いて眠ることができる。そんなことを切り札とばかりにセールスポイントにされたって、ジョルノには響かない。間に合っているからだ。もう一匹迎え入れるまでもない。
それにもし、あの黒猫が自分とミスタの飼い猫になったら。屋敷やアパートの一室に招き入れられ、我が物顔で鎮座するようになったら。ご機嫌で猫に構うミスタの背中を、じりじりと蚊帳の外から眺めることが増えるのは間違いない。今のように。
ミスタの心を奪う、愛くるしさでは絶対にかなわない存在が常に身近にいるようになるなんて、考えるだけでジョルノは憂鬱になってしまう。そのへんのことを全然わかってくれちゃあいないのだ、ミスタは。
窓の向こう、ミスタは相変わらず楽しそうに猫に話しかけている。猫もミスタを見上げて、口元を動かして何やら相槌を打っているようだ。
猫の言葉なんてわかるんだろうか。わかるのかもしれないなぁ、彼は。
こちらを気にする様子もないミスタの後ろ姿を観察するのもむなしくて、ジョルノはぷいと窓から顔を背けて、またミスタの本を手にとった。適当にページをめくろうとした指に力がこもって、紙の端が破れた。構いやしなかった。