ベッドに倒れ込んでからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。目を閉じたまま、ミスタはうめく。
悪夢と幻覚の混じったゲルの中を延々漂っているようだ。寝転んでいても、妙に頭が冴えてしまっていて熟睡できない。熱で脳が茹だっているのか、取り留めのないことが目まぐるしく浮かんでは消えて、さっさと意識を手放してしまいたいミスタの邪魔をする。
この調子じゃあどうせ眠れないんだから、普通にネアポリスまで帰ればよかったんじゃあないか?
朦朧とした頭の中をそんな考えがよぎったりもしたが、水を飲もうと上体を起こしただけでめまいがしたし、トイレに立てば足元がふらついて、とてもじゃないが一人で外を出歩くのは無理だと悟った。
眠ることも起きていることも満足にできず、そばについていてくれる者もいない。逃れる術のない苦痛にそろそろ負けてしまいそうだ。
そのとき、玄関のほうからカチャリと小さく軽い音がしたのをミスタは聞いた。ドアが外からカードキーで開けられたのだ。何者かが気配も消さずに、何かを引きずりながら部屋の中に入ってくる。近付いてくる。その事実を耳で認識することしかできない。
敵が侵入して来たのだろうか。このまま寝首をかかれるのだろうか。普段なら考えもしない最悪のシナリオが、他人事のように脳裏につたなく描かれる。
熱をもった頬に、そっと触れたものがあった。冷たくはないが、心地よい温度と柔らかさをもっている。慈しむように肌を撫でられる感触はミスタにとっては馴染みの深いもので、だからこそこれも夢だと思った。それか、触覚を伴ったまぼろし。そうでなければ、今ここにいるはずのない男に触れられていることの説明がつかない。
「ミスタ」
今度は間近で名前を呼ばれた。ミスタはハ、と小さく笑った。幻聴まで聞こえるとは、いよいよヤバいのかもしれない。
ヤバいついでに、いっそ望みの幻視も見えたりしないものか。そう思って腫れぼったいまぶたを持ち上げてみると、眼前には果たしてジョルノの姿があった。横向きに寝転んだミスタの目の高さに合わせて屈んで、碧眼の上で形のいい眉を少し寄せ、こちらを見ている。
(最高にありがたくてむなしい幻覚だぜ、こりゃあ……)
生殺しにされた気分で再び目を閉じると、頬からすっと手が離れていく感触があった。そしてがさがさと何かを取り出すような音がしたかと思うと、火照りきった首筋に突然謎の衝撃が走った。ひゅっと息が詰まる。
「つめたッ!」
衝撃の正体を頭で認識するより早く、ひっくり返った声が出た。驚きで先ほどよりいくらかぱっちり開いた目の前には、やはりじっとこちらを見るジョルノがいる。その手にはミネラルウォーターのペットボトルがあった。あれを押し当てられていたらしい。
「ジョル、ノ……?」
何度瞬きをしても消えない男を見上げ、ミスタは呆然とその名をつぶやく。ジョルノはすぐに「はい」と返事をした。普段ミスタの呼びかけに応じるときと変わらない涼やかな声音だったが、その目元はかすかに歪んでいる気がする。幻なんかではなく、自分の身を案じたジョルノがわざわざ来てくれたのだと、ミスタは熱で鈍った思考回路でようやく理解した。
「おまえ……ネアポリスから……?」
「ええ、飛んできました。風邪は治してあげられないけど、きみについていたくて」
「マジか……」
窓からロールカーテン越しに淡い日光が差し込んできている。首をひねって枕元の時計を見てみると、正午から昼に差し掛かる時間だった。ピストルズがつないでくれた電話でジョルノと通話をしてから三時間弱といったところか。遠く離れたネアポリスから、ジョルノは文字通り空を飛んできたのだろう。
「熱、高いですね」
ミスタの額に触れながら、ジョルノがつぶやく。まるで初めからこの部屋にいて、ずっとミスタを見守ってきていたかのような自然さだ。
「何か食べられそう? いろいろ買ってきたけど」
まだ状況に追いつききれていないミスタをよそに、ジョルノはスーツケースを開けつつ問うてくる。ミスタは布団の下で腹をひとつさすった。ほぼ丸一日固形物を胃に入れていないため、そろそろ何か食べたほうがいいのだろうとは思うが、未だ食欲はない。
「まだ、いいや。この水だけもらうわ」
ミスタはゆっくり上体を起こして、シーツの上に転がっていたペットボトルの水を手に取った。
「こいつらに食わせてやれそうなもんある? 朝からメシやれてねーからよー……多分全員ヘバっちまってる」
覚束ない手付きでフタを開けながら、ヘッドボードを目で示す。無造作に置いてあるリボルバーの周辺は静かで、ミスタにしてみればそれは異常事態である。
ジョルノは頷き、スーツケースからサラミを取り出した。あらかじめ輪切りにされたサラミが平らにパウチされており、カットする手間が省けるのが魅力だが、パッケージがかさばるためミスタはあまり買わない形態のものだ。
「ピストルズ、出てこられる? サラミを持ってきたんだけど」
ジョルノがパッケージを開けながらリボルバーに向かって呼びかけると、どこにそんな元気があったのか、弾かれたようにピストルズが飛び出してきた。
「ジョルノォ! 来テクレタノカァーッ!」
「ワギャーーーッ! サラミ! サラミ!」
「腹ヘッタゼェ! オレガ先ダァ!」
「イタッ! ウ、ウゥ〜〜〜ッ……」
「ああ、喧嘩しないで……たくさんあるから」
主人でないことなどお構いなしに一切の遠慮なく群がってくるピストルズに、ジョルノはちょっと圧されている。本体兼保護者であるミスタは申し訳なく思ったが、今はわんぱくなピストルズを一喝するだけの気力がない。
せめてもの監督責任として、6人全員がサラミにありついたのを見届けてから、ミスタはペットボトルをあおった。よく冷えた水が胃に流れ込んでいく感覚が心地よい。ごくごく喉を鳴らして一気に飲み干し、大きく息をつく。生き返った心地がした。
「あ、水、まだあるから出しますね」
ミスタの手の空のボトルに気付いたジョルノは、右手でピストルズにサラミのおかわりを渡しながら、空いている左手だけでスーツケースを探って新しいボトルを取り出す。やや無理のある体勢だ。
別に手からじゃあなくても置いときさえすればこいつらは勝手に食べるのに、とミスタは思いつつ、ピストルズに真摯に向き合ってくれるジョルノの様子に込み上げてくるものがあった。体調を崩すとこんなに感受性が豊かになりすぎてしまうものだっただろうか。受け取ったボトルの水も二口ほど飲んで、ミスタは鼻の奥のツンとした痛みをやり過ごした。
水分を摂ったこと、そしておそらく分身であるピストルズが食事をしたことで少し体が楽にはなったが、起き上がったままでいるのはまだ厳しい。枕に引っ張られるように横になり、ミスタはジョルノを仰ぐ。
元気になったピストルズをまとわせたジョルノが、ミスタと視線を結んだまま再びベッドの脇に屈んだ。下界に降りてきた神様みたいだなぁと、ミスタは思わず目を細める。ジョルノを呼び出してくれたのは元をたどればピストルズなので、今日に限っては彼らはさしずめ天使といったところか。
「つらそうだ。おでこ、冷やしましょうか」
「うん」
甘やかすような声音に溶かされる心地で頷けば、ジョルノは屈んだそばからまた立ち上がり、きびきびとした足取りでバスルームに消えていく。水を流す音がする。タオルを濡らしているようだ。
ジョルノの姿が見えなくなると、ミスタは少し冷静になった。
ヘマをして熱風邪なんて引いてしまった幹部のために、パッショーネのドンが本部を空けてまで遠路はるばるやってきた。立場を超えて深い付き合いがあり、気心から性感帯まで知り尽くした仲とはいえ、これはなかなかの大ごとだ。
不甲斐ない。組織に示しがつかないし、何よりジョルノに申し訳ない。そう思う一方で、ジョルノは他の部下にどう話をつけて来たのだろうかと、己の沽券に関わる部分を気にしてしまう器の小さい自分がいることにも気付く。
あらゆる意味でダサすぎるぜとミスタがため息を漏らしたとき、絞ったタオルを手にしたジョルノがバスルームから戻ってきた。自虐の気持ちでいっぱいだったのに、広げてたたみ直したタオルをそっと額に乗せてくれたジョルノの顔を見ていると、ふわふわした安心感に包まれて難しいことは考えられなくなってしまう。
「ごめんなぁ〜、ジョルノ。おまえをわざわざ、こんなとこまで……」
このまま有耶無耶になりそうな反省の気持ちをなんとか断片的な言葉に込めて、ミスタはジョルノに詫びた。いつものように芯の通らないふにゃふにゃの声が、情けなさに輪をかける。
サイドテーブルの近くにあった椅子をベッドの脇まで引っ張ってきたジョルノは、ミスタの謝罪を受けてきょとんとした様子で瞬いた。椅子に浅く腰掛け、上体を屈めてこちらを見つめてくる。
「謝らないで。ぼくが来たくて来たんですから」
「グラッツェ……愛されてんなオレ」
「ええ、愛してますよ」
照れくささから茶化したミスタに、若きギャングスターは間髪入れずに言った。同じような言葉でミスタをどぎまぎさせてくるときとは違い、やわらかな声音だった。母性すら感じられるくらいなのに、こちらに向けられる眼差しは心細げで、どこか迷子の子どもを思わせる。
丈夫さで売っている腹心が怪我ではなく高熱で弱っている姿に、ジョルノもまた不安を抱いているのだろうか。それを口にはしない彼を、ミスタはいじらしく思った。
ふいに指先の揃えられた手が伸びてきて、視界を覆う。濡れタオルの上から、ごく軽く額を押された。
「さっき見たとき、ここちょっとコブになってた。昨日の任務で?」
「コブ……? ああ、ちがう。朝ピストルズがケータイ落としてきたから、多分そのときだ」
「そう。痛かったですね」
つぶやいた声はやはり甘くやわらかで、宥めるように頭を撫でてくる手付きはどこまでも優しい。落ち着くのを通り越して、なんだかくすぐったい気分になってくる。ミスタは「いや、べつに、ヘーキだけど」ともごもご言いつつ、布団を鼻まで引っ張り上げた。
「汗で気持ち悪くないですか? 体、拭こうか?」
「んー……もうちょっと熱が下がってからがいいなぁ……」
「わかりました。解熱剤も買ってきたけど……何か腹に入れてから飲むほうがいいか、これは」
「うん」
「他に今、欲しいものとかやってほしいことはある? ミスタ」
「えー、と……」
椅子から落ちんばかりに身を乗り出して問うてくるジョルノにややたじろぎながらも、ミスタは一人のときにはなかった安らぎを感じていた。
風邪は治せないとジョルノは言ったが、こうしてそばについていてくれるだけで、あのまとわりついたゲルのようなだるさが和らいでいくのがわかる。熱はジョルノが来てから下がるどころか上がった気すらするが、不快ではない。頭を撫で続ける手の感覚がだんだん鈍くなって、それで今自分が眠くなってきていることに気付いた。ようやく、落ち着いて眠れそうだ。
ミスタが布団の下で大あくびをしたのに気付いたらしいジョルノが、動きを止める。髪から離れていこうとする指先を引き留めるように、ミスタはジョルノの袖をそっとつかんだ。
「そうやって、なでててほしい。オレが寝るまででいいから……」
二十歳前の男とは思えないことを言っている気がするが、頭がぼんやりしてうまく制御できない。離れかけていたジョルノの指先がぴくりと震えて、止まる。落ちたまぶたで半分ふさがった視界の中で、彼はどんな顔をしているのだろう。
「……こうしてても、いいの?」
掠れた声が降ってきた。普段のミスタなら、こっちが頼んでいるのに変なことをきくなぁと、ジョルノの発言の違和感にすぐに気付いただろう。高熱でふらつく足で眠りのふちぎりぎりに立っている今は、回らぬ舌で自分本位の話をすることしかできない。
「おめーがそうしてくれるだけで、ほっとするから……そばにいてくれ、ジョルノ」
小さく息を呑む音が届く。
日頃三つの年の差をいいことに、これでもかというほど兄貴風を吹かせているのだ。突然こんな女々しいこと言われたらそりゃあ驚くだろうなと、薄れていく意識の中でミスタは思った。もしかしたらちょっと引かれたかも、とも。気恥ずかしいが、どこか心地よくもある。変なプライドも熱で鈍っているのかもしれない。悪くなかった。
まぶたを完全に閉じ、一度吸って吐いた呼吸はすぐに寝息に変わった。髪を梳くよりずっと繊細に触れてくる手が、暖かな羽毛のような眠りの世界にミスタをやさしく沈めていく。
ミスタが寝入ってからも、ジョルノはその場を動かずにいた。布団の上からミスタの腹に手を置き、幼い子どもを寝かしつけるときのように、ぽんぽんとゆったりとしたリズムを刻む。起こすことのないよう、やさしく。
臥せった自分に、ジョルノが在りし日の孤独な黒髪の少年を重ねていたことも。
いたわるように自分に触れるたび、ジョルノの心の穴が塞がっていったことも。
震えるのを抑えるように噛み締められていた唇も。来たときから歪んでいた目元がさらに大きくゆらゆら揺らいで、そこからシーツにぽつりと落ちた涙も。それを見てざわめいたピストルズに人差し指を立ててみせ、「秘密にして」とささやいた不格好な笑顔も。
どれも知ることなく、ミスタは静かに眠り続けた。